Florally -最強の将-
仙花
第1話 決戦前日
(ダナス歴93年)
5月19日。
レストリア軍のレギューヌ隊を打ち破り戦勝の宴に一欠けらの平和を謳歌した翌日。総力戦を明日と予測した午後の青空の下、ダナトリア渓谷よりやや南下した位置に設営されている戦傷者の陣営に、リリーとスピナーが慰問を行っていた。
とはいえ見舞いと言えるのはスピナーだけで、リリーは今日も身を粉にして治療の手伝いに献身している。怪我の消毒、タオルや包帯の取り換えなどは言うに及ばず、不潔さが病身に障り始めた人の身体を拭いてあげたり、簡易寝台のシーツを新しくしたり、どうみても一軍を預かる将とは思えない仕事を進んでこなしていく。
「リリー様、申し訳ございません。明日は遂に決戦という噂を聞いています。なのにこんなことまで……」
今日ばかりは、この見慣れたはずの光景にも衛生兵や負傷者達は恐縮しきりだ。
自分の身体を拭かれた者などは、空気を隔てて感じた彼女の体温や柔らかな匂いに顔を真っ赤にしながら礼を繰り返す。三、四年も前の彼女ならそれを見て熱が上がってしまったのではと慌てながら額に手を添えたものだが、今では彼らが緊張で紅潮してしまっているのだろうと理解して照れたように微笑みを浮かべるばかりだ。
夏を待つ暖かな日。
一つの世話を終えるたびに彼女は袖口で額の汗を拭う。
清々しく輝くその姿は戦場に咲いた花の様であり、戦いに荒んだ男達の心を癒していくのだった。
幕舎の外でスピナーは、西に横たわるダナトリア山脈南部とその上の澄んだ空を眺めている。
リリーの付き添いでここに来たのが二時間ほど前。二百人強の戦線離脱者達もとっくに見舞い終え、ついさっきまで彼は穏やかな気持ちで彼女の働きぶりを見守っていた。
――風の湿り気が増えたような……明日は雨中の戦かもしれない
ジョシュに訊けばもっと的中率の高い予報が得られるだろう、と考える。生い立ちがあの少年に与えた特技の一つだ。
「―――リリー様! お願いです!」
ふいに幕舎から漏れてきた若い声に、スピナーの心は空から引き戻された。
「……確かにまだ槍は振れないけれど、馬には乗れます! 一番大事な時に何もできないなんて耐えられません!」
眼前で赤髪の青年が勢い込んでぶつけてくる懇願に、リリーは狼狽を隠せず必死で言葉を探していた。
「だ、駄目です……。私の傍だって安全とは限りません。いえ、戦場に安全なところなんて……」
「だからこそです! 万が一敵の手がリリー様に届きそうになったら、俺の命に代えてお護りします!」
青年の言葉に彼女の顔が蒼褪めた。同時に普段滅多に見せないような険しさが過ぎる。
「やめてください! 命に代えてなんて言わないでください!」
優しい女神が見せた小さな、しかし大きなその怒り。青年も、そして周りの者たちも声を失った。彼女の華奢な十指が身体の前で強く組まれ、震えている。
「なんで……なんでそんなこと言うんですか……。私は誰にも死んでほしくないから……だからこうして……なのに……」
怒りか哀しみか……消え入りそうなその声に誰もが沈痛な面持ちを浮かべる。
「―――ランス、でしたね?」
重苦しい空気の中に、突然艶のある声が流れこんできた。
赤髪の青年はよく知るその声に肩を跳ねさせ、大慌てで向き直ると敬礼を取った。包帯の巻かれた右腕がズキンと痛み、顔をしかめながら腹の底から声を張り上げる。
「スピナー将軍! お疲れ様であります!」
「敬礼はいいです」
銀の鎧に身を包んだ美しい騎士は戦場に立つ時のような厳しい表情で青年を見つめた。“クレセント”の異名で敵に恐れられるその姿が垣間見え、その場の負傷者や衛生兵に戦慄が奔る。
「ランス……私は貴方を除名した覚えはありません。いまだ銀鳳隊に籍を置く身でありながら、自分の将軍に嘆願の一つもせずにリリー将軍へ同行を申し出るのですか?」
ランスの顔から血の気が引く。「あ……あ……」と返す言葉に詰まって視線を落とす。
すると彼の隣の寝台に身を横たえている負傷兵が必死に上半身を起こしながら叫んだ。
「ス……スピナー将軍! 俺が悪いんです! この中で一番動けるコイツに俺の気持ちを背負わせちまって、リリー様を護ってくれって煽っちまったんです! 今も『最後のチャンスだぞ』って背中を押したのは俺なんです……」
全身を包帯に巻かれ、さらに左眼までそれに隠されている満身創痍の男。包帯は右足の膝より少し先にある切断部も丁寧に包んでいた。無理に身を起こそうとしているせいでその声はいっそう絞り出すような苦悶を滲ませている。一目ではどの隊の者かは分からないが、辛うじて生き存えたと言えるその姿は今この瞬間も激痛との闘いを続けているのだろう。
「エディだけじゃありません! 俺もそうです!」
「俺もです! 本当は自分でリリー様をお護りしたいけど、こんな身体じゃランスに託すしかなくて……!」
次々と吐き出される負傷兵達の想い。それはいつの間にか一人一人の言葉など聞き取れないほどに幕舎に満ち、気がつけば衛生兵までが同じように訴え、そして誰もがランスを庇っていた。
スピナーはリリーの後姿に視線を落とす。
束ねられて腰まで垂れる真っ白な髪が微かに揺れている。看護用の清楚な服に包まれた身体も、なぜか今にも崩れ落ちそうな儚さを漂わせて見える。
――リリー“様”……。様付けで呼ばれる将軍は貴女だけですよ……
彼は左手をそっと彼女の右肩に置いた。一瞬、震えが伝わってきたが、直後にそれは止まった。
「ランス……」
スピナーの双眸がより厳しさを増して青年に向けられた。
美丈夫が放つその圧倒的な迫力に、周囲の声は蓋をされたように堰き止められる。
「軍規違反で貴方を除隊処分とします。同時に銀鳳隊戦傷者名簿からも削除し、我が隊は貴方の従軍を証し立てず、とします」
ランスが愕然とする。そんなことをされてしまったら―――
「そ、それはあんまりじゃないですか将軍! それじゃランスは俸給が貰えないことに! お袋さんや弟妹達が待ってるんですよ!」
隠れていない右目を見開いたエディが血を吐くような痛々しい声で叫んだ。
「その通りですね。このまま無事に帰れたとしても彼は一銭も手にできないでしょう。ただし……他の隊に籍が記されていれば別ですが」
エディやランス、他の者達までもがハッと息を呑んだ。そして彼らの視線が一点に集まる。
「ス、スピナーさん……」
無数の気配を一身に受けながら、白髪の少女は驚きを浮かべて騎士を振り返った。
「……守りたいものがあるのは貴女だけではないのですよ、リリーさん? 人はただ生きてはいない。自分の生き様に胸を張れなければ、それは死んだも同然なのです。時にはその為に命も張らなくてはならない」
乗せていた左手を彼女から離しスピナーは踵を返す。紫のマントが大きく翻った。
「戦士の覚悟を汲むか、それとも貴女の慈愛を押し通すか、それはお任せします。私はもう一巡り見舞ってきますので……夕刻の儀に間に合うよう切り上げてください」
固い土に規則正しい靴音を鳴らして優雅に遠ざかる銀の長髪。
痛みを押し込めるように胸を手で押さえながら、リリーの瞳はその背中を見えなくなるまで追い続けた。
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