第23話 春、雪花の散る

 ダナス関は、時を止めたように静まり返っていた。


 トッド・ゾブリも、ランスも、白馬隊四千の兵士達も、ただ呆然と振り返っていた。

 斬り結んでいたレストリア兵までが突然の静寂に闘いの手を止めていた。


 再び空を隠した雲から銀色の雨だけがばらばらと世界を包みこんでいく。

 その静寂は見る間に渓谷の中までも満たしてゆく。


 ダークの背中から半ば転げるように降りたジョシュが、この空間でただ一人、ゆっくりとだが動いている人間だった。

 一歩、一歩、重い足枷を付けられたように進んでいく。踏み出す毎に瞳の中へ生々しく形作られていく“現実”に、どうか幻であって欲しいと強く強く祈りながら。


 しかし、もはや数十センチしか離れぬそこに、確かに横たわるリリーがいた。


 ジョシュは自分のつま先の前に落ちている物に気付き、右手を伸ばしながら腰を曲げた。拾い上げると指を開いて確かめる。

 それは髪留め。戦場で必ず彼女の雪色の長髪を束ねていた、白花を模る髪飾り……


「……散っちゃった……」


 呆然自失の瞳で少年がつぶやいた。

 トッドの、ランスの、顔色が微かに変わる。

 ジョシュは手のひらから足元へ眼差しを移すと、そこに広がる泥まみれの髪の毛に両膝を落とし、すでに起伏を失っている彼女の胸当てに左手を添えながら、薄く閉じられた光のない瞳を見つめた。


「……リリーが…… 死んじゃった…………」


 情けないほどに細く震えた声と一緒に、一対の大きな双眸から涙の珠が零れ落ちた。

 彼女の淡いエメラルドの瞳へ、綺麗な鼻先へ、まだ温かい頬へ、何度も噛みしめられて傷付いた唇へ……次々と溢れる光は彼女を濡らす雨も彼女の口中を満たす鮮血も全部塗り変えるように叩いていく。

 ジョシュの右腕は彼女の肩の下へ潜り、脱力して重くなった上半身を引き起こした。

 近づいて欲しいその顔はがくりと仰け反って離れ、薄く開きっぱなしの口の端から溢れた紅が頬や耳へ伝い落ちていく。喉元に突き立った矢が、一番近くにあった。堰を切ったように沢山の思い出が脳裏に閃光となって甦る。数えきれない場面、忘れ得ない全て、そして最後に見た彼女―――


 “必ず……生きて還ってください”


「ぅ……」

 少年は、天を仰いだ。

「うわああああああああああああああああああッ―――!」


 喚声がダナス関に響きわたった。

 どんなに強く閉じた目蓋も溢れる涙を抑えてくれない。

 全身が火のように熱く渦巻き、全身が氷の中に放りこまれたように震え続ける。

 そして、少年のその激しい慟哭が、白馬隊四千の凍りついた時にひびを入れた―――。

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