第19話 LIFE
「くそっ……! しぶとい壁だ……!」
紫竜鉄鎖騎士団の騎士が馬上から苛立たしげに喚く。乗り手の体格によって馬も様々な大きさのものが使われているが、軽くても五百キロ程度はあり、この場に押し寄せている中には乗り手と馬具を合わせて一トン近い巨馬すらいる。
だが、そんな超重量級の突撃を受けても白馬隊の防壁は破れそうで破れない。
ダナス主戦力四軍の中で、もっとも筋力を鍛え上げているのがこの白馬隊の歩兵達だ。彼らの足腰の強さは大地に根が生えたかの如くであり、上半身は長時間大盾を支え続けて音を上げないほどに逞しい。とはいえ騎馬の体当たりを止められるわけはないが、個としての限界は陣と戦術によって埋められる。
巨躯の騎士、巨躯の騎馬、その途轍もない重量が突撃槍の先端に全て乗せられ飛び込む。真っ正面から受け止めた兵士は盾全体が僅かに内にひしゃげ、接触の一点が砕けた。そしてそのまま胸部を穿たれてしまった。彼の身体は二メートルほど押し込まれるが、後ろに連なる仲間達が腰を落として全力で止める。貫かれた兵士の命は一目で絶望的だ……が、
「なっ? こ、こいつ!」
瀕死の彼に槍を掴まれて馬上の騎士は狼狽する。突進を止められたなら速やかに下がらねばならない。いま立つ位置は白馬兵士達の中なのだ。だが、今にも息絶えようという男が信じ難い力でしがみついている。
「リ……リー様……すみま……せん……。白馬隊に……栄光、あれッ!」
彼が喀血と共に叫ぶと、周りの仲間達がその最期を無にしない為に次々と剣を突き上げ、騎馬上の男は全身鎧でも防ぎきれずに刃に滑り込まれた。
「こい……つ……ら…………」
もんどり打って水溜りに転げ落ちる騎士は、捨て身の歩兵が最後に微かに口元を綻ばせたのを見た。そしてそこにあまりの士気の差を感じた。レストリア軍にも大義や自負、勝利しなければならない理由が一人一人にある。だが、ダナスの……殊にこの白馬隊の兵士達はまるで殉教者のように異常な覚悟で散っていく。いったい何がそこまでに彼らの心を奮い立たせ、戦意を駆り立てているのか。
「―――中曲、右翼の十、詰めろ! 後曲……」
敵将の毅然とした怒鳴り声が遠くから、今まさに途切れようとする意識へと飛び込んできた。そして歩兵達の動きによる空気の変化。その見事に一丸となっている気配を感じて、この兵士達はみな何か同じ一つものを共有しているのだなと、漠然と理解する。死の直前、きっとこの壁を打ち崩すことは出来ないだろう……と、呑まれゆく闇の中で考えた。
しかし、レストリアの攻撃はいよいよその厚みを増していく。
退けた一騎から次の一騎が攻撃するまでにほとんど間が空かず、大盾や兵の鎧に衝突するそれらの音がまるで連弾のように響き渡る。天からは雨粒の洪水。地には激突音の洪水。
リリーの喉はもう痛みすら訴えていた。
途切れない攻撃に、途切れない防御。
壁と化す兵士達の最前列は徐々に削られていく。すでに数列……千人近い負傷者、そしてその中に多くの死者が出ていることになる。
彼らは口々に互いを鼓舞し合い、トッドから伝えられる指示に一瞬として躊躇わずに動き続けた。絶対的な信頼がある故に。もし彼の指示が無かったら、もしリリーの指揮が無かったら、自分達はここまで戦えていないだろうと誰もが実感していた。
リリーの瞳は陣形の綻びを誰よりも早く洞察し続けてきた。
それは、味方が打ち破られる瞬間を誰よりも多くその目に捉えてきたということでもある。何度も、何度も……。
「ッ……!」
リリーは慌てて目元を拭った。雨に濡れたグローブで、雨に濡れた顔を。しかしその布に吸い込ませたのは空の滴ではない。
ついさっきもまた見てしまった、味方が貫かれる光景。
小さな悲鳴を漏らしながら網膜に焼きつけたそれが、慌てて指示を出した直後のいま、はっきりと瞳の中に甦ってしまった。彼は死んだだろう……彼もまた死んでしまったに違いない……。
「ッ……さ……左翼……四!」
こうして込み上げる涙が視界を妨げるのは何度目だろう?
本当はもうこのまま泣きたくて仕方がなかった。思いっきり泣きたい。泣き叫びたい。
――どうして?
どうして人は人を傷つけようとするの?
貴方達が武器を振りかざしてさえ来なければ、私達は誰も傷つけずに済むのに。
貴方達も私達も、誰も傷つかずに済むのに。
今日失われた命がきっと明日も続いたのに……!
どうして戦争は起こるの―――!?
声にならない絶叫が胸の中で狂ったように暴れ、内側から身体を引き裂こうとした。
その裂け目を塞ぐかのように片手で胸を押さえ、片手で滲む涙を何度も何度も拭い続ける。この視力は白馬隊の生命線なのだ。悲しみに曇らせるたびに、それが誰かの死に繋がってしまうかもしれない。だから、泣くことも許されない。許されない……。許されないのに―――
「……ひっ……」
彼女は、咄嗟に口元を押さえた。しかし、
「ひっ……ひっ……」
「……リ、リリー様……?」
隣で苦痛に歯を食いしばって周囲を警戒していたランスは、不意に聴こえて来た嗚咽に目を向けると息を呑んだ。
彼とは逆隣りでトッドもまた同じ表情をしている。
そして最後尾周辺の兵士達も何人かが、振り返って目にしたこの光景に硬直している。
「……もう……やめて…………。みんな……お願い…………」
途切れ途切れの言葉の間に何度もしゃくりあげながら、彼女はそう呟いた。
指揮が止まってしまった。
そして間もなく勇士達の壁が歪に傷つき始める。しかし彼女の双眸はいま、トッドやランスよりもその光景を映せない。
「リリー様…………」
トッドはそれだけを絞り出した。
本当は副官として彼女を叱咤しなくてはいけないだろう。そんなことは彼自身が一番解かっている。
しかし、それ以上に理解してしまっていた。
いま目の前にあるのは遂に訪れてしまった彼女の心の崩壊なのだと。優しすぎる少女の、その両肩に背負わせてしまったあまりにも残酷な使命……二年という月日の中で必死に耐えてきた細い幹が、この最後の死の嵐によってとうとう折れてしまったのだ。
――だが……それでも…………
それでもなお、自分は副官なのだ。部下達の命に何処までも責任があるのだ。
「……リリー様、ご指示を」
「トッド副官ッ……」
向こう側でランスが小さく叫んだ。明らかに責めるような声色。しかし、トッドは彼の瞳を厳格な眼差しで睨み返す。
そして再びリリーの横顔に眼を戻した。
「……嘆いても、たとえ泣き喚いても、目の前にある現実は変わりません」
それはとても冷たい一言。だが、その声には深い熱が滲んでいる。
「きっとそれは、戦争をしている我々だけではありません……。戦火を逃れている街の人々も、どこか遠い平和な国々でも、人は必ず自分の心を引き裂かれるような現実に向き合うことがあります……。リリー様、それが人生なのです……!」
滾々と痛みを押し出していた彼女の双眸が大きく見開かれた。
同時に嗚咽が止まった。
脳裡に訪れる、在る日の光景。それは間違いなく今、この副官の心に甦っているであろう過日の苦しみだった。
「……手放すことなく、最善の努力を尽くしましょう。それは今日を真剣に生きる者の義務であり、そしてそれだけが、耐えがたい現実を打ち破るための唯一の活路なのです」
ゆっくりとトッドに顔を向けた少女の瞳に、もう一度光が戻っていく。
彼女は下唇を強く噛みしめると、静かに、深く頷いた。その眦から最後の一欠けらが押し出された。それは雨に混じり、土に消えていく。彼もまた深く顎を引いた。
もうダメかと思われた彼女の、凛とした指揮姿が眼前に甦っていく。
全身と共に濡れそぼった桃色の唇から、もう一度渾身の指示が吐き出された。彼女の隣でそれを拾ったトッドもまた躊躇わず、力強い声で兵士達の背を打った。振り返っていた兵士達もまた背中で闘志を滲ませる。
ランスは何も言えなかった。
トッドの言葉に震えた心は、胸に、渦巻く焼けるような熱を
指揮の復活で戦況が少し盛り返し、陣の綻びの連鎖がひととき途絶える。そしてこの時、ほんの僅かだが天上の暗雲に切れ間が見え、薄く差し込む陽光が雨と嵐の終わりを予告するように降り注いだ。
その神秘的な瞬間を見上げて、リリーはそっと言葉を吐いた。
「トッドさん、ランスさん…………ありがとう」
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