第一章
第1話 廻るレコード
アコースティック・ギターの素朴で艶やかな音が、アルペジオを奏でている。そこに、ともすれば消えてしまいそうな程繊細な声が二つ入り交じり、ハーモニーを作り出した。
部屋には窓さえ無く、扉も重々しくて文字通りの密室だ。
風などどこからも入ってこないのだが、まるでそよ風のようなメロディが、一台の古いレコード・プレイヤーから厳かに鳴っていた。
部屋には、私一人がいるだけ。
私は、物音を立てないように身を堅くしていた。
あと一分半。
時計を見詰めて、思った。
それから目線を正面に移し、光る画面を見た。その画面には、大雑把に言うなら灰色の四角い枠があって、その中でフィーダーが左から右に流れ、白色のバーを緑に変えながら動いていた。
緑の占める比率は徐々に増え、緊張はさらに増していく。
その時、扉が開き、部屋中の空気が一斉に動いた。必然的に風の流れに伴う音が響いた。
その瞬間、緊張は解け、大きな溜め息を吐いて机上のレコーダーを操作した。
私は扉の方を振り返った。
音楽は依然として部屋に流れ続けていた。
私の父は入ってくるなり、その音楽に耳を傾け、歌のタイトルとそれを歌っているミュージシャンを言い当てた。
「正解」と、私は投げやりな感じで答えた。
そんな態度から、父は自分の訪問があまり良いタイミングでなかったと気が付いたようだ。部屋中に目を遣ると、私が何をしていたのかわかったのだろう。
「ああ、録音中だったのか……」
「うん。卒業研究の為にデータを取っていたの」
今年でハイスクールを卒業する私は、最後の卒業単位である卒業研究をやっている。本来は、スクール・シップで行われるものなのだが、父親がその分野の研究者であった為、特例として自宅での研究を許されていた。
私の研究テーマはずっと昔、陸地がまだ地表の三割程度残っていた時代の、音楽の歴史についてだ。
その際、提出する書類として、デジタライズされた音源が必要となる為、それをこうして密室の中、録音していたのだった。
「このレコード・プレイヤーが古すぎるから、MIDと繋げないんだもん。だからこうやって、実際に音を流して録音してるの」
「ああ、そうか。悪い事をしてしまったなぁ」
私は当て付け半分に浅い溜め息を吐いた。
「別にいいわよ。また録ればいいんだから。それより、防音室に何か用事?」
私が防音室といういささか大げさな密室で、資料を録音していたのは、波や風の音が一緒に録音されないようにする為だった。
本来は、父の仕事で使われる為に造られた部屋なのだが、最近ではめっきり使われる事が無くなりつつあった。
「使うんだったらすぐ片付けるけど」
「いや、用があるのはこの部屋じゃない。ルイにだよ」
「私に?」
レコードは既に別の曲を奏でている。
「今度、近いうちにお客さんが来る事になったんだ。その報告だよ」
「お客さん? ふーん、珍しいね。うちにお客さんなんて。研究関係の人?」
「いや」
そう言った父の口元に少し笑みが浮かんでいるのは、彼が何かを企んでいるのを表していた。
それを知っている私は、こんな時の父の口が、二枚貝の殻を無理矢理開かせるよりも難しい事も知っていたので、敢えて追求しようとはしなかった。
だが、何も反応しなかったのが寂しかったのか、父は自分から少し殻の隙間を開けて、中を見せた。
「それ以上訊かないのか?」
「答えてくれるの?」
「いいや」
やっぱりな、と思う。
「近いうちって、具体的にはわかっていないの?」
質問の方向を変えてみた。
「明日か明後日だと聞いているよ」
「それじゃ、いつでもお茶くらい出せるように準備しておかないとね」
私は立ち上がり、レコード・プレイヤーの方へ歩み寄り、針をレコード盤から上げた。ぷっつりと音が途切れ、ほんの一瞬だけ耳に空虚な静けさが訪れた。
後はレコードの回転も止め、盤を慎重な手付きでジャケットに仕舞うと、部屋から出た。父はその後に続いた。
「お茶ってまだあった?」
「いや、どうかな」
私はキッチンへ向かった。父との二人暮しにしては広すぎるキッチン。それでも、この船には三人が暮らしていた時もあった。一人多いだけではあるが、その頃は妥当な広さだったように思える。
お茶は普段、戸棚の奥に仕舞ってあった。それを引っ張り出す。
茶筒を振ってみると、ちりちりと寂しげな音が響いた。蓋を開けると、緑色の粉が舞って、私はむせ返りながら首を横に振った。
涙で滲む目を開いて見ると、茶葉は底の方に少しだけあるものの、心許ない量だった。
父の方へ向き直り、「お客さんって、何人来るの?」と訊いてみた。
「さあ、一人か二人だと思うよ」
「いい加減だなあ」
一人なら多分足りるだろうが、二人となると厳しい。
滅多にお客など来ないから、買い置きも無い。
「お茶請けはあるのかい?」と、父。
「それも無さそう。結局、買いに行かなくちゃいけないみたい。アルバが近いから、これから向かってくれる?」
「え?」
驚きを含ませた不思議な反応だった。
何故驚かなければならないのか、私は訝った。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
父は言葉を濁しながらキッチンを出た。
しばらくすると、エンジンの駆動音が船全体に響き渡った。結局向かってくれるらしい。
すぐに、惰性によって体が引っ張られ始めた。
アルバ商業海域は、本当に目と鼻の先だった。
私は甲板に出ると、海上を眺めた。どこまでも穏やかで青い海。もうすぐ、商業海域らしく、船の群集が水平線上に浮かび上がってくるだろう。
ところが、それよりも先に、純白の巨大な船影が浮かび上がってきた。
「何あれ」と呟く。
その時、甲板に取り付けられたスピーカーから父の声がした。
「
私はブリッジに向かった。
「あれがATLASなの?」
「ああ、最新型の総合商船、ATLASだ」
それからの父の言動には、不信なものがあった。
「珍しいから、買い物はアルバではなく、ATLASでしたらどうだ?」
「何でよ」
「特に理由は無いが、せっかく来ているんだから……」
そう言えば、さっきアルバに行こうとしたら、やんわり嫌そうな雰囲気を出していた。アルバに何かあるのだろうか。
「面倒くさいんだけど」
ほんの少しの抵抗を見せてそう言ったが、受け入れられなかった。
やはり、アルバに行かせたくないらしい。
仕方がないので、私は父の意図に大人しく従う事にした。
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