第15話 戦局を握る者
ホーク将軍はスコープから目を剥がすと、その大仰なクロスボウ――“トールハンマー”と名付けた――を静かに下ろした。
「どうされたんですか? ラットを射ないのですか?」
盾を構えたまま側近のゴーシュが怪訝な顔で振り返っている。高台から臨む眼下の修羅場には、明らかに他と一線を画す一騎討ちが火花を散らしていた。
「今、バレッドがラットの剣を一本折った。もはや勝負は決まったようなもんだ。ここで俺がラットを
崖の縁から離れると、ホークはさらに東側、ダナスの方へと足元に注意しながら歩を進めていく。ゴーシュとゲイルも大盾を背に負い直して後に続いた。
登ったり降りたりと小刻みな起伏を繰り返し、時には人一人ずつしか通れないほど狭い道幅になる壁面の足場。踏みつけた石が砕けてカラカラと転がり落ちていくたび、三人は息を詰めた。また、眼下の激しい騎馬戦がもたらす震動で何もしなくても細かな石がパラパラと崩れる。いよいよ強く降り注ぐ雨の影響もあるのだろう。
「足元にも頭上にも気を遣わされますね……」
右手を岩壁に添えながらゲイルは緊張した声を漏らす。
「よし、この位置が良さそうだ」
直後にホークが足を止めるとそう呟いた。彼はそのまま再び背中のクロスボウを外し、20メートルほど眼下に犇めく無数の騎士達へと向ける。そしてスコープを覗きこんだ。
二人の側近はやや広くなったこの足場に安堵の息を吐き、それから主の両脇へと並ぶ。当然、大盾の準備もする。
「……クックック……これだ。これが俺の求めていた獲物だ。いいか、お前ら……歴史に燦然と名を刻む“最強の将”ってのはな、単騎で百や千の敵兵を屠る豪傑や、秀でた軍略で百戦の勝利を掴む英傑のこと……じゃあないのさ」
ホークは左手でクロスボウを支えたまま右手でスコープを弄り焦点を調整する。
「最も重要な一戦において、戦況を左右する力を持つ敵将……そいつを討った者に与えられる称号なんだ。たとえば―――」
その右手がグリップに戻り、人差し指が引き金に掛かった。
「副将エルフィーネを破ろうとしている、あの天才をな―――!」
エルフィーネの愛馬ルーシーの首を狙い、スピナーの跨る騎馬アッシュがぐるりと反転し後ろ足を蹴り上げた。泥水ごと鋭く襲う双蹄。ルーシーは躱し切れずに片方を受ける。
よろめく愛馬の名を思わず叫んだエルフィーネに、再び反転するアッシュの上からスピナーの一閃が光のごとく薙ぎ付けられる。
―――ギィィンッ!
「しッ……しまった……!」
時計回りに描かれた三日月はエルフィーネに左の盾ではなく右の剣で防御させ、そして一瞬だが馬に意識を傾けていた彼女の甘い握りは鋭い衝撃に負けてしまった。
煌めきながら宙を飛ばされていく剣。それを眼で追うことはせずにスピナーは油断なく彼女の瞳を見つめる。
「勝負あり、でしょうね。よもやあれを拾いに行けるとは思わないでしょう? もはや貴女にはその盾しか残されていない」
彼がエルフィーネの左手に携えられている円盾を一瞥すると、彼女はそれを奪われまいとでもするかのように自分の胸元へ引いた。
「まさか馬にこれほどの動きをさせるとは。人馬一体……その言に偽りなし、だな」
笑みを浮かべながら睫毛を伏せる。少し俯いたその兜に生える赤い羽根飾りは雨に萎れている。
スピナーはフッと微かに息を吐いた。
両肩から僅かに力を抜いた。
次の瞬間、すぅっと持ち上がったエルフィーネの瞼の奥で闘志の光が消えていないことに気付く。
茶毛の騎馬ルーシーが大きく一歩踏み込む。
武器のないエルフィーネの双眸から強烈な殺気が弾ける。
反射的にスピナーの槍が閃き、弧を描く刃が彼女の右の首筋を狙って空気を裂く。
彼女が頭の横に右腕をさらす。そこにいつの間にか円盾が持ち替えられていた。
槍と盾の接触音が鳴り響くとほぼ同時、エルフィーネの左手がスピナーの右脇腹、鎧の繋ぎを目掛けて奔る。その掌中には盾の裏に隠していた抜き身の懐剣が握られていた。
「―――ッ!」
スピナーの双眼が見開かれる。だが、その碧眼が捉えているのは想定外の隠し武器ではなく、持ち替えられていた盾でもなく、そして闘っている栗色の髪の女丈夫ですらなかった。彼はそのまま左腕を伸ばしてエルフィーネの右側へと身体を投げ出した。
「なッ……!」
乾坤一擲の刃が皮一枚裂いた程度で躱されたこと、これまで華麗ですらあった男がその愛馬を離れて地面へ落ちていくこと、その両方でエルフィーネは驚きの声を漏らす。しかし、真の驚愕はその直後に待っていた。
泥濘を激しく散らしてスピナーの身体は地面に弾んだ。女性も羨むその銀の艶髪が茶色の水にまみれる。端正という表現では収まらない美しい顔が滅多に見られない歪みを浮かべ、喉の奥から苦痛の呻きが短く吐き出された。
「お……お前……。それは一体……」
貴公、と呼んでいた彼女なりの戦場儀礼すら失われる。いつ、何処から飛び込んだのか、スピナーの左腕を貫通している一本の矢に彼女はただ愕然と見入った。
「わ、分かりません……。左の……南側の何処からか……。光が目に入った直後には思わず―――」そこまで言ってスピナーは少し慌てたように口を噤んだ。
「流れ矢か。だがこの乱戦でクロスボウなど……部隊も遥か後方のはずだが……。だいたい私はあの武器が好か―――」
今度はエルフィーネがハッとして言葉を途切れさせる。そして数秒、無言でスピナーの腕を凝視した。
「まさか、貴公……私を庇ったのか?」
「む……雨で良く見えませんが、どうやらあの岩壁に……」
「答えよ! 貴公はいま、私の盾になって身を投げ出したのか!」
スピナーは口を閉じるとゆっくり立ち上がる。それから右手で矢を握り、ずるずると引き抜いていった。噛みしめる下唇が白く滲む。
鮮血と共に抜き去られたその矢を放り捨て、足元に転がる槍を拾い上げながら再び口を開いた。
「予想外の横槍だったため、思わず……です」
どこかで聞いた台詞に意表をつかれ、エルフィーネは眉間の皺をふわりと解く。
「それに……あんな物に貴女の命を奪われるのは御免だと、思ってしまったようです」
地面に突き立てた槍を右手で握り、泥まみれの全身で肩をそびやかせて微笑む美丈夫。
気高い女戦士はしばらく言葉を失っていたが、やがて僅かにうつむいた。
「……私の、負けのようだな」
彼女の唇からは呟きと、少しの溜息が零れた。
「どうでしょう? あの矢に釣られていなければ、貴女の隠し持った牙を躱せてはいなかったかもしれません」
彼の眼が左手の懐剣に注がれる。彼女はそれをゆっくりと円盾の裏に差し戻した。
「いや、あれが無くても貴公は私の刃を凌いだ気がする……。何よりもこうして、より高みから貴公を見下ろしていながら自分が勝利者に思えない。それこそが全てだ」
彼女の顔に初めて敵意を含まない微笑が浮かぶ。
「……そうですか。まぁ、これ以上貴女と殺し合いをせずに済むのは正直喜ばしいことです」
「いいのか、敗北を認めた将の首を残して……? それに、私は負けたがレストリアは負けないぞ」
「これほどの乱戦になっては将の役割など一戦士と変わりありません。兵士一人一人の力にかかっている……そしてダナスの士気は貴女の首を取らずとも最初から最高です。我々は負けませんよ」
スピナーはもう一度微笑んだ。それから岩壁へと視線を向ける。
「……駄目ですね。さっきは人影が見えたのですが、この雨では」
見上げる顔に滴が容赦なく弾け、まともに目を凝らせない。
「しかしあのような距離からここへ届く矢などあるのでしょうか。やはり何処か近くから?」
「この乱戦でクロスボウを使う者が居るのか? 確かにあの距離で届くなど、たとえ最新の物でも……」
エルフィーネは不意に口元を押さえる。
「最新……まさか……」
「ぬ、見えました。どうやらダナスの方へ移動しているようですね。我が軍に狩り以外で弓を用いる騎士は居ないはずですが……。しかしどうやってあの高さへ登ったのか」
肘の先から鮮血を滴らせながら左手で庇を作り、歯を食いしばるようにしながら人影を目で追う。
「いや……恐らくだが、こっちの人間だ。レストリア側から登って渡り続けて来たのだろう。だとすればさっきの矢……貴公を狙おうとしてしくじった可能性が高い」
スピナーがやや驚きを滲ませて彼女を振り返る。
――あの馬鹿発明家め……ろくに指揮も出来ないどころか一体何をしているのだ?
顔を上げたエルフィーネは、遠い三つの人影を睨みつけた。
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