第25話 死の嵐

「―――どうしたテメエら! 敵の指揮官はこのホーク様が殺したぞ! さぁ、このままダナスを攻め滅ぼせぇえ!!」


 頭上の、まるで予想もしていなかった場所から響く、第二総指揮官の驕慢に満ちた声。それは水の底のようなこの静寂の中、長大なダナトリア渓谷に滑稽なほど響きわたった。

 しかし、レストリア兵のただ一人として動かない。彼に一瞥すら呉れない。

 動けない。

 自分の相手から視線を外せない。

 一見静かなダナスの戦士から無尽蔵に膨らんでいく、その絶望的な“何か”に呑み込まれて。



「エルフィーネさん……でしたね」

「……え……あ、ああ……」

 不意に名前を呼ばれたからか、それとも、その後姿に今まで一度も感じなかったものを感じたからか、彼女は自分の返事とその呼吸の浅さに狼狽を覚えた。

「……今すぐ、逃げなさい。兵は率いず、音も殺して……」

 雨に叩かれながら身じろぎもせず静かに語るスピナーに、エルフィーネはただごくりと唾を呑んだ。

「そうしなければ、貴女といえども…………死にます」


 その次の瞬間―――

 ダナトリア渓谷に、この十年のどの戦いをとっても比較にすらならないほどの巨大な咆哮が生まれた。

 数千の人間の、数千の魂が吐き出す、悲しみと、苦しみと、怒りと、そして殺意の爆ぜる号砲。音だけで谷が震え、岩が欠け崩れ、雨が微かに煽られてレストリア軍へと打ちつけられる。もう誰も逃れることはできないと、全ての本能に悟らせるほどの。

 白馬隊の“壁”が崩壊し、一斉に渓谷奥へ傾れ込む。

 鍛え抜かれた強靭な肉体を持つ兵士達が、これまでの専守防衛を完全に捨て去り羅刹の顔で敵に襲いかかる。陣形も、隊列も何もない。一つ一つの修羅が集まった巨大な凶刃。

 鉄槍部隊の騎兵も、紫竜鉄鎖騎士団の強兵も、恐怖に全細胞を鷲掴みにされて背を向ける。しかしその殆どが四肢の竦みによって逃走すらまともに叶わない。馬もただ怯え、無軌道に走り出す。


 リリーが将軍の座に就いた一年半前から、白馬隊はこの谷で最も高い士気を誇り、最も粘り強い闘いを演じ、そして最も“絶対に生き抜く”という決意を持ち続けた部隊だった。

 そして今日という最後の決戦を迎え、その精神は白馬隊だけでなくダナス全軍を貫くに至っていた。


 “―――生きようとする兵達は目の前の闘いに粘り強く挑み、勝利を決して譲らない。その結果時間がかかってもいずれ敵を打ち砕き、そして数を減らさない”


 彼らは今日、レストリア最強の大軍に対して互角の戦いを見せた。この長引いていく闘いの先で、自分の命を絶対に諦めることなく、必ず多くの仲間と共に自らの足で大地に立ち、勝利の喜びで互いを抱きしめ合おうと。そして、その歓声はグレゴリア王に、金獅子、銀鳳、黒狼を率いる三英傑に、でもその誰よりも、この過酷な殺し合いの日々に疲弊する皆の心を支え続けてくれた一輪の花に捧げようと……全ての兵士が心に誓っていた。

 その白き花が……きっとこの戦いの終わりによって幸せを掴み大輪へと開いてくれたはずの彼女が、たった一本の矢によって“明日”を目前に死んでしまった。その時きっと、彼女を愛したダナス兵達の胸に咲く慈愛の花も鮮やかに散ってしまったのだ。


 “死んでも相手を殺す……そういう兵は何より怖い―――”


 ダナトリア渓谷は、この十年の膠着が嘘のようにダナス軍の津波で染まっていく。大地に溜まる雨水を、瞬く間に赤黒い凄惨へと塗り変えて。



 トッドはただ静かに佇んだまま、リリーの願いが終わったことを悟っていた。

 もう自分の声では白馬隊のただ一人すら止めることは出来ないだろう。どれほどに彼女の存在が大きかったのか、そして己が無力だったのか、胸に穿たれた空洞が無慈悲に教えてくる。


「俺の……俺の所為で……リリー様が…………」

 馬の上で、右頬から血を溢れさせながら、ランスはか細い声を漏らした。トッドの視線が彼へ向く。

「あの時、一瞬止まらなければ、俺が代わりになれたのに……! リリー様のこと……あいつらに託されたのに―――」

 彼の眼の前には、ジョシュの腕に支えられたまま完全に脱力しているリリーの姿。彼女の喉に生える矢は自分の頬の血や肉や骨を吸いながら彼女までもダナスから奪った。ほんの少しの天秤で運命は全く別のものになっていたのに、もう巻き戻せない。誰にも。自分が死んで彼女が生き残った別の“今”にすりかえることは出来ない。

 そう、ジョシュが口にしたように……リリーは死んだのだ。

「ちくしょおおおおおおおおおおおッ―――」

 頬の激痛も何もかも吹き飛ばしてランスは叫んだ。


 トッドはこの青年にすら何一つ言葉を与えられなかった。お前は悪くない、リリー様の叫びがお前を止めたのだ、お前に生きてほしいと彼女は願ったのだ……ただ胸の中で空しく、何度も繰り返しながら。



「な、なんだこいつら! ぐぉお……!!」

 あの数分間の静寂までは蛮勇を見せつけていたレストリアの巨人が、いま狂気の瞳で襲い来る無数の兵士達に恐怖していた。

 その巨大な鉄鎚を我武者羅に振り回しダナス兵を一人また一人と振り払う。だが骨を打ち砕かれても内臓を破裂させられても彼らは息のある限り起ってきた。

 ここまで散々彼らの同胞を叩き潰してきた巨人の狂喜が、その鋼の全身鎧に隠れて骨の髄まで凍りついている。

「うおおおあああああッ!」

 力任せに両手で振り下ろした鉄鎚がダナス兵の脳天を打ち破った。が……即死したはずのその兵の手が、たった一度だけ動きハンマーの柄を握りしめた。そして離さない。もう魂も失ったはずのその肉体が、一瞬で死後硬直へ辿りついたかのようにハンマーを離さない。

「う、うああッ! ば、バケモ……」

 巨人が表情のない鉄の兜の奥で確かに怯える顔を滲ませた、その直後―――


「―――死ねぇッ!!」


 今まで部下も対峙する敵も一度として聴いたことのないその一言が、彼を背後から馬で追い越すボードウィンの口吻に爆ぜる。そして彼は身を躍らせると右腕で巨人の首に絡み付き、左手に握る半壊した槍の切っ先を兜の僅かな空洞へ突っ込んだ。目元の、横一文字の空洞へ。乗ってきた馬はそのまま先へと駆けていき、ボードウィンは絶叫する巨人と共に泥水の中へ倒れ込んだ。砕けている脚に凄まじい激痛が奔る……が、それ以上の昂りが苦痛を相殺する。

 仰向けに転がる巨人に跨り、ボードウィンは槍の欠片を両手で握ると凄まじい殺意に任せてずぶずぶと押し込んでいく。リリーの死が脳を焼き尽くして止まらない。彼もまた、皆のように。


 四肢を痙攣させながら長く長く叫び続けた巨人がやがて脱力した。

「……ど……うだ……。品性……なんぞ…………」

 死に際の言葉だった。ボードウィンの眼には、兜の向こうで口の端を吊り上げている見知らぬ男が見えた気がした。憎しみに染まっていた瞳がぶるりと揺れる。

「……名も無き巨人よ……私は……貴公に“負けた”のか…………」

 馬もなく、砕けた脚では立つことも出来ず、誇り高き銀鳳隊の副官は折れた槍を握りしめたままただうな垂れてゆく……。

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