愛の歌は風の中に消え
柚田縁
プロローグ
プロローグ1
スクールに入学した時以来、ここを訪れる日が来るとは……。
自分でもそんな事を考えながら、おれは息を吐き出しながら、図書館の古くて仰々しいとさえ感じられる木製の扉を開けた。
埃っぽいような、黴臭いような、とにかく古くさいものが発する匂いで溢れていて、さっき肺の中を空っぽにした事を後悔する。そんな風に想像していたが、案外新しい木材から放たれる初々しい香りに、おれは出迎えられた。
ここ図書館は、スクール入学前のオリエンテーションで訪れたきりだったので、個人で訪れるのは初めてだ。
これまで来なかった理由は、遠くてなかなか足が向かないから。それに、必要性を感じないから、だ。他の生徒がどうなのかは知らないが、おれはこの施設の事を縁遠く思っていた。
図書館は、この船の一番高い所にあった。一般の生徒が学業に勤しむ教室や、日々生活する寮などとは別の棟の最上階だ。そりゃあ足も自然と向かなくなるというもの。
しかし大した理由も無く、ちょっと調べものをする為だけに行こうとは決して思わないような場所に、わざわざ図書館が築かれた訳ではない。
ここに収蔵されているのはいわゆる書物なのだが、そのほとんどがデジタルに変換された電子書籍で、紙のそれはほんの一部でしかない。紙でできた本は、世界規模で希少なのだ。
だから、紙の本はそれだけで財産となる。殊にうちのような教育機関では、紙の蔵書数がある種のステータスになっている面もある。
もし仮に、この船が事故などで浸水したらどうだろう。
世界的に貴重な宝を濡らしたり、みすみす海の藻屑にしてしまう訳にはいくまい。そこで、七海連合は紙の書物を収蔵する船舶の製造に基準を設けた。
うちの図書館が最上階にある理由はそれだ。
財産である紙の本をできるだけ濡らさず、なおかつ別の場所へ運ぶ時間を十分確保する為。何だか、乗船している人間よりも優遇されているように感じる。
おれがそんな図書館へやってきた理由は、一つだけ。と言っても、書籍を借りる為という、図書館を訪れる者にとって至極普通の理由だ。
どういう訳だか、おれは緊張しきっていた。場違いな感じがしていると同時に、この場所が力一杯自分を拒絶しているような、そんな気がした。
ぎこちない歩みでカウンターへと向う。
またこの場所にぴったりの雰囲気を持った、眼鏡の司書教諭がこちらに目を向けた。そして、教諭は無表情のまま、こう告げた。
「何かお探しの書籍がありますか?」
おれは完全にアウェーな空気の中、用意していた句を忘れ、あたふたしながら自分の目的を漠然と述べた。正しく相手に伝わったかどうか、不安になりながら、おれは相手をじっと見た後で視線を空中に泳がせた。
司書教諭は、無機的な調子で言った。
「
「あ、持ってます」
手提げバッグを漁り、MIDを見つけ出す。
「こちらで書籍を借りた事はありますか?」
おれは頭を掻きながら、言いにくそうに、無いと答えた。
一方の司書教諭は、全く嫌な顔一つせず、この図書館のシステムを説明してくれた。確かに嫌な顔はしなかったけれど、嬉々として教えてくれた訳でも無いのだが。
この図書館には、前述の通り、紙の蔵書が少なからずある。しかし、一般的に貸し出されているのではない。それらは言って見れば展示品のようなもので、読むどころか触れる事さえ許されていない。実際に借りるのは、電子的なデータだ。
要は、デジタライズされた書籍を、このMIDと呼ばれる端末にダウンロードする事によって、本の内容が読める仕組みだ。
これと同様のシステムのお陰で、教科書は一つの端末の中に収められる事となり、重さに悩まされる必要がなく、忘れ物も激減する。だが、端末一つを忘れると、大変な事になるという弊害もあったりする。おれはそういう間抜けな奴を見た事は無いのだけれど。
おれは司書教諭に促されるように、図書館の事実上の実態であるサーバー端末の前へやって来た。
この子供の背丈くらいある端末から、MIDに書籍の電子的情報をダウンロードする事になる。
サーバー端末を操作し、タイトル検索から複数の候補へと絞った後、それら一冊ずつのサマリーを流し読んで、最終的に三冊ほどの書籍をダウンロードした。
けれども、おれの探していたものは、それで全てではなかった。タイトルや用語、カテゴリ等で検索しても見つけられなかったものがある。
この図書館に無い、という事はない筈だ。
こうしてサーバー端末の前で首を傾げていても何も解決しないので、もう一度司書教諭に教えを乞う事にした。
教諭は相変わらず嫌な顔一つせず、淡々とした口調で答えてくれた。
「そういったものは、一部、電子化する事が連合法で規制されています。その為、奥のアーカイブスに原著が所蔵されていますので、参照してください。その際、貸し出しはできませんので、必要であれば、画像としてスキャンするなりしてください。また、アーカイブスに入る為には、図書館関係者の同伴が必要です。図書委員を一人よこしますので、少しお待ちください」
言われたまま、おれはその場に立ち、図書委員の到着を待った。その間、高い天井を見上げ、それから徐々に視線を下ろしつつ、施設全体の構造などを眺めていた。
かなり広く見えるが、そのほとんどがアーカイブスに属していて、透明なガラスに覆われて、普通は入れないエリアのようだ。
サーバー端末は、様々な場所に点々と、だが規則的な配列で並んでいて、その付近には閲覧室も設置されているのだが、それら合わせてもアーカイブスの占めるスペースと比べたら大した事は無かった。
おれはここに来てから感じていた疎外感の正体が、少しわかってきたように感じていた。自分のイメージしていた図書館像との相違に、少しばかり戸惑っていたのだ。
やがて、待ち人来り。やって来たのは、同じクラスのトーリーだった。
「これはこれは、珍しい顔だ」
トーリーはおれの顔を見るなり、遠慮無しにそう言った。
「トーリー。図書委員だっけ?」
「うん。一年生の時からずっと」
「なんだ、知り合いだったのか。じゃあ、トーリー。よろしく頼むよ」
そう言った司書教諭は、初めて人間らしい表情を見せた。
「はい、先生。それでは、こっちへ」
歩き出したトーリーの後を辿るようについて行く。
トーリーはクラスメイトとはいえ、あまり話を交わした事の無い一人だった。それどころか、誰かと親しげに話をしている様子に出くわした事さえなかった。孤独を愛する寡黙な人物なのだという印象さえ持った事のない程、おれにとって希薄な存在だった。
今、こうして二人でいる時でさえ、トーリーは話し掛けてきたりはしないのだから、寡黙というのは当たっているのだろう。
そんな事を頭で考えていると、前を行くトーリーが立ち止まった。
「ここからがアーカイブスだから」
彼はカードキーをどこかから取り出し、扉の横に付いていたリーダー装置に通した。
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