第16話 ジョシュ

 ―――しなやかな蛇のように襲い来るソレを、ジョシュは咄嗟に屈むと紙一重で躱した。濡れて重い後ろ髪が一瞬、巻き込まれそうになった。もう少し深く接していたら引きずられたかもしれない。

 すぐさま顔を上げると、今しがた通過したソレはメスカルの左腕の延長で頭上に大きく円を描き、そして彼が腕を外に振り抜くと再び追従して迫りくる。ジョシュは横に身を躍らせた。


「……ちっ、また避けたか。はぁ、はぁ……」

 忌々しげに舌打つメスカル。

 転がった泥濘から速やかに身を起こしたジョシュもまた肩で息をしていた。

 少年の左右の手には、黒い刀身を持つ二振りのダガー。

 盗賊の首領の右手には長剣よりやや短い短刀、そして左手には腰巻きに偽装していた強靭な鞭が握られていた。


 互い、すでに幾つもの負傷を刻まれている。特にメスカルの斬り傷や打撲は多かった。切り札と思しき鞭を使用するまではジョシュが圧倒的に押していたからだ。この足場をして人とは思えない速度で動く彼に、メスカルは後手に回り続け、たまらず最大の隠し武器を解き放つ。そこからの闘いは一転して拮抗し、そして今は徐々に天秤が傾きだしていた。

 ジョシュは小さく頭を振る。髪にしがみ付いていた水滴が飛び散る。

 ――雨が……

 ほんの少しだけ下唇を噛みしめた。

 鞭と闘うには動体視力以上に洞察力が必要だ。そもそも鞭自体は目で追いきれるものではない。メスカルの左腕の動き、それを逐一見逃さずに捉え、それに追従してくる得物の軌道を予測しなければならない。

 しかし、この雨。ひたすら激しくなっていく銀のベールは間合いを開けば開くほど相手の姿を霞ませ、さらに雨粒は直接的にも眼球の敵になる。条件は同じ、だが扱う武器が違いすぎた。


「はぁ、はぁ……どうしたぁ! 俺を惨殺するだの大口叩いてなかったかぁ? 出来ねぇならさっさと道を譲るんだな!」


 挑発的な言葉が飛んでくる。ジョシュは柄を握る拳に力を込める……が、鞭を下ろしているメスカルの左手が実は十分な体勢を取っていることを、見誤りはしない。

 ――あの間合いの内側に一瞬踏み込み、そしてすぐに体を引き戻す

 紙一重で空振りさせてから全速力で近距離へ飛び込む。そう計算してジョシュは勝負の一歩のために膝に力を込めた、が―――


「俺を見てリリーがどんなカオするか楽しみだぜぇ?」


 その一言がジョシュの胸奥の焔に油を注いだ。絶妙な距離へと踏み出すはずだった彼の足が、心に押されて必要以上に大きく飛びこんでいってしまう。

 豪雨の幕を煙のように爆ぜさせながら、鞭が鋭い一閃で空気を裂く。

 少年が我に返り咄嗟に右腕を盾にする。

 接触。

 蛇が右肩から背中、左腕、胸へと強烈に巻き付き、直後に激しい摩擦を伴って引き剥がされる―――!

「がッ……!」

 凄まじい、痛みと熱だった。

 ジョシュの口腔から小さな叫びが漏れ、たたらを踏むように一歩二歩とつんのめる。しかし止まらないメスカルの左腕が少年に倒れることを許さなかった。

 今度は左側から襲ってきた鞭が姿勢を失ったままの無防備な身体に強烈な一撃を浴びせた。左の二の腕辺りから背中を廻り右の手首付近を打ち、まだ余る長さがさらに下腹部と左の腰骨を巻いて太腿まで、無慈悲な激しさを以て一瞬で絡みついた。一秒に満たないひと時、少年の細身は完全に拘束され、その直後に容赦なく鞭が引かれる。鋼の鎧だったならさほど効かなかったであろう攻撃だが革と布の軽装備はもろく引き裂かれ、蛇が擦り離れていくその下の肌を全て焼き焦がした。

「ぅあああああああああああ―――ッッ!」

 絶叫。

 肉体の強さ、精神の強さ、滾る闘志、燃え盛る憤怒……いかなるものを以てしても耐えられる次元にはない、壮絶極まる激痛がジョシュの全身を駆け巡った。甲高い、しかし血を吐くような叫びが彼の喉を擦って飛び出した。鞭を引かれた勢いで一回転した身体は、そのまま溶けた大地へ肩から落ち、飛沫をあげながら一メートルほど滑った。


「くっくっくっく……! やっと聴けたぜ、お前の悲鳴がよ。たまらねぇなぁあ!」

 メスカルは疲労も忘れて興奮に顔を上気させる。下劣な双眸は血走り、潰れた鼻の二つの穴は大きくひくつき、分厚い唇が歪んで舌舐めずりを二度三度と繰り返す。


 うつ伏せのジョシュはぎゅっと目を瞑り、砕けそうなほどに奥歯を食いしばる。ダガーを放り出してしまった両手を拳に固め、泥に突き立てると必死で苦痛に耐えながら腰から起こしていく。

 足掻く彼に一歩だけ近寄ったメスカルは、いつの間にか短刀を腰の鞘に収め鞭を右手に持ち替えていた。

「もっと、聴かせてくれるよな?」

 その顔にはここが戦場だと忘れさせるような醜い笑みが全面に張り付いていた。大きく振り上げた右腕が、躊躇なく一息に振り下ろされる。

 今度ははっきりと鳴り響く接触音と共に、ジョシュの背中に完全な一打が降りかかった。

「―――ぅああッ!」

 起きようとしていた腰が、少しでも痛みの元凶から逃げようとするかのように地面へと潰れる。

 そこへ再び襲う鞭。

 大地にへばり付いた身体はもうこれ以上逃げられない。三度、四度、五度……背中へ、尻へ、太腿へ、脹脛へ……リズミカルに打ち据えられるたび、彼の口からメスカルの望む悲鳴が漏れる。メスカルの股間が穢れた喜悦で大きく張っている事など見えもしない。


 “ジョシュ将軍!”という声がした直後、十回は超えたかと言うところで鞭打ちが途切れた。

 ジョシュは四肢を痙攣させながら、必死に繋ぎとめる意識の中に今度は自分のものではない絶叫がいくつも飛び込んでくるのを感じた。


 ――お前ら……オレの……代わりに…………


 抜けていこうとしていた力が、身体の奥でぐっと留まる。

 部下達の苦しみの悲鳴。

 メスカルの哄笑と侮辱の台詞。

 こんな痛切な音はこれ以上聴きたくない――血を流す心でそう願った時、ふと別の音が耳の奥で再生された。


 “必ず、生きて還ってください”


「…………ッ」

 瞼の裏の闇に一つのシルエットが浮かび上がった。

 力なく投げ出されていた二つの手のひらがゆっくりと五指を握り込む。

 眉間に深い皺が刻まれ、紅く染まった唇を巻きこんで歯が震える。

 ずず……と引き寄せた右膝、身体の脇で地面を押しくる右の拳。

 左の拳が顔の横で泥を叩いた。己を鼓舞するかのように。

 背中や脚の裏に幾筋も刻まれた痛みと熱を、冷たい雨が少しずつ鎮めていく。数分前は敵に回っていた天の滴……いや、自然の雄大な営みに好意も敵意もありはしないのだろう。

 瞼を持ち上げる。全身から掻き集めた力を腕に、腰に、脚に、鈍重ながら伝えていくと、視点も少しずつ高くなっていった。

 遂に泥まみれの全身で再び立ち上がった彼は、一つ大きく息を吐き、そして一言だけ静かに呟いた。

「……約束するよ」


 黒狼隊の戦士達を嬉々として打ち据えるメスカルの背中が少し遠くにあった。

 ジョシュは足元の波打つ泥から何とか一振りだけ己のダガーを見つける。それをぎこちなく拾い上げた直後、傍に現れた味方に手のひらを添えた。

「……サンキュー、ダーク。お前が居れば、オレはもう一度走れる」

 苦しげに掠れた声は、しかし、何処か温かくもあった。

 僅かな動きでも傷のどれかが鮮血を溢れさせ激痛を生み出す。その苦痛に全身全霊で抗いながら少年は親友の背中に這いあがる。

「一気に……行くぞ!」

 黒豹はこれでもかと言うほど身を低く沈め、後ろ脚を泥濘の底の固い土まで抉り込む。そして次の瞬間、矢のように一歩目を爆ぜさせた。


 戦士をまた一人打ち倒したメスカルが、気配を拾ったのか振り向く。その顔に驚愕が浮かぶ。

 動き出す右腕。

 その延長で痙攣する蛇。

 ジョシュは右手に握っていたダガーを口元に運び、黒い柄を上下の歯で強く噛みしめた。


 ――躰、もう一度だけ動け。俺の全てを……


 メスカルの腕の一振りにゼロコンマ遅れて鞭が始動する。

 ダークの背で素早く四つん這いになったジョシュは、悲鳴を上げる無数の裂傷を黙殺して四肢に全力を込める。


 シャオオン―――!


 天が落とした銀幕を破りながら、凶悪な蛇が少年と黒豹までも真っ二つに裂いた。

「……なッ?」

 狂気に濁る下劣な双眸が見開かれる。

 鞭が二人を別ったのでは無い。黒豹が急停止をし、その背から慣性に瞬発力も加えて少年が飛翔したのだ。それも頭上高くではなく、浅い角度で……獲物目掛けて。

 圧倒的に広い間合いを制することが出来るがゆえに、メスカルの身体は土台としてどっしりと重心を落としていた。泥の中にベタ足。膝には柔らかさがなく、脚も腰も筋肉を硬くしていた。

 そして内側へと振り抜いた右腕は己の左腕に巻き付く格好となり、鞭の遠心力に抗っている真っただ中にあった。つまり、対応が間に合わない。


 飛びつきざまにジョシュの右手がメスカルの畳まれた右腕を掴み、左手は右肩を掴み、勢いのまま覆い被さりながら猛獣のごとく首を右から左へ大きく振った。その口に黒塗りのダガーをくわえたまま―――。

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