第13話 WISH

 ランスとその騎馬は再び白馬隊の後方へと戻り着いた。

「リリー様……副官殿……ジョシュ将軍が、動いて……くれました」

 息のあがったその声を耳にしながら、トッドはまず密やかに深呼吸をした。胸の奥の複雑な想いを抑え込んで、今はランスの見事な働きを労わなくてはならない。しかし……

「ランスさん、顔色が……まさか……!」

 先に上がったリリーの驚声に弾かれて、トッドは言葉を用意しきれないまま青年に顔を向けた。そして、彼と騎馬が歩いて来たその地面に点々と連なる赤黒い跡に気付く。

「やられたのか……! 衛生兵!」

 指揮を止めてしまう二人に向かってランスは「大丈夫です」と口にする。だがその声が掠れて上手く出ない。ここで自分の為に隊を危険にさらしてしまっては元も子もない、そう思うのだが左脇腹の痛みと熱で言葉に出来なかった。押さえている左手はとっくに濡れそぼり、己の血液の温もりに包まれている。


 リリーとトッドの指揮は再開された。

 降りだした雨の中、ランスは濡れ始めた地面に寝かされて衛生兵による応急手当を受けていた。

「とりあえず今できる止血はこれが精一杯です。このまま安静にしていてください」

 彼よりも若いその兵士が険しい顔つきで言う。しかしランスは上半身を起こした。

「あ……! 駄目です、動かないでください!」

「馬に乗る……頼む、手伝ってくれ……」

「な、何を言ってるんですか! 横になっていないと命に関わり―――」

 最後まで言わせずに、ランスの紅い左手が彼の二の腕を掴む。

「戦場で横になる時は、死んだ時……だろ? この決戦の終わりまでリリー様の隣に立つ、それが俺の存在意義なんだ……。頼む、馬に乗らせてくれ」

 強い握力だ。彼の全てから伝わってくる決意に兵士は言葉を失った。数秒後、口を開く代わりに彼の身を起こし、そして身体を支えながら馬へと押し上げた。“ありがとう”手綱を握ったランスはただ一言を置いて再びリリーとトッドの傍へと向かっていく。

 ――お前らがボロボロの身体をなげうってるんだ……俺も、死んでも護るからな……

 彼の脳裏には、南の彼方にいる心通わせた同志達の顔がはっきりと浮かんでいた。



 戦場を見下ろす崖の棚に、ホークと二人の側近は足を止めている。

 眼下に見えるのは金獅子隊と紫竜鉄鎖騎士団、その混沌とした激戦の光景。そして、幅広の渓谷のちょうど中心辺りに、この戦を左右する一つの対決が繰り広げられていた。

「よし、お前ら、盾を構えろ」

 将軍の命令で側近のゴーシュとゲイルが前に出る。携えてきた大盾を二つ並べて保持し、彼を護る壁となった。

 ホークはここまで背負ってきた物に手をかけると、ストラップを肩から外しながら体の前に持ってきた。

 それは、ひと際大きなクロスボウだった。

「やっとこれを実戦投入する時が来たぜ。まさか最終決戦になるとは思わなかったけどな」


 元々軍人というよりは発明家であるホークは、レストリア国王家の血縁である名門ハインド家の中でも特に際立った異才の持ち主だった。

 併せ持つ強欲な野心でこの戦の指揮を執るまでに至ったものの、その本領は明らかに違う領域にある。彼にとってはこの十年戦争も己が上へ行くための踏み台に過ぎないのだった。

 その手で設計したこのクロスボウ……従来の物と二点、大きな違いがあった。

 一点は精度。矢そのものの軌道もそうだが、それ以上に射手を助ける部品が取り付けられている。超小型の望遠鏡だ。

「……よく見えるぜぇ。我ながら大したものだ」

 その望遠鏡の小型化を成功させたのも彼自身だった。

 そして、もう一点。それは飛距離。大型化と強靭な素材によって従来のそれとは比較にならない射程を実現したのだ。

 スコープを覗きこむ彼が、不意に両脇の二人へ問いかける。

「なぁ、お前ら……“最強の将”ってのは、どんな奴だと思う?」

 ゴーシュとゲイルはおもむろに振り向き、それから互いに顔を見合わせる。

 望遠鏡を覗くホークの口の端がじわりと吊りあがった。その円形の視界の中には、ゾイ・バレッド将軍と斬り結ぶケイオス・オブ・スタンフォードの姿が捉えられていた。



 甲高い金属音、それは悲鳴のようにも聴こえた。

 すれ違った二頭の騎馬が僅かに離れる。同時に馬首を返し、その上の主は再び視線をぶつけあった。

 バレッドはゆっくりと自分の右脇腹に視線を落とす。強靭な鎧に一筋の傷が刻まれていた。僅かにへこんでいる。咄嗟に身を捩っていなければ腕の付け根にある繋ぎ目の隙間へ刃が滑り込んでいたかもしれない。

「……フッ……どうだ? そろそろ終わりが近づいてきたのではないか? ラットよ」

 初めて鎧まで刃を届かせられた今、しかし逆にバレッドは不敵な笑みでケイオスを見据えた。

 彼の投げかけに答えず肩で息をするケイオスは、前を向いたまま瞳だけを右へと流す。その片手に握られている、刀身を半分失ってしまった剣に。

「折れるのを覚悟で我がクレイモアの一撃を打ち払い、得た懐で左剣の打ち込み……。ここまで辿りついた戦士は貴様が初めてだ。我が命には一歩届かなかったが、もう十分歴史に名を残せただろう」

 ケイオスの眼差しがバレッドへと戻る。

「何の為に戦っている……ゾイ・バレッド。歴史など生きた証にすぎない。俺が求めるのは民の生きる今日だ。ケイオス・オブ・スタンフォードはその為だけに戦っている!」

 その声には微塵も諦めの色は存在しなかった。


 渓谷の中で戦の天秤が不吉に傾き出そうとしているこの時、その外でも両国の運命を握る一つの戦場の振り子が激しく揺れ動く―――。



 ―――大きな黒い風が、銀色のシャワーを煙らせながら山賊達を呑みこんだ。

 裸馬に近い騎馬とその上の軽装戦士達は、賊にも負けない身軽さで攻勢を生み出す。雨、泥濘、飛散する泥、乱戦の色は一気に倍加した。


「……来てくれた……。俺達の……奮闘は……」

 突然変貌した周囲の光景に、包帯だらけの兵士は瞳が全て露わになるほど目を剥く。

「無駄じゃなかったんだ……」

 そして、膝から崩れ落ちるようにして泥水に倒れ込んだ。その背中には右肩から左の腰まで縦断する壮絶な斬傷。そこから紅い幕が下半身へかけて無慈悲に引き下ろされている。脇に投げだした右手から血染めの剣がこぼれた。


「ロ……ローガン……か?」


 ぜぇぜぇと荒い呼吸に乗せられた聞き苦しい声が、その瀕死の兵士の後頭部に注がれる。彼はうつ伏せのまま少し首を捻り、自分の名を呼ぶ男の姿を確認した。

「……片足で……こんなとこまで来てんじゃ……ねぇ……エディ」

 そこに居たのは槍を杖代わりにしがみ付いている彼だった。膝から下を失った右脚、手当てで隠れている左眼、身体中を覆う包帯……どこもかしこも泥にまみれている。闘ったわけではないだろう。この体で敵と刃を交えていればこうして生きているはずがない。きっと何度も何度も転んで、砂を噛み、泥水を吸い、それでも必死でここまで来たに違いない。


 ――馬鹿な男だぜ……お前も


 ローガンは呆れ果てて微かに口の端を上げた。

「見たかよ……俺達……間に合わせたぜ……」

 まるで白目をむく時のように瞳を上に動かしてその先に激しく行き交う黒狼隊を眺める。

「ローガン……」

「エディ……やったよな、俺達……。そうだろ、エディ……?」

 地面に突き立てた槍を抱きながら膝を落としたエディは、震える右手でローガンの左手を握りしめた。

「ああ……お前は……お前らは見事だ」

「へ……へへ……」

 嬉しそうに短く笑い声を零し、その直後にローガンの顔は歪んだ。

 右頬を泥水に浸したまま瞳だけでエディを見上げる。その眼球に、雨水とも知れない揺らめきが満ち溢れる。

「なぁ……寒いんだ……。安心、しちまった……からかな……。さっきまで……すげぇ熱かったのに……今は寒いんだ……。俺……おれ…………」

 鼻梁を渡って、涙が土まで流れ落ちる。

「死んじまいそう……か……?」


 エディの喉の奥で鋭く小さな音が鳴る。

 答える言葉が出ない。

 “死ぬわけねぇだろ”と笑いまじりに言ってやりたい。

 でも、背中の凄まじい傷が、そこから溢れる信じ難い量の紅が、何よりこの右手を通して伝わるひどい冷たさがあまりにも死の影に満ちていた。


「俺……死にたくない……エディ……やっぱり死にたくないんだ……。こんなに……こんなに怖いなんて……。嫌だ……怖いんだ……助けてくれっ……」


 ぽたり……と、エディの双眸から大粒の滴が零れ落ちた。

 ローガンの掠れた声が、うわ言のような言葉が、聞き取りにくいその断末魔の嘆きが、彼の胸に針のように次々と突き刺さる。

 全身が烈火のように熱く、胃の辺りから震えが止まらない。吐き気が悲しみや怒りや恐れと共に込み上げてくる。

 不意に、ローガンの手が途轍もない力で握り返してきた。エディは驚きに見開いた双眸で彼を見下ろす。


「……守れた……よな……。俺の……願い……叶った……よな?」

 その手が激しく震えた。

「そうだろ……? なぁ、エディ…………エド―――」


 ……何も言えなかったのに。

 何も言ってやれなかったのに。

「なんだよローガン……。なんで……笑えたんだよ……ローガンッッ……!」

 すでに魂のない、泥に塗れた蒼白の顔は、最後の最後に微笑みを残していた。

 エディは何故かそれを責めてしまった。何も出来なかった自らを責めるように。

 己の右手が、今もまだ彼の左手に温もりを与えていることに、少しも気付かないまま……。

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