第11話 約束

 ジョシュはまさに黒い風と化し、白馬隊と金獅子隊の間で縦横無尽に吹き荒れていた。

 馬の腹よりも身を低くして狼の如く縫っていけば、その動きを捉えられないまま騎兵は次々と脚の動脈を切られる。

 ひとたび地を蹴りはがして舞い上がれば、軽業師も敵わないような身のこなしで馬から馬へと飛び回り両手のダガーで頸動脈や心臓を突き破っていく。

 続々と流れ出てくる紫竜鉄鎖騎士団。倒しても倒しても新たな騎兵が湧いてくる。

 一頭の馬の背から次の標的へと跳躍したジョシュに、ハッと気付いた騎士は剣ではなく盾を素早い動きでかざした。ジョシュはそこに優しくブーツの裏を当てると、相手の押し返す力を利用して三角飛びを決める。その先には別の敵兵の背中があった。


 “―――ジョシュ将軍!”


 速やかに滑り込ませたダガーの刃を敵の首から抜き、彼の瞳は今しがた鼓膜を掠めた自分を呼ぶ声の主を探す。

 ――あいつは……!

 その姿を認めるなり馬の背から馬の背へと電光石火の動きで飛び移り、それが空馬なら単に踏み台にし、敵が乗っているなら一閃を見舞い、まるでこの場所が自分の庭であるかの如く速やかに駆けつけた。


「……どうした! お前はリリーの傍にいるはずじゃなかったのか?」

「南ダナトリア山脈の中腹から、敵が現れました! 戦傷者陣営の仲間達がいま必死で食い止めているんです! 数は不明ですが、このままでは白馬隊の背後を突きにきます!」

 青年は将軍を前に下馬を忘れ、血を吐くような声で答える。それを聞くジョシュの目は愕然と見開かれていた。

「リリー様……リリー将軍は自ら援けに向かおうとしました。ですが白馬隊は最後の壁……陣形を崩すべきではありません。だから……だからジョシュ将軍……!」

 息も絶え絶えに蒼褪めている青年の顔を見ながら、ジョシュは彼の胸中と、そしてリリーの心中を推し量った。その想い、その願い……。


 背後から襲いかかってきた刃を振り返りざまにダガーでいなし、同時にもう一本の短剣で相手の喉元を鮮やかに薙ぐ。そしてそのまま腰の鞘にストンと収めると空いた手を口元に運んだ。

 まるでトビの鳴き声のような甲高く美しい指笛が響きわたる。直後、周囲の戦闘の音が半減した。黒狼隊の戦士達が攻め込む刃や吐き出す怒号を留めたのだ。

「黒狼隊、壱の団―――退却ッ!」

 女性のように澄んだ高音が指示を放つ。そんなジョシュの背中を、青年は顔中に大粒の汗を伝わせながら言葉もなく凝視していた。

「受け取ったよ、君とリリーの願い。そいつらは必ず俺達が止める……そして救える者はみんな救って来る」

 優しい声で言いながら少年は振り返った。そして眼前の赤髪の青年に微笑む。それは一瞬ここが戦場であることを忘れさせるような可憐な花。

「よくここまで報せに来てくれたね。さぁ、早くリリーの隣に戻って彼女を護るんだっ」

 言葉尻に合わせて軽やかに舞い上がると、次の瞬間には稲妻のように現れた黒い影の背に跨っていた。彼の愛する黒豹“ダーク”だ。


 黒狼隊のうちジョシュが直接率いていた半数の部隊。当初の五百からは少し減ってしまったが、彼の指示に従って次々とダナス関の外へ出ていく。彼らの背中を追おうとする敵兵は、残る“弐の団”五百弱が副官の指揮に従って殿の役目を果たし押し留める。

 白馬隊の脇を抜けると、ジョシュは部下達に簡潔に指示を出してそのまま南へと向かわせた。そして自身は逆方向へと寄り道をする。


「……リリー!」

 力強い呼びかけに、彼女がハッと顔を向けた。白い花を模った髪留めの先で、雪色の尾が優雅に躍る。

「ジョシュさん……」

 一秒、二秒……二人の視線が静けさの中で紡がれた。黒曜石のような美しい瞳と緑玉石のような柔らかな瞳が、奥にある何もかもを伝え合う。

 短く、長い刹那を経て、ジョシュはただ深く頷いた。

 黒豹ごと踵を返した彼に、リリーは微かな逡巡を挟んで言葉を投げた。

「必ず……生きて還ってください」

 ジョシュは動きを止め、背を向けたまま微笑む。そして半分だけ振り返った。


「―――約束するよ」


 黒豹の背中で、共に獲物を狙うように身を屈める。

 一心同体の相棒は弾けるように地を蹴り風のように駆けだした。彼の尾と主の漆黒の後ろ髪が激しく、美しく靡く。

 みるみる遠ざかっていく戦士の背中を見つめながらリリーは自分の後頭部へと左手を運ぶ。グローブ越しの細い指先に硬い髪留めが触れた。


 ダナス関の南端を横切るとき、ジョシュは白馬隊の脇から抜け出てきた赤髪の青年とすれ違う。

 一瞥を交わす。言葉はない。互いに同じ想いを抱き、互いに別の使命へと別れる。

 前を向いた少年の脳裏に昨日の出来事が甦った。


 ~


「ジョシュさん、こんにちは。ダーク……気持ちよさそうですね」

 傾けた手桶をそのままに、つやつやと輝く黒豹の背から声の主へと目を向ける。

「リリー、どうしたのこんなトコに。……あ、なになに、オレに逢いに来てくれた?」

 思わずからかうと彼女は照れたように俯いて、それから取ってつけたような仕草で厩舎を見回した。

「その……馬を一頭お借りしようと思いまして」

「え? リリーにはローザがいるじゃん」

 久しぶりに口にした彼女の白馬の名前。普通はどちらかといえば赤を想像させるその名を何故与えたのか……以前それを訊ねた時、彼女は自分でもよく分からないと言った。ただ一言“傍に居てほしい名前だった”と付け加えて。或いは失われた記憶に関係があるのかもしれない……。

「もしかして怪我でもしちゃった? それとも餌が当たっちゃったとか?」

「いえ、あの子は元気です。その、実は……」


 ……十五分後、探していた人物を見つけて怒鳴った。

「スピナー! ちょっといいかな!」

 副官のボードウィンと話している最中だった彼はきょとんとしてこちらを見た。声をかけるまでに眺めた感じだと特に大切な軍議ではないだろう。

「ジョシュ、なんですかいきなり声を張り上げて……」

「お前さぁ、リリーに怪我人同行させたんだって? 自分のトコから追い出してまで」

 すると円くしていた目が、何か納得いったらしく細められた。大きな首肯を繰り返しながら。

「そうですか……汲み取ってあげたのですね、リリーさん」

「なに嬉しそうな顔してんだよ! リリーの気持ち知ってんだろ? 怪我人なんて押しつけて万が一ソイツが命を落としたりしたらあいつどんだけ苦しむか……そんなことも想像できないのかよ、この銀バカ!」

 つい興奮して幕舎の外に丸聞こえになりそうな大声を出してしまった。しかしスピナーは一瞬眉をひそめて片耳を塞いだだけで(ボードウィンも同じ動きをした)、ふぅっと達観老人のように息を吐くと涼しい目を向けてくる。むしろ諭すような眼差しだ。

「ジョシュ……どれくらい正確な話を聞いたのかは分かりませんが、少なくとも私はそれくらいのことを想像できない銀バカではありませんよ」

 じゃあなんでッ……と怒鳴りかけた声を、向けられた手のひらに制される。

「もし貴方が怪我人として決戦の時を寝台で過ごさなければならないとしたら耐えられますか?」

「無理。それでも上官なら許しちゃだめだろ」

「無理な貴方と同じ気持ちの二百名があそこに居ます。そして彼らの想いを背負って覚悟を決めた男がいました。命の使い方は人それぞれ……時に愚かに見えても、誰にも止められない本物の決意というのがあります。私はリリーさんの安心より彼の決意を重く見た。……僅差ではありましたが」

 沸々と込み上げていた怒りにゆっくりと水をかけられていくような感じ。

「私ではなく貴方があの場に居たとしても、きっと似たような選択をしたと思いますよ。私も貴方も戦士……そして男ですから」

「…………」

 すっきりとした気持ちではなかったが、もうスピナーを責める気は薄れていた。瞼を下ろして闇の中にその光景を想い馳せながら後頭部をがしがし掻く。

「……分かったよ。認めるよ……ったく、リリーはどんだけ罪作りなんだか」

 邪魔したね、と踵を返すと、スピナーのいつもの甘ったるい声色が追いかけてくる。

「ちなみに一つだけ言わせて頂きますが……」

「イイって言わなくて。どうせ“決断したのはリリーさんですよ”だろ」

「その前に“最終的に”を付けるつもりでした」

 振り返らずに幕舎の外へ飛び下りる。階段の前で見上げる空は暮れなずみ、ぬるい風には雨の子の香りが微かに忍び込んでいた。


 ~


 ―――擦れ違いそして遠ざかっていく青年の背中から視線をはがし、ジョシュは部下達を追い越しながら南の彼方を睨む。

 ――リリーを頼んだよ……ランス!

 ぐっと身を沈め直して空気抵抗を減らす。愛豹ダークの肢体がいっそう力強く伸びやかに躍動して向かい風を生む。

 ……ポツリ、冷たい感触が瞼に当たりジョシュは左目を軽く瞬いた。僅かに視線を上げると、右手にそびえる南ダナトリア山脈の頭に黒雲が被さっている。

 ついに崩れだした空。これから一気に荒れるであろう戦場。

 大地が友から敵へ変わる前に一歩でも先へ。

 ジョシュと黒狼隊は一陣の突風となって戦傷者陣営を目指した。

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