第14話 獣

「お前が―――」


 雨音を縫って静かに投げかけられた声に、メスカルは驚きを浮かべながら顔を向けた。

「……なんだ、野郎か。一瞬、女がこんなとこに現れたかと思っちまったぜ。つーかお前すげぇのに乗ってんな」

「お前が……」

 竪琴を鳴らすような美しい声で、ジョシュはもう一度言う。

「これをやったのか……?」

 地面を這った彼の視線をメスカルは遅れて追いかけた。

「やったら……なんだ?」

 周囲に転がる兵士達を何の感慨もなく見回し、一言問い返した。しかしそれに対してジョシュの言葉はない。

「んだぁ、その眼は? もしかしてコイツらが怪我人だったから同情でもしてんのか? まぁ今はもう怪我人ですらねぇけどよ!」

 鼻で笑った次の瞬間メスカルはクロスボウの引き金を引き、ジョシュは愛豹ダークに地面を蹴らせた。

 腰の交差した鞘から抜き放たれた二本のダガーがそのまま顔の前で交錯する。

 中空の矢が三分に斬り分けられたのを見てメスカルは弓を放ると右腰の短刀を抜き放つ。弧を描く荒れた唇の端から汚れた犬歯が覗き、潰れた鼻の上で見開かれる瞳には獣の光を宿していた。

「久々に面白そうな獲物じゃねぇか!」

 突進してくる美少年に悦びの叫びを投げつける。

「俺はどっちでも―――」

 舌舐めずりするような言葉の途中で、少年の豹の黒いシルエットが勢いよく上下に分かれる。

 メスカルは左手を素早く胸元に運ぶとそこから取り出した何かを水平に投げた。ダークはそれに反応して横へ跳ぶ。間を空けず空中のジョシュにも光が放たれる。

 キィンッ!

 ジョシュの右剣がそれを弾いた。舞ったのは小さな、しかし鋭い刃だ。

「―――イケるぜぇ!」

 喜悦のこもる台詞と一緒にメスカルの右剣が突き上げられる。短刀……とは言っても普通の剣より少し短いだけのそれがジョシュの腹を狙った。しかし、彼の左剣が刃をぶつけて軌道をずらし、同時に細い腰が捩じれて紙一重で躱す。そしてその動きがそのまま右足での蹴りへと繋がった。

 鈍い音と共に背後へ吹き飛んだメスカル。だが、顔の前に揚げている左腕にブーツの跡が付いていた。


「……その綺麗な顔は傷つけたくねぇなぁ。今ので決めれりゃ腹だけで済んだんだけどよ」

 左腕を横にずらすと下卑た欲望を隠さない顔が現れ、水たまりに華麗に着地したジョシュへと向けられる。

「……最低だな、コイツ。こんな気色悪い敵は初めてだ」

 対してようやくまともに零した言葉は嫌悪感に満ちたものだった。

「はッ……こんなご時世、戦場に出てりゃ誰でも女日照りだろ? お前が気付いてねぇだけで、ダナスの兵士どもは毎晩頭ん中でお前を嬲ってるはずだぜ?」

 ジョシュの眼がメスカルのことをゴミでも見るように扱う。雨で湿った小さめの唇が隙間を作り、浅い溜息が吐き捨てられる。主人の心情を察してかダークが身を沈めながら低く唸った。

「あぁ……そうか、悪い悪い。お前らの軍にはとっくにハケ口があんだったなぁ……」

「……なに言ってんの?」

「あいつ居んだろ? エメラルディアのよ……“リリー”って今も名乗ってんのか? まぁだからこそ白馬隊とかいう一軍の将に祭り上げられてんだろうけどなぁ」

 元々大きいジョシュの両目がこの上なく膨らむ。黒曜石のような美しい瞳には驚きだけが宿っていた。

「オマエ……リリーのこと何か知ってるのか……?」

「知ってる? くっ……くっくっく……そりゃあ知りすぎるほど知ってるぜ? あいつのことなら隅から隅までなぁ……ま、そりゃあ俺だけじゃないけどな。手下どもも四年ぶりの再会を愉しみにここまで来たんだからよ」

 ざわ……と、ジョシュの身が総毛立った。心臓がゆっくりと、だが見る間に鼓動を強めていく。胃の奥から何か焼けるような感覚が湧き起こっていく。

「おいおい……まさかお前らやってねぇわけじゃねぇだろ? 元王族ったって戦じゃ素人のはずだからな。建前で将軍の地位を与えても、実際役に立つのは兵士達の……」

「王族っ?」

「……お前ら、知らねぇのか? じゃあ何でそんな地位に上げてんだ?」

 怪訝な顔をするメスカルの前で、ジョシュの視線は戸惑いに揺れ動く。

「リリーは……記憶が……」

 その呟きに今度はメスカルが眼を剥いた。

「マジかそれ……! 頭でも打ったのか? それともあれか、心の逃避とか何とかって……。まぁ一族皆殺しにされて二年近く奴隷だったからな、不思議じゃねぇかもな……。最後はとんでもねぇことしでかしやがったけど」


「…………お前らか」


 いつものジョシュではない、低く、そして昏い声。彼を知るダナスの人間ならば思わず言葉を失うような異様な声色。だが普段の彼を知らないメスカルはただ「ん?」と問い返す。


「お前らが……彼女を……リリーを苦しめる元凶かぁッ!!」


 美少年の顔が怒りに歪んでいた。

 眉間に深い皺を寄せ、捲れる唇の奥から鋭い八重歯まで姿を見せ、まるで美しい猛獣のようなその中で瞳が暗黒の光を放っている。

 雨に湿る黒尽くめの全身。ことに漆黒の髪は鴉の濡れ羽のごとき美しい色と、重く肩まで垂れさがる陰鬱さとの同居がどこか物凄まじさを感じさせる。


「……へぇ、こりゃすげぇ……。こんな絶世の獣は見たことねぇ。面白ぇ、もう一つ教えてやるよ。俺の率いる盗賊団“狼狼”がリリーを頂き、もう一個の組織があいつの妹を貰った。どっちも殺すには惜しくてな。引き裂かれる時の姉妹はちょっとした舞台演劇を見るような感動があったぜ? ま、悲劇だけ―――」

 挑発するような告白を最後まで言う前に、メスカルの左頬から鮮血の飛沫が舞った。

 あと一瞬身を捩るのが遅れていたら首筋からそれは噴き出していただろう。短刀で受け止めたもう一本のダガーを押し返して彼は大きく一歩飛び退いた。ブーツの周りに泥水が咲く。

「あ……ぶねぇ。なんだ今の疾さは……」

 とっくに水浸しの全身だが、それとは別の冷たい滴が背中を伝う。メスカルはこっそりと唾を呑みこんで眼前の少年を凝視した。


「……悪い……スピナー……。今日は抑えられないかもしれない……」

 いっそう強く降り注ぐ雨の中、佇む少年の内側から“何か”が現れようとしている。少し離れたところで彼の愛豹であるはずのダークが後ずさった。

「オマエ、リリーには会わせないよ。今、此処で……惨たらしく死ね―――」

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