第2話 黄昏の神話

 パチパチと燃え種の弾ける音を立てながら、篝火の上に時おり火の粉が舞いあがる。それは戦士の心火に反応して踊る炎の精霊達のようだった。

 西に横たわるダナトリア山脈の頂きを白金に溶かして、決戦前の最後の陽が沈もうとしている。こちら側の山肌はすでに黒い影に染まり、人々に先んじて夜を迎え入れてしまったかのようだ。

 燃えるような夕焼け空はダナス領へ深く入るほど金から朱へ、朱から赤紫へ、赤紫から青紫へとグラデーションを描き、やがて濃紺に染まりながら引きかえに星の息吹を一つ二つと解放していく。

 薄雲がほどけるその宵闇の空は神秘的な表情で一万強の兵士達を包みこんでいた。

 見上げる者によって毒々しく、あるいは禍々しくも映り、反対にあまりにも美しく想えて涙を堪える者もいた。彼らの胸中に在るものは皆同じ……“これが己の見る最後の落陽になるかもしれない”という想いだった。

 ざわめきが治まり、しわぶきも消える。

 四軍を集結した一万三千の精兵達、その二万六千の瞳が全て一点に向けられた。


 金獅子隊、銀鳳隊、黒狼隊、白馬隊、各隊の副官が兵士達に向かって立つ。

 そして彼らの背後で、四頭の獣の背に跨り四人の将軍が並んだ。

 金獅子将軍ケイオス・オブ・スタンフォードと黒き巨馬。

 銀鳳将軍スピナー・フォン・オルトラスと葦毛の一角獣。

 黒狼将軍ジョシュと漆黒の雄豹。

 白馬将軍リリーと白麗の牝馬。

 各隊の錦であり、支えであり、そして全軍の憧れでもある四者四様の美戦士。

 それが一堂に会し戦装束で毅然と佇むその画は、それだけで兵達の心に熱い高揚感を与えた。

 この戦争はきっと彼らを伝説にする。そしてその後に歴史が紡がれるのならば、時は彼らを神話へと変えてしまうかもしれない。

 そんな夢物語を本気で想わせる、神の与えし勇姿がそこに在った。


 微かなさざめきを破って突如、ケイオスが腹の底から言葉を轟かせる。

「この夜が明ければ、恐らく我々は、この戦争の最後の銅鑼を鳴らす! その戦いは、この十年で最も激しいものになるだろう!」

 言葉を切ると、残響が波打つように広がっていく。彼は眼下の方陣を左から右へと見渡した。

「今日まで生き残った勇者達にいま一度問う! 故郷を愛する心はあるか!」

 戦士達が拳と声を一斉に突き上げた。空気が弾けたように震える。

「死んでいった仲間達の想いを汲めるか!」

 再び、さっきよりも強い咆哮。

「レストリアとダナス! 全てが終わった後にこの土を踏むのはどちらだ!」

 ケイオスは右手の五指を大きく開き、その掌を兵士に見せて高々と揚げた。

 一万強の声が、大地を震わす力強さで“ダナス”を繰り返す。勝利への揺るぎない闘志を受け止め、ケイオスの右手は拳を作った。

 彼の指が再び開き、その腕が右へと水平に下ろされる。指し示す先に立つのは銀の鎧を纏う将軍。


 軍の雄叫びが鎮まるのを待ち、スピナーもまた腹に力を込めた。

「国を愛し、同胞の遺志を背負う勇者達よ! グレゴリア・ローグ・ド・デイナス王の名の下に、いま一度確約する!」

 彼らの燃えたぎる眼差しを受け、スピナーは大きく息を吸いこんだ。

「もしもその身が、武運及ばず勇敢なる最期を遂げたならば、残された家族は国が手厚く遇する! 後顧の憂いを忘れ、ここに一丸となって闘おう!」

 “応”の声と共に気勢の拳が何度も突き上げられる。頭上へかざした右の掌へそれを受けとめ、スピナーもまた次に立つ漆黒の将軍へと指先を伸ばした。


 少年は小刻みに頷きながら、居並ぶ兵士達を左から右、右から左へと眺めまわした。ざわめきが治まっていくのを待ち、彼は不意に軽やかな動きで愛豹の背に立ち上がる。

 そしてフッと彼が笑みを浮かべると、前方集団は息を呑んでそれに見入った。突然美少年が消え去り美少女が現れたように錯覚したのだ。

 少女は目を細めながらゆっくりと顎を浮かせていく。小さく開いたその唇から深く深く空気を吸い込み、黒装束の奥にある胸の中へと溜め込み、そして―――

「―――お前らぁ!」

 吐き出された予想外の言葉は鈴のような軽やかさを超えて、楽器の美しい音色のように全兵に響き渡った。両隣のスピナーとリリー、そしてケイオスや眼下の副官達までもが驚きの眼で彼に振り向いた。

 美少女から、天真爛漫な少年に戻ったジョシュの右人差し指が、ビッと勢いよくリリーを指した。彼女が「ぇ……?」と小さく漏らす。

「リリーが好きかぁ!」

 一瞬、全員が目を円くする。当の彼女は双眸だけでなく唇も薄く開いたまま、その呆然とした顔に静かに朱を上らせていく。それから、恐る恐る、ぎこちなく兵士の海へと眼差しを向けていった。

 好きだッ!と誰かが叫んだ。

 すると「俺の方が!」「いや、俺が一番ッ」と数ヶ所から次々と声があがり、そして―――

身構える間もなくほぼ一斉に、無秩序な歓声に変わった。それは全員が競い合うようにして一挙に大歓声へと弾けていく。

 唖然と硬直するリリーを一瞥し、ジョシュはニンマリと口元を弧にした。

 彼はもう一度、肺が裂けそうなほどに息を吸い込み、そして一気に吐き出すそれにボーイソプラノの叫びを乗せる。

「―――じゃあ勝つぞーーーーーッ!!」

 長々と駆け抜けていくそのシャウトは無秩序を絡め取り、導き、一陣の巨大な風に変えた。全兵が少年に戻ったかのような生き生きとした顔で、負けじと拳を前方に捧げて吼えた。

 ケイオスとスピナーは思わず互いを見、“やられたな”と眼で会話すると苦笑いを吹きこぼした。

 ジョシュは満足そうな微笑みを満面に浮かべて右手に全ての熱を受けとめると、隣で狼狽している最後の将軍へと腕を伸ばして指し示す。


 彼女はびくっと肩を跳ねさせ、背中に流れる雪のような長髪を小さく躍らせた。

「あ……あの……」

 弾けそうなほど激しく打つ鼓動、火のように熱い全身、そして鏡がなくても真っ赤になっていると分かる自分の首、頬、耳朶……恥ずかしさのあまり彼女の頭の中は真っ白になっていた。

 しかし、戸惑いを零すために開いてしまったその口の動きが、“一言も聴きもらすまい”と兵士達に身構えさせてしまった。急速に静まる目の前の集団。自分の言葉を待つ静寂が広がっていき、リリーの足の先から震えが込み上げてきた。

 二万六千の瞳が自分を見つめている。

 さらに眼下の副官達までが体ごと振り返って見上げている。

 そして左から、三人の美将軍の視線がはっきりと感じられた。心配するような眼差しだろうか? それとも優しく見守っている? ジョシュはもしかしたら悪戯な笑みを浮かべている?

「…………」

 リリーはきゅっと唇を結び、静かに睫毛を伏せた。

 ゆっくりと息を吸う。

 無意識にローブの胸を抑えていた右手に、膨らむ肺の動きが伝わる。

 じっくりと吐き出す。

 少し、心が落ち着き始める。

 同時に、近くの人達の気配や息遣いを、肌や鼓膜がそっと拾い上げていく。

 その感覚が次第に、次第にどこまでも広がっていく。

 二度目の深呼吸を吐き出しながら、闇の中に一つ一つの灯を感じた。

 ――ひとり、ひとり……

 彼女はそのまま一度、深く首肯した。

 ――一人一人なんだわ……誰もが、一人一人……

 身の震えが止まった。

 すぅっと瞼が開く。さっきまでは世界を覆い尽くすように感じた眼前の兵士達が、いまは在りのままに見えていた。

 彼らを見る彼女の両目が静かに細められる。

 仄かな桜色を残す頬が柔らかく緩み、桃色の瑞々しい唇が優しく綻んで静かな弧を描いた。

 兵士達は慎む以前に言葉を失い、見開いた瞳に彼女を吸いこんだ。


 “こんなに慈しみに満ちた微笑みに今まで出会ったことがあっただろうか?”


 リリーはフゥッと息を吸い込むと、彼女の精一杯の声を紡ぐ。

「皆さん……どうか―――」

 ごくり、と小さく唾を飲み込み、もう一度息を吸うと翠緑すいりょくの眼差しに強い光を灯した。

「どうか、死なないでください」

 隣に立つ少年は、そのぬばたまの瞳を大きく膨らませて彼女を凝視する。

「どうか、生きて還ってください―――!」

 リリーは戦場でも出したことがないほどの力強い、煌々たる熱を含む声で叫んだ。

 風さえも息を潜めていたこの空間を、それは一羽の白い鳥のように翔け抜け、最後方の兵士の心の奥にまで確かに届いた。

 数瞬後、微かな地鳴りが生まれる。

 それは一人一人が小さく漏らし始めた呻きの集まり。

 まるで雪崩が雪という雪を巻きこんで大きく育っていくように、呻き、唸り、感嘆の音は互いを導いてみるみる膨らんでいき、そして遂にはわっと爆ぜて巨大な咆哮と化した。


 轟々と鳴る世界。ビリビリと震える全身、大地が微かに上下しているのすら感じ取り、ケイオスもスピナーもジョシュもこの時ただ圧倒された。空気が、まるでハンマーのように鎧を、肌を、叩いてくる。

「すごい……凄すぎるよ、リリー……」

 ジョシュは呆然とそれを眺めながら思わず呟く。そして右へ顔を向けると、彼女はまるで兵士の一人一人を眼に焼き付けるかのように真っ直ぐな眼差しを湛えていた。

 本来、戦で兵の士気を上げるのは、我が身を厭わない勇や、死を恐れない決意や、敵を殺す覚悟であるはず。一軍を率いる者は常にそれを引き出す為に舌を駆使し、あるいは自らが蛮勇を示し、決死の部隊を育もうと苦闘してきた。それこそが古から変わることのない戦の難関であり極意であったはずだ。

 しかし、いまここにいる美しき将軍。

 鼓舞するでも、褒賞を突きつけるでも、死後の何かを保証するでもなく、ある意味禁句のはずの言葉を何はばかることなく兵士に贈った。

 そしてそれを受け止めた彼らは、明らかに今日最高の士気を全身に纏った。しかもこれは明日になっても決して醒めることのない熱だろう。最後尾で壁となって陣取る白馬隊の、さらに奥で指揮を執る彼女の元へ敵を辿りつかせない……“彼女の為に負けられない”という想いはそのまま背水の境地となり不退転の覚悟となる。

「こんなことを出来る将軍は……きっと歴史にも、永劫の未来にも、二人として存在しないでしょうね……」

 終わらない気勢の中、スピナーの声はケイオスとジョシュの鼓膜のみを震わせた。


 ダナトリア山脈の向こう、レストリア国の彼方に夕陽は溶け去る。

 いつの間にか、美しい濃紺の宵空を無数の星々と白い満月が彩っていた……。

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