第8話 悪夢の戦略

 南ダナトリア山脈、レストリア国側。

 ややなだらかな裾を登り詰めると、ある程度から先は角度がきつく切り立ちそれ以上登れなくなる。この高く険しい山脈はダナス・レストリアの両国にとって天然の要害となり、かつては互いの平和を保障する感謝すべき国境線だった。


 しかし十年前、オルソン・ニクス・ド・レストリア王が隣国の支配を標榜した時から、レストリア側にとってこの山脈は覇道への忌々しい障害でしかなくなった。

 本来は早々に渓谷をダナス関まで押さえ、さらに南部のレニオール河を越えてサイゴン国内に陣地を確保し、そこからダナスの背後へも回りこむことで一気に制圧する作戦だった。だが、渡河用の軍船を密かに建造していた工場にサイゴンの人間が潜り込み、レストリアの戦意を掴むといち早く国へと持ち帰ってしまった。これにより侵略の速度は防衛の速度に一歩後れを取り、その結果この途方もない十年の戦争へと発展してしまったのだ。


 ダナスに勝つためには渓谷でどれだけ押し合っても埒が明かない。それは最初の一、二年で十分に答えが出た。ゆえにレストリアはサイゴンを破ってダナスの背後へ回り込む方がまだ現実的だと考え、常に最強の軍をそちらに当ててきた。

 しかし、ダナスは自国の豊富な鉱物資源と加工技術による生産品をサイゴンにも農産物と引きかえに分け与え、練兵の指導も提供し、彼らを軍備の充実した粘り強い軍へと変えてしまう。

 それでも当初はサイゴンの専売特許といえた水上の戦いに、数年をかけてレストリアも順応してきたのだ。河流の中での操船技術、船上での格闘術、何より商業国家としての強みを生かした最新鋭の軍船の開発。

 一方で、元々牧歌的な国民性を持っていたサイゴンの国内を蝕んでいく精神的な疲弊感は目に見えて高まっていた。

 もはや戦況の逆転を時間の問題と感じていた、三国戦争六年目……その年、一人の提督の出現が全てを振り出しへと戻す。“レイン・クロード提督”……若くしてサイゴン軍の指揮を継いだその男の力とカリスマ性によって、またもレニオール河は不越の大河と化してしまったのだった。


 今回サイゴン王が没したことによる休戦協定の申し出に対して、レストリアとしては渡河点の一部解放を条件としたい意思は当然あった。

 しかしそれをすれば協定など反故にしてそのまま軍を傾れ込ませてくるのでは、と拒絶された。一度信義を破った国がこの場面で信を得ようなど詮も無い。条件を無理強いした結果サイゴン軍がクロード提督を旗印に再決起する事態にでもなれば、もはや専守防衛を棄てて雌雄を決しに攻め寄せて来る可能性も高い。陸上でゾイ・バレッド将軍が後れを取るとは思えぬがレイン・クロードの知略も底が知れない。ゆえに、捕虜の返還及びダナスへの補給停止を条件として休戦の申し出を受諾したのだった。


 そして今、河越えとは別に押し進めていた切り札的戦略が、ようやく最後の指令を与えられようとしている。


 南ダナトリア山脈中腹、二年かけて掘り進んだすいどうは二ヶ月前の時点であと僅かのところまで到達し、そこで作業を中断していた。

 騎馬軍二列縦隊が十分に進攻できる幅と天井の高さ、進軍の震動で崩れないような慎重な補強、それらを見事に為した掘削作業はすでに一度ダナスへの穴を僅かに穿つまでに至り、相手に発見されないようそこを埋め直してある。

 この作戦の実動チャンスは一度だ。それで勝ちきらなければこの隧道は潰されてしまい、二度と同じ手は通用しないだろう。そのため今日という総攻撃の時まで凍結していた。

 ここに集う別働隊は自分たちの仕事の完成を、“最後の指令”を待ち侘びていたのだ。


「―――お頭ついにッ……あ、いや、メスカル将軍、ついに来ましたぜ!」

 騎士というよりは土木作業員、土木作業員というよりはむしろ山賊のように見える風体の男が指令書を手に隧道の奥へと駆け込んできた。

「よぉし、やっとこの時が来たか。早くしてくれねぇと大事な決戦が終わっちまうわな。成功報酬を寄越さねぇ気かと思ったぜ」

 メスカル将軍……と呼び直された男はしかし、どう見ても“お頭”の方が似合っている。燈火に浮かぶ髪は黒と灰色が斑に混じり合い、太い眉毛の下で獣のように凶暴な瞳がギョロッと動く。潰れた鼻にはオイシイ話の匂いを嗅ぐのが好きそうな大きい空洞が二つ。しかし荒れた分厚い唇に浮かぶ酷薄な笑みには抜け目ない計算高さが垣間見える。

 体格は中背だが部分ごとの筋肉は力強く盛り上がり、また引き締まるべきところはぎゅっと絞り込まれている。皮造りの軽装備を波打たせる起伏だけでも、この男が顔以上に獣じみた身体機能を有していることが想像できた。

 そして背中に装着された小型のクロスボウ、腰の短刀、加えて隠し武器……メスカルが騎士などではないことを、この隧道に先行している三百余名の荒くれ者達は知り尽くしている。そして、外で突入の手引きを待つ二千騎の騎士団も承知していた。

「さぁて、野郎ども。向こうに突っ込んだら軍人ごっこも終わりだ。白馬隊とかいうスカした連中を背後から殺しまくるぞ。敵の戦意を砕くためには残酷なほど良いっつうんだからなぁ、あのホークとかいう三流指揮官も大した似非騎士様だぜ……ヘッヘッヘ」

 閉ざされた空間に下品な話しぶりと嘲笑が反響し、似たような性向を持つ部下達の戦意を煽った。

「おーし、そんじゃあ最後の一息だ! 派手にぶち破れえッ―――!」



「……な、なんだ?」

 戦傷者陣営の外、眼前の山脈に目を凝らしていた衛生兵は、隣に誰が居るわけでもないのに言葉を漏らさずにいられなかった。

 山腹、三合目あたりの高みの一点から何百羽もの鳥達が飛び立ったのだ。それだけではない。激しく緑がざわめき、揺れ動き、そして微かに煙のようなものが立つ。

 一瞬、山火事が発生したのかと思った。だが、あれは黒煙ではなく、馬鹿げた話だがまるで何かの大群の突進で起こる土煙。

 ――ま、まさか……

 彼は一度自分の考えを否定しようとし、しかし木々のざわめきが徐々に山裾へと下ってくることを視認して現実を認めた。


「て―――敵襲だ……敵襲だあああッ!!」


 一言目は思わず裏返った。二言目は腹に力を込め直して、陣営に精一杯の怒声を響かせた。

 すぐさま何人もの衛兵や歩ける負傷者が飛び出してくる。

「敵っつったか? 嘘だろ? ダナス関が破られるなんて信じ……」

「そうじゃない! 山を見ろ! なんでか知らないけど山から溢れて来てるんだ!」

 続々と集まる仲間達が彼の指さす方を見て絶句する。正面よりはやや左……つまり南だが、確かにその山肌を木々に紛れて何かがたくさん下っているのが判る。

「鹿の群れとか……そんなことは……」

 誰かが引きつった声でつぶやく。

「ば、馬鹿野郎! 間違いねぇ、敵の奇襲だ! たぶん奴ら隧道を掘りやがったッ!」

 腹に包帯を巻いている兵士が苦しげに怒鳴り散らす。その言葉はまずここに集まった全員を震撼させ、そして直後に恐慌状態へと陥らせた。飛び交う言葉はどれも絶望感に満ちている。恐怖心が溢れている。しかし―――


「護ろう!!」


 まるで色合いの違う言葉が誰かの口から力強く吐き出され、それは異色ゆえに皆の鼓膜に届いた。

「敵の狙いはこんな怪我人の陣営じゃなくて、ダナス関を後ろから突くことに決まってる! つまり……」

 “リリー様が危ない”

 誰もの頭の中に真っ先に生まれた、偽らざる一つの想いだった。

 そして、そこから派生するように、深刻な現実を次々と理解する。

 “白馬隊が破られる”

 “他の三部隊も挟みうちにされれば負ける”

 “レストリア本軍にダナトリア渓谷を抜けられてしまう”

 “国が、故郷が、家族が、奪われてしまう”

「……動けるヤツ全員で止めるぞ! それから―――誰か渓谷まで報せに行け!」

 ここには指揮官はいない。だが、やるべきことを悟った者達の次の動きは速やかだった。


 とある陣幕の中もまた、事態を知らされて慌ただしく蠢く。

 衛生兵以外は皆多かれ少なかれ怪我を抱えている。頭に包帯を巻いた者、首に包帯を巻いた者、肩に、腕に、胸に、腹に、脚に……しかし、誰もが歯を食いしばり、寝台を降りることにも陣幕を飛び出すことにも躊躇わなかった。手に手に武器を取り西の出口へと向かっていく。

「待ってくれ……! 俺にも……俺も連れて行ってくれ……!」

 動ける最後の一人が幕舎の外へ出ようとした時、その背中に奥の寝台から悲痛な懇願が投げつけられた。男は足を止めると振り返る。視線の先に捉えたのは右脚と左目を失った一人の人間。

「……エディ、あんたは流石に無理だ。闘える身体じゃない。自分で分かってんだろ?」

「闘える……! いや、戦わせてくれ! ただの盾にしてくれてもいい、俺も皆と共に命を張りたいんだ!」

 しかし、男は頭を振った。

「駄目だ。俺は命を張れるが、あんたはそうじゃない。あんたのは命を捨てるだけだ。そんなのリリー様は許さねぇぜ……」

 返す言葉に窮してエディの歯は激しく軋み音を立てる。

「安心しろ。白馬隊の背後なんて絶対に突かせねぇ。俺達に任せておけ!」

 男は一度拳を見せると飛び出していった。

「ま、待ってくれ、ローガン!」

 エディはそれを止めようと手を伸ばし、バランスを崩して寝台から転げ落ちた。

「……ち……くしょう……。ちくしょう……! この……この脚さえッ……!」

 固い地面から頬をはがし、ざらつく砂を噛みながら叫ぶ。もうローガンの姿はない。

 必死で身を起こし、激痛に耐えながら片脚で跳ねるように外を目指し、たかだか二、三歩ごとに派手に転ぶ。そのたびに胸や肘や顔面に痛みを増やして、それでも彼は幕舎の端から漏れこむ光を目指した。

 何度転んだか。

 何度拳を地面に叩きつけたか。

 切れた唇から紅い筋を伝わせながらようやく外の光へと顔を出したとき、陣営の南西側ではすでに大量の戦塵と剣戟の響きが巻き起こっていた。

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