第18話 嵐の中の小舟
銀鳳隊右翼、ボードウィンの元に騎士の一人が駆け寄った。
「副官! 大丈夫ですか! しっかりして下さい!」
赤色が薄く溶ける水溜りから彼の上半身を抱き起こし、悲鳴にも似た声で必死に語りかける。
「……う……ぐぅ……。私は……そうか、気を失っていたのか」
意識を取り戻したボードウィンだが、部下はその身体を眺めまわして表情を歪めた。左の側頭部から流れる血は耳も頬も赤く染め抜いている。右の脇腹は鎧ごと陥没しており、恐らく肋骨までダメージを受けているだろう。そして、左の太腿……。
泥水に色褪せた口髭の下でボードウィンの口が悔しげに動く。
「私が止めるなどと……豪語した末が……この様か……!」
言葉は明瞭、意識もはっきりしているようだ。部下の見守る前で彼は己の左脚を睨みつける。そこにあの巨大な鉄鎚の一撃を浴びたのが敗因だった。激しい苦痛の所為か、屈辱の所為か、恐らくは両方か……噛み締めるその強さが顎を震わせている。しかしそこから苦しげに息を吐き出すと再び口をひらいた。
「奴は……奴は何処へ?」
「あの巨漢は、後方……金獅子隊の方へと突き進んでいきました。ですが今はこの雨の中ひどい乱戦。綻んだ部隊を突破して最後方まで到達される可能性があります」
最後方……つまり、白馬隊だ。いかに強固な壁と言っても一人一人の人間の集まり。貫けない鋼の鎧を全身に纏うあの巨人が襲いかかれば、白馬隊兵士を以てしても為す術なく大盾や重装備ごと吹き飛ばされてしまうかもしれない。
「……肩を、貸してくれ」
副官の言葉に部下は目を円くして、その左脚に視線を走らせた。外側からの鉄鎚を受けて腿は完全に砕けている。ガードごと肉は無惨に潰れているし、よく診れば粉々の骨まで覗いているかもしれない。何しろ負傷部位を境に脚が外へ不自然に曲がっているのだ。歩くことなど不可能なのは誰が見ても明らかだ。
「頼む、馬に乗るまででいい。あの男は私の責任だ……このまま行かせはせん……何としても」
ボードウィンの右手が震える。その手の中には、鉄鎚を防ぎきれずに真ん中で折れた槍の上部が残っていた。しかしそのまま頭部を強打されて意識を手放した後も、彼はそのボロボロの牙だけは放さなかったのだ。不屈の闘志と共に。
金獅子隊と白馬隊に挟まれた戦場で、黒狼隊弐の団は壮絶な死闘を演じていた。
堤防の亀裂から溢れる水のように次々と抜け出してくる紫竜鉄鎖騎士団。レストリア最強の重装騎士に対して、奇襲を得手とする黒狼隊がもはや真っ向勝負と変わらない状況にある。
互い入り混じる状況では戦術など機能せず、個対個の対決が数百と展開されるばかり。その上ぐちゃぐちゃに溶けて穴だらけになってしまった大地では馬も人も脚力を活かせない。
当初五百の戦士を分け与えられていた弐の団は、今や三百人を切っていた。
「サンゼル!」
一人の戦士が名を呼びながら駆け寄る。呼ばれた男は今まさに敵兵と刃を交えるところだった。馬上ではなく、どちらも地上に立っている。
サンゼルは異様に反りのある二刀を操る。左剣を頭上にかざすと相手の長剣による一閃を受け止め、刃の弧に滑らせて身体の右へ流す。それと合わせて時計回りにターンし下段後ろ回し蹴りを右膝横に打ち込んだ。
重装備の騎士といえども関節まで固めてはおらず、ガクッと腰が崩れる。
そして動きの止まったその首元へ、右剣による外薙ぎを腰の捻りごと強烈に打ちつけた。刃は兜と鎧の境目にある僅かな隙間を鮮やかに通過し、騎士は盾を使うことすら出来ずに倒れた。
「……おう、コナーか。なんだっ?」
いま殺し合いを制したばかりだと言うのに、彼は気負いも興奮も残していない口調で戦士に応える。
「敵が金獅子隊をどんどん抜け出してきている。俺達もさすがに押されているぞ。なんか手はないのか? もうだいぶ仲間もやられた……たぶんあと二百五十人残っているかどうかだ」
サンゼルは頭を激しく振り、茶髪から雨水を吹き飛ばした。周囲の誰もがこのように話しかけるが、この青年“サンゼル・シュナイグ”は黒狼隊の副官という高位にある。
二十六歳、平民出身……いや、貧民街の出。しかし徒手の格闘ではダナスで一、二を争う男だ。
部下に呼び捨てや対等に話させているのは他でもない彼自身の望みによるものだった。彼は今日の信頼と友情を肉体による対話で築いてきた。
「手か……無いな。一人一人が勝つしかない。思い出すよ、自分の力だけが頼りだった頃をな」
貧民街で泥水をすすっていた頃も生き抜くためには闘うしかなかった。今この時と同じだ。
「……こんな時もその笑みか。分かったよ、ごちゃごちゃ考えるのは―――」
コナーとサンゼルは同時に離れた。
開いた空間に突撃槍が飛び込んでくる。コナーは騎馬の脚を狙って短剣で斬りつけ、サンゼルは全身鎧の騎士の腰に曲刀を引っかけて飛び上がった。馬が潰れ、その上でバランスを崩す騎士の兜に強烈な蹴りが打ち込まれる。
泥の上に落馬した騎士の胸をコナーが踏みつけ、その軽い脳震盪が治る前に首元から短剣を滑り込ませた。
「―――ごちゃごちゃ考えるのは止めるよ。いま生きてる戦士が勝ち続ければ敵はいずれ全滅、てことだな」
「ああ、そういうことだ」
二人は不敵に笑みを浮かべ合う。
しかし、この数分後にコナーは余りにも呆気なく命を落とす。
サンゼル率いる黒狼隊弐の団はまるで、押し寄せる津波の中で抗い、砕け、やがて藻屑となっていく数百の小舟のようだった。
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