第10話 矛盾
「―――リリー様、落ちついてください! 貴女がここを離れるわけにはいきません!」
トッドの左手が全力で手綱を引き寄せている。それは自分のものではなくリリーの白馬の轡に繋がる綱だ。
「でも、早く行かないと皆さんが……!」
そう叫ぶ彼女の眼は明らかに平常心を失っていた。今しがた届いた戦傷者陣営からの伝達……その中身を思えば無理からぬことかもしれない。
南ダナトリア山脈の山腹を穿って現れた敵兵、その数は不明ながら現在手負いの兵士たちが必死で押し留めているという凶報。
――しかし……
トッドは眉間に皺を刻む。
その事態を放置できないのは確か。それは、このまま後背をつかれると戦の大局にまで影響するからに他ならない。
だが、今この無垢なる将軍の頭にあるのは……その負傷兵達の命だけだ。
来る日も来る日も通い詰めて、手当てを施し、容態を見守り、声をかけて励まし……そうして数えきれないほどの心を通わせてきたたくさんの負傷兵達。昨日も全員の顔を見て、話せる者とは言葉を交わしたことだろう。熱を出している者には濡れタオルを取りかえ、血の滲む者には新しい包帯を巻いてやったことだろう。その彼らがいま満足に動かない身体を押して命をなげうっている……彼女の取り乱した双眸にはその光景がはっきりと映っているに違いない。
――しかし……!
この場所以外で兵を率いることのできない彼女を行かせることなど論外としても、果たして纏まった兵を援軍として捻出することそれすら、正着と言えるのだろうか?
負傷兵二百強……実際に動けているのは百人そこそこというところだろう。対する敵はそこまで少ないわけがない。どう考えてもレストリアにとって最重要戦略……足の速い馬を揃えて少なくとも数百、或いは千騎といった数を組んで山越えをしてきているはずだ。
怪我人の抵抗がどれほどに粘れるというのか。すでに全滅させられていると考えて、半端に援軍を送るよりもここに南向きの陣をもう一つ布き備えるべきではないか? 彼らはその為の尊い犠牲……彼らだってそれを望んでいる……リリー将軍を護れればそれで本望に違いない―――。
実際には数秒、その短い時の中でトッドの心はそれだけの直感的な分析と、悲壮な覚悟に到達した。そして南へといま一度睨むような眼光を向けたその時、リリーの向こうにいる一人の青年と視線がぶつかる。
青年の顔色が、あからさまに変化した。彼は瞬時に理解したのだ。トッドの痛々しく険しい表情から、今まさに下されようとしている決断が苦渋のものであることを。
――見捨てる……あいつらを捨て石にして備えるつもりなんだ……
そして、青年が次に取った行動は自分の意思よりも先に体が選んだものだった。
「待って下さい! 俺が……俺が、ジョシュ将軍に伝えてきます! 俺は元銀鳳隊、馬術なら自信はあります!」
言い終えるなり彼は馬首を操った。
「ま、待て! 勝手な判断を……」
「白馬隊はこの陣を崩しちゃだめだ! リリー様、ジョシュ将軍なら必ず……!」
トッドの制止も聞かずに馬を走らせていく青年。リリーは言葉を失ったまま彼の瞳を見続け、その視線が切れる寸前にぐっと下唇を噛みながら頷いた。“お願いします”……その言葉が込められていることは隣で呆然とするトッドにも感じ取れた。
「……右翼の……七! 左翼の九!」
突然、手綱から離した両手を力強く前に伸ばして叫ぶリリー。トッドは目を円くして硬直する。すると彼女が素早く振り返った。背中の白髪が弧を描いて大きく揺れる。
「トッドさん……追唱をお願いします!」
その言葉で彼は我に返った。目の前にあるエメラルドの瞳は完全に在るべき光を取り戻している。桃色の唇はさっきまでの震えを残していない。白馬将軍リリーは最前の勇姿を甦らせていた。
「し、失礼しました! 中曲右翼の七、詰めろッ! 左翼―――」
振り絞る声で指示を怒鳴りながら、トッドは頭の片隅で激しい自問を繰り返していた。
白馬隊はこの陣を崩すべきではない……確かにそこに一理はある。だが、彼を止める言葉を続けられなかった理由はそれだけか? 負傷兵達がすでに全滅しているなどと憶測で自分を無理に納得させ、冷徹な判断を強行しようとし、だが結局それだけの覚悟が持てなかった……だから彼の案に縋ってしまったのではないか? この少女に希望の光を与える為のその決断、甘い判断かもしれず大きな過ちかもしれないそれを、しかし心のどこかで確かに安堵し喝采する自分がいた……そうではないのか?
「……ッ!?」
トッドは不意に零れた涙に自身で驚いた。
これは何の滴なのか。不甲斐無い自分に対する怒りの結晶なのか、戦場に有るまじき甘やかな緩みの欠片なのか、それとも、リリーを立ち直らせたのが副官の自分ではなかったという情けなさ……?
到底いますぐ自己分析を終えることなど出来なかった。薄っすらと歪む視界。白馬隊の“眼”はリリー、だから彼自身には最悪耳と口があれば多少は働ける……とはいえ此処が陣形の最後方で良かった。困惑の涙など彼女にも兵士のただ一人にも見せたくはない。
……しかし、トッドの意識の外、普段誰も居るはずのない背後の死角に、あの情報を必死で運んできた一人の負傷兵が傷の痛みに耐えながら馬のたてがみに頬を預けていた。半ば朦朧とするその瞳に、壮年の副官が零れ落とした熱い光を焼きつけながら。
一時止んだ指揮にも乱れることなく粘っていた白馬隊の兵士達は、再び響きわたる“指揮官の声”を受けて士気を昂らせる。
最高の突破力を持つ突撃槍と、最高の防衛力を持つ大盾の壁による相身譲らぬ攻防の火花は、その激しさを一層に増していった。
「……そろそろメスカル隊もダナス領に傾れ込んだ頃か……。よし、ゴーシュ、ゲイル、付いてこい」
レストリア関の外で七千の兵を抱えるホーク将軍は側近の二人に命ずると馬を動かした。全身鎧の肩には先刻届いた物を背負っている。
「ホーク様? どちらに行かれるのですか、戦はこれからが佳境ですよ!」
彼の副官を務める若い男が慌てて声をかける。戦全体の指揮権はバレッド将軍に渡したとはいえ、前線で命を晒している彼を考えれば副指揮官のホークはいざという時の重要なまとめ役。この場を気軽に離れられてはたまらない。しかし……
「ああ、佳境だ。だからこそもう動かないと間に合わなくなるんだよ。取りあえず戻ってくるまではお前がこの一万五千を預かれ」
「な……ご、御冗談を!」
余りにも無責任かつ突拍子もない指示……いや、指示と呼ぶのも憚られるその言葉に副官は一気に蒼褪める。彼は副官という座にありながらこれまでまともにこの赤鷹翼騎兵団を動かしたことがない。なぜならホーク将軍が他者の進言や諫言にろくろく聞く耳を持たない指揮官だったからだ。
「冗談なんかじゃあない。どうせこの軍を動かすことなんてないから安心しろ。……戻ってくるとき俺はレストリア最高の英雄になっているぜ。クックク……ハハハハハハ……!」
自信と邪心を感じさせる高笑いを上げながらホークは馬に鞭を入れた。大盾を持つ二人の側近もその脇を固めて付いていく。
兵士達は遠ざかる赤いマントを唖然とした表情で見送る。副官はちらりと視線を移し、彼が背負った物の試行の跡を見やってぞくりと怖気を振るった。
―――向けられる突撃槍の切っ先を避け、撫でつけられる白刃をかい潜り、青年は鋭い馬術で激戦の真っただ中を駆け抜けていく。
目指すべき場所はすでに瞳に捉えている。それはこの戦場で唯一空中を舞い踊るものだから。時には這うように低く消えることもあるが、しばらくすると何処からか獣のように飛び上がって敵兵に死を浴びせていく……“プレイグ”(疫病)という名の黒き死を。
「ジョシュ将軍!」
疾走を止めることのないまま、彼はあらん限りの声で叫んだ。しかし剣戟と怒号渦巻く修羅場の中でそれは思う以上に響かない。二度、三度、彼は届くまで何度でも繰り返しながら、いよいよ密度の濃い死地へと馬ごと飛び込む。
盾は背負ったまま、剣は腰にさしたまま、本来の得物である槍は携えてすらいない。彼はまだ満足に振り回せない右腕で手綱を、左手で馬のたてがみを握る。闘いに応じている暇などない。リリーの深い慈しみに応えるために、戦傷者の陣営で待つ仲間達のために、ただ全力でこの戦場を駆けるのだ。
「ジョシュ将ぐ―――」
今度こそと声を振り絞った直後、すぐ側に飛び込んできた一人の敵兵に遅れて気付いた。
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