後悔は常に。

入口さえ整ってしまえば、あとは出口まで走り始めるしかない。

結婚に際し、次にしなければならないことはフレデリクの親族に会うことだった。

傍から見れば、いや、まさにその通りなのだが、この結婚は王族と軍部との結婚である。

冷たい視線を浴びることも、後ろ指を指されることも覚悟していたし、どちらかと言えばやはり身分が上のレイチェルが責められるべき話だろう。

彼の一族は貿易を得意としているが、きちんと社交界にも顔が効いてその地盤は揺るぎないものだし、その貿易によって国の外にもいくつかのパイプを持っているという。

貴族としての評判も上々で非の打ち所がない辺り、本当に申し訳ないことをする、と頭が低くなる思いだった。

親のいないレイチェルの代理はベルナルド将軍で、将軍は彼の両親と円満にかつ円滑に話をまとめたと言う。

数多いる貴族の中の一員としてしか顔を合わせたことのないその両親は、はじめは恐れ多いことだと遠慮がちだったと言うが、将軍が国特有で貿易を制限している品物の取り扱いを任せたいと言えばすぐに乗り気になったと聞いて少し言葉を失った。

「これぐらい予定の範囲内ですよ。もっと求められるかと怯えていました。」

貿易を主としている補佐官は苦笑しながらそう言った。

商人としてだと一族は貪欲さをこれでもかとばかりに発揮するそうだ。

身分的に二人をつり合わせるためにフレデリク本人には国の直轄地のどこかを与えるという話だったが本人はこれでもかというほど固辞し、爵位を受け取ることも承知しなかった。

解決策にレイチェル個人が所有している領地の半分の名義を連名にし、フレデリクを主にすることで折り合いをつけた。

「私にあるのは武官としての能力だけです。爵位は必要ありませんし、土地を治めるなど…できません。」

フレデリクは理由を尋ねた将軍にそう答えたという。

始めは城に向こうが訪れるという話だったが、それはレイチェルが断った。

城でなんかあったら堅苦しくなってしまうのは目に見えていたし、私が頼んでいる身だから、とレイチェルが出向く形にしてもらった。


さて挨拶に行くという日、レイチェルは一人、クローゼットの前で固まっていた。

手は自然といつもの服に伸びている。

ただ心の中で、

『妻になるんだなぁ。』

と思ってしまったのだ。

自分が女であると、いつもの男装で夫になる人の親族に挨拶していいものか、そう考えてしまったのだ。

レイチェルは長い沈黙のあと、鈴を鳴らした。

普段呼ぶことがないので来るまで時間がかかるかと勝手に思っていたが、侍女は颯爽と予想より幾分早く訪れた。

「おはようございます。レイチェル様。」

小さい頃から傍に仕えてくれている年齢不詳の彼女はにっこりとほほ笑んでそう言った。

「おはよう。…今日は着替えを手伝ってほしい。」

「畏まりました。どれになさるのですか?」

しかし彼女は自然に目の前に広がる男性用の服に目を通し始めてしまう。

思わぬところで自分が男装しかしないと思われていることに気付いて苦笑し、

「違う。」

と静かに否定する。

彼女は瞬く間に怪訝な表情を浮かべると、一気にまるで花が開くように破顔した。

あろうことか少し目が潤んでいるようにも見えて狼狽える。

「サラが送ってくれた中からどれでもいい。選んでほしい。」

「わかりました!」

一段と声のトーンが上がって、頬を上気させた彼女は珍しいことにバタバタと足音をたてて部屋から飛び出していった。

ポカンと口を開けた女性衛兵が見えて少し面白かった。


サラは何をどう伝えられたのか、月に最低でも一度、手紙と共にドレスを何着か届けてきた。

手紙の交流はもともとだったがドレスはあの国王に会ってからだ。

始めのうちは送ってくる訳が分からず着る機会もなかったので、誰かに譲るか、最悪売りに出してお金に変えて寄付をした。

それを伝えないことに心苦しくなって、手紙の本文とは別に、追伸の形で付け足したのはしばらく経ってから。

ドレスは必要ないのでもうこれ以上送ってこなくていい、と最後に加えたのである。

サラの事だから、まぁ悲しむだろうがこれでわかってくれるだろうと甘く考えてしまっていたらしい。

驚くことに、サラは手紙の中で不満を爆発させて怒りをストレートに伝えてきた。

その怒りが柔らかな筆跡で伝えられることにレイチェルは怖くなったほどだ。

それからというもの、手紙の内容は一緒に送るドレスの詳しく丁寧な説明になった。

家族の話やサラ本人の話、レイチェルがどっちかというと詳しく知りたい内容はまるで付け足しのようにさらりと済んでしまうようになった。

レイチェルは仕方なく、手紙と一緒に届いたドレスはどこかに仕舞っておくように指示を出した。

それらのドレスがどこに仕舞われているのか、レイチェルは知らない。

ただ今レイチェルが用意するように指示した服、ドレス、はサラが送ってきたものしかなかった。


再びバタバタと、今度は複数の足音がして、部屋にはたくさんの侍女が雪崩れ込んできた。

皆目が爛々と輝いて、手にはたくさんのドレスを持ち、まるで獲物を見つけた獣のような目をしていた。

当然獲物はレイチェル自身で、フルリと体が震えたのはこれから自分を待ち受けていることを少しだけ想像してしまったからだ。

「さあ、レイチェル様。…大人しくしていてください。」

満面の笑みがこんなに怖く思えるなんて、レイチェルはひたひたと近づいてきた彼女たちに向かってコクコクと首を縦に振る事しかできなかった。

自分が思いついてしまったことの事態の大きさに、今になって後悔しだしてももう遅い。

本当に久しぶりに身に着けるドレスの苦しさに、こんな思いをして若い頃はよく着れたなぁ、と感慨深げに呟いたのは当然あの侍女に聞かれていた。

「レイチェル様はまだ十分お若いと思いますわ。」

自分の台詞で彼女が引っ掛かったのはそこらしい。

気付けば他の侍女も頷いていた。

「確かに女性にとって結婚は早いほどいい風潮ですが、女性はいつまでたっても女。年の違いと同じように、それぞれの魅力も違いますし、結婚の時期も当然違います。」

もちろん、男装するような女性もいらっしゃいますしね、という言葉にはチクリと棘があった。

なんとなく笑顔を浮かべて誤魔化しておく。

準備が出来て、部屋から出て馬車が待っている中庭まで行く間、レイチェルは侍女の手を借りなければ歩けなかった。

ドレスの苦しさに、先の細いヒールの華奢な靴。

しっかり歩けないことに城から出て向こうに着いた後歩けるだろうかと不安になる。

忘れていた淑女としての自分は簡単には呼び起こせないようだった。

すれ違う人は皆、ちらりとレイチェルを見たあと固まると、慌てて顔を下げた。

それでもちらちらと目線を感じ、どこかでひそひそと話す声さえ聞こえた。

一様にそうされるので自分の顔や恰好が変なのかと小声で侍女に確認してしまうほどだ。

「大丈夫です。きちんとなさっています。お綺麗ですよ。」

何度もそう言われたが不安な気持ちはいつまでも消えなかった。

深く出来ない呼吸はレイチェルの思考をじわじわと狭めていた。


やっぱり変なのだろうか。

馬車に乗り込むときになぜか見送りに来たローレンスをはじめとした側近たちに加え、御者からレイチェルを警護する騎士たちまで、レイチェルの姿を見せるとポカンと口を開けて目を見開いた。

ローレンスに至っては上から下までジロジロと見るものだから本当に変なのかもしれないとそわそわして落ち着かなくなる。

「どこが変だ?」

こそっとローレンスに尋ねたのは、彼なら正直に答えてくれると思ったからだ。

侍女たちが最初に用意したのはふわふわと広がる裾を持ったドレスだった。

どうしてもそのふわふわが許せなくて、すらりとしたあまり広がらない細身のものに変えてもらったのがいけなかったのかと今さらながら思ってしまう。

その期待はあっさりと裏切られた。

「どこも変じゃありません。」

ローレンスはそう言うと、さあどうぞとばかりにレイチェルの手を取って容赦なく馬車に乗せた。

「お気をつけて。」

レイチェルは怪訝な顔のまま馬車の揺れに身を任せるしかなかった。


本当に変に違いない。

レイチェルは迎えに出て来たフレデリクの顔を見て確信した。

感情をあまり表さないことを知っているからこそ、他の皆と同様にポカンと口を開けて愕然とした後、戸惑いながらそれでも確実に冷静な表情に移った彼の行動はそのことを如実に表している、と思った。

同じく迎えに来た将軍はニコニコとほほ笑んで馬車から降りるのを手伝ってくれ、

「少し見慣れないから皆驚いているんですよ。」

とこっそり呟いた。

それでも、と周りを見回せばバッチリとフレデリクと目が合う。

パッと視線を外したのはレイチェルが先か、フレデリクか、それとも同時だったのか。

とにかく二人の視線は外れた。

「申し訳ありません。見苦しい姿を…。」

普段は見えている靴が今日は見えず、落ち着かないまま俯いて、スカート部分で見えない足元を見透かそうとしていた。

挨拶を済ませたらすぐに帰ろうと決意する。

少しいつもと違う事をした所為で、違う思考回路に陥ってしまった所為で、思いもしなかったことになってしまったと思う。

「どうぞ。」

フレデリクがレイチェル達を促した。

「失敗した。」

彼の後ろを歩きながら隣で手を取ってくれている将軍に呟く。

目だけで続きを促される。

「ちょっと迷って流された。」

詳しく説明することはしないが、気の迷いに踊らされた自分に腹が立つ。

この格好を見れば一目瞭然だろうと少し見せつけるようにレイチェルはドレスを指さした。

将軍がいつも通りほほ笑むと、

「そうですか?私はいい傾向だと思いますが。」

そう言った。


挨拶もそれなりに順調に終わり、城に戻るために馬車に乗り込んだ時には自然と安心のため息が漏れた。

周りには絶対にいないフレデリクの両親の強烈さに少し押され気味でちょっと驚いてしまっていたということもある。

「陛下…これからはレイチェルちゃんかしら?娘になるんだもの…どう思う、あなた?」

「レイチェルちゃんかぁ…。僕もそう呼ばせていただいていいかな?あっもちろん、公の場ではいつも通りで。僕、権力とかどうも苦手で…海外を東へ西へ、北から南へいろいろなところに行く方が楽しくて仕方がないんだ。いやぁ、嬉しいなぁ。本当はずっと娘が欲しかったんだよ。」

「それじゃあ、それじゃあ!まるで私が悪いみたいじゃない!」

プンと拗ねてしまった奥様を旦那様が一生懸命なだめ始めた。

同じような結果に終わる会話をこの夫婦はもう何度繰り返したことだろう。

城で顔を合わせた時はこんな印象じゃなかった。

記憶違いでなければ、もっと堅苦しい口調で随分と物々しく話していたはずだ。

見たことのない夫婦の言い争いに毎回どうすればいいものか、レイチェルは内心戸惑っていたが、フレデリクは何も言わずにお茶に手を伸ばしていた。

将軍に関してはニコニコとほほ笑んでいるだけで全く役に立たない。

そんな部屋の様子を尻目にハイデン家次期当主のフレデリクの兄、ジオベルが優し気に話しかけてくれたことにとても助かった気持ちになる。

「いつもの事ですから、お気になさらないでください。」

「いいえ。私のせいでなければいいのですが。」

「私の妻も娘も、今は領地に下がっていまして…今回のお話にはとても喜んでいるようでした。今度機会がありましたら会っていただけますか?」

「もちろんです。」

そんな感じで挨拶は進んでいった。

「正直言って驚きました。弟が結婚するなんて。無理やりさせようとしても結局は相手の方に失礼だし、どんなに言ったって結婚をしない理由も口にしないし。諦めていたんですよ。」

ということは無理やりさせようとしたことがあるのだろうか、と微かに思う。

この話も無理やりと言えるだろう。

嫌なのにそれでも断らなかった理由がこの話にあるのだろうか。

彼の興味を引く何かがあるのだろうか。

考え出したらキリがないことを際限なく自分に問い詰める。

思考の迷路に陥ったレイチェルを救ったのは、

「陛下?」

と心配げに顔を覗き込んだジオベルだった。

慌てて顔をあげて、ごめんなさい、と小さく謝る。

「いえいえ。少しお疲れのご様子ですね。この家は騒がしいでしょう、申し訳ありませんでした。」

謝罪に謝罪を重ねられて、レイチェルは今日一番伝えたかったことをまだ伝えてないことに気が付いた。

「もし、この結婚でこの家に不利になるようなこと、迷惑になるようなことがあったらすぐに知らせてほしいです。多分これから私目当ての…」

言おうとしたことは全て言えなかった。

機嫌が良くなったらしい奥様が

「レイチェルちゃーん!」

と呼びかけてきたからである。

ふわりと横に腰かけた奥様は満面の笑みで、レイチェルの腕を取るとそこに軽く腕を巻き付けた。

「あのっ…。」

奥様が座った反対側にはフレデリクが腰かけていたが、それを押しのけるように旦那様まで突入してきたので場の真剣だった、というかレイチェルの必死だった、空気は一気に霧散してしまった。

レイチェルを挟んでまたいろいろと話し始めてしまった二人をよそに、ジオベルは目の前に跪いた。

「陛下が気になさることはありません。幸い、家はそれなりの地位を持っているにも関わらず、政治には極力関わらないで貿易で好き勝手にやってきました。両親は見てのとおり、外面は猫を被っていて、素はちょっと常識から外れていますし。確かに始めは近づいてくる者もいるでしょうが、しばらくすれば政治的な利益はないとわかるでしょう。」

僕自身、面倒くさい話は大嫌いです、とにこやかに『大』の所を強調してジオベルは言った。

兄弟らしく、目元の辺りが良く似てる。

ただし兄は表情が明るく感情が分かりやすい。

そう思ったのは同じような行動をレイチェルに対して二人が行ったからに他ならない。

もうひとつ、二人で大きく違うのは体つきだろう。

ジオベルもしっかりしているし背も高いが、少し厚みが違うのかと思い至る。

「陛下が弟を選んだのは、これはご迷惑かもしれませんが、良いご判断だったと私は思います。こんなに面白くなくて、口下手な奴は他にはいないでしょうから。きっと皆さん、呆れてしまうでしょうね。…だからそのあたりの心配はなさらなくて結構。これからは私たちの事を家族の一員と思ってくだされば、それだけで十分です。」

ああ、本当に。

本当に兄弟なんだと痛感する。

レイチェルを挟んだ夫婦が

「「レイチェルちゃんが心配することなんて一つもないよー。」」

と軽い口調で口を揃えてほほ笑んでいた。

こんな心の広い優しい人たちを巻き込むことになってしまった、そのことに胸が苦しくなる。

いつかこれが終りのある結婚だったと知ったら。

この人たちは私の事をどう思うかと考えると泣きたくなってしまう。

レイチェルは自分が弱くなっていることを自覚して、慌てた。

服のせいだろうか。

いつもは男装して、どこに行くにもまるで戦いのように気を張り詰めている。

目の前の、周りのこの人たちのせいだろうか。

彼らの雰囲気には誰かを甘えさせたり、壁を勝手に取り外してしまうような何かがある。

レイチェルは急いで壁を作り直した。

突貫工事でもないよりかはマシで、自分を守る盾は多ければ多いほどいい。

その後も、それこそ馬車に乗り込むまで、レイチェルは壁を作り続けた。


結婚式まで、時間がなかった。

優秀な、呆れるほど優秀な部下たちは出来るだけ早く結婚させようとしたらしい。

それには自分たちも早く結婚したいという願望も少なからず感じた。

結婚すると言っても執務はいつも通りあるし、どちらかと言えばやることが多くなって予定通り進まなくなった。

当然フレデリクと会う時間なんてない。

レイチェルが出来たのは彼の部屋を準備するようにという指示と、ドレスの寸法を測ったこと。

最後に必要最低限招待客は、特に他国からは、呼ばないようにと強く厳命したことだけだった。

国の人間だけで質素に小さく。

これにはもちろん理由がある。

最後には離縁するのだから、要人や招待客にフレデリクの顔を覚えられるのは極力避けた方がいい。

結婚の事実は隠しようがないし、他人の口を押えることもできないが、彼はこのまま仕事を続けたいと言ったので出来るだけ顔が広くならない方がいいだろう。

「それでも何かあったら言ってください。」

と、彼に送る。

今となって二人の交流は手紙になっていた。

自分の字に自信のないことに加え、フレデリクからの了承の返信の少し硬い字の美しさに、この人に欠点は無いのかと気が遠くなるのを我慢した。

最終的に招待客はフレデリクの一族と、国の主要メンバー、将軍夫妻に軍部の上層部の面々に落ち着いた。

それぞれがパートナーを連れてくるので、十分たくさんの人が集まることになる。

そんな中で、レイチェルはサラにこの結婚の話を知らせずにいた。

他国への報告は式が済み次第、速やかに伝書が届けられるはずだ。

だから彼女の夫であるあの国王からサラの耳に入ることはない。

教えたら飛んでくるに違いなかったし、レイチェルの申し訳なさでいっぱいの心の中を彼女は簡単に見破ってしまうに違いなかったから。

怒られることを覚悟のうえで、伝書を送るより早い、式の前日に手紙を出せた自分を褒めたくなったのはしょうがないことだと思って欲しい。


***


式の当日。

結婚の知らせはすでに国内に広められた。

秘密にしていたわけではないが、結果として、当日の朝一番に国中に知らせを飛ばすことになった。

とうとう正式にレイチェルの夫となってしまったフレデリクは礼装の軍服姿で人々の注目の的。

彼の横で再び慣れないドレス、それもウェディングドレス、を身に着けて、また変なところが無いかと心配ばかりして、レイチェルの視線は俯きがちだった。

出来るだけ華美な装飾は避け、ふわふわは断固拒否、露出など論外で首元から手首までしっかりと生地があること。

侍女たちとの攻防戦を経て、肩から手首までは薄めのレース地で覆うことで折れる。

そのかわり髪を付け足すことに承諾せず、頭からかぶるウェディングレースで誤魔化す案を受け入れさせた。

これらがきちんと守られたシンプルなものをレイチェルは身に着けていた。

顔を上げたのは誓いのキスの時ぐらいかもしれない。

背の高い彼とのキスは触れるだけ、すぐに済んだ。

通常自分が立っている場所は自然と視線を集める場所である。

レースでレイチェルの視界は若干遮られているものの、やはり視線が集まっていることをしっかり感じていた。

顔は隠れていないが男装でここに立てたなら、きっとここまで視線を気にすることはなかっただろう。

こんな格好をもうすることはないだろうし、今だけの我慢だと思う。

視線を集めたのは凛々しい姿のフレデリクの所為にしてレイチェルは早くこの時間が終わる事だけを祈っていた。

自分が結婚するなんて全く考えていなかった、思いもしていなかった。

そしてこの結婚は幸せなものじゃない。

愛する人と結婚する、そんな普通の事を最初から捨て去っている政略結婚だ。

レイチェルの隣に立つ人には慕う方がいて、もしかしたら近くにいるのかもしれない。

バルコニーへ出て国民へ顔を出す時、フレデリクは隣に立った。

お互いが対等であると示すためである。

二人で軽く手をあげて歓声を上げる国民たちへ応えていく。

ゴールへ向けて本格的に走り出した瞬間だった。


湯を浴びて、さっぱりして、レイチェルはポツンと一人寝台に腰かけている。

「もうすぐ殿下がいらっしゃいます。」

聞きなれない呼び名を残して侍女たちは瞬く間に姿を消してしまった。

殿下というのがフレデリクの事であると気付くのに時間がかかった辺り、知らぬ間に疲れてしまったのかなと思う。

それでも寝ることができないのをレイチェルはちゃんと理解していた。

『全て身をお任せになればよろしいかと。』

不安かと聞かれれば不安だし、怖いと聞かれれば怖い。

白い結婚は止めようと言う言葉をフレデリクはどういう思いで口にしたのだろうか。

心の中に慕っている方がいる彼がどうでもいい女を抱くことができると思うと、少し印象が変わってしまう。

顔を合わせて長く話したのは初対面の時だけで、その後は少しだけ顔を合わせただけ。

細々と交わした手紙の内容は日常にあったことを短く書いたもので、レイチェルが書くことと言ったらほとんどが天気の話だとか、読んだ本の話だとか、どうしたって笑えない失敗談とか、面白くないことばかりだった。

あまりにも話題を持たないことにそこら辺にいたローレンスなどに相談し続け、最後にその場面をベルナルド将軍に運悪く発見されて、一人で頭を抱えながらペンを手にすることになった。

こんなもの読んだって楽しくないだろう、と思っても、律儀に返事か帰ってくるからまた同じようなことを書くことを繰り返す。

フレデリクから送られてくる内容は仕事の話が多かった。

一応女王の伴侶というものになるので、極力危険度が高い仕事は避けるように将軍が決めたそうだ。

あまり現場に出なくなる代わりに新兵の教育を担当するようになったという。

『彼らに少しでも成長を感じると嬉しく感じます。』

その一文に仕事を辞めたくないという理由が察せられた。

仕事が楽しくやりがいのあるものだと思っているのだろう。

そんな姿勢にすごいなぁと、憧れのような感情を抱いた。

レイチェルが王になったのは今になって言えば、父が整えた法律によってレイチェルが一番王位に近い位置に立たされてしまったからである。

自分から望んで王座に座ったわけではない。

その時まで自分が王になるなんて欠片も考えたことが無かったし、今でも自分が王として出来ているかわからない。

男装して身を整えるのは自信のない心の表れなのだと思う。

ついでに言うなら女として男社会に出ていく難しさをひしひしと感じていた。

見た目だけでも周りから浮かないようにして、仕事で失敗しないように常にびくびくしながら毎日を過ごしている。

そんなレイチェルは執務を伸び伸びとやれているとは全く言えないだろう。

それでも明日からまた男装に戻れることに少し安心する自分がいるのだから、呆れてしまう。

フレデリクをできるだけ早く解放できるように頑張ろうと決意を新たにする。

彼が望んだことは出来るだけ叶えると約束した。

金や権力を望むなら、できる範囲内でどうにかしよう。

自由を望むなら、すぐに解放しよう。

レイチェルの身体を望むなら、好きにしてくれていい。

こんなものでも欲してくれるなら嬉しいものだ。

肩に触れるか触れないかぐらいまでになった髪がかかっていた耳からさらりと落ちた。

暗い部屋の中では金色は白く輝いているように見える。

見下ろせば寝衣から覗いた足は細く頼りなく、女という性を一層強く突きつける。

手を見れば少し震えていて、レイチェルは両手を合わせて強く握りこむことでそれを抑え込んだ。


小さなノック音に答えれば、こちらもさっぱりとしたフレデリクが姿を現した。

すぐに来ると侍女は言ったのにずいぶんと長い間考え事が出来た。

レイチェルは彼の姿を見てどうしていいかわからないまま、困惑の笑みを浮かべた。

「…こんばんは…?」

今さらな挨拶が口から出る。

暗がりから月明りの下まで移動してきた彼もどうしていいかわからない様子で、レイチェルに近づかない。

少し眉間にしわが寄っているが、それが彼の機嫌を表しているようで安心した。

今の姿の方が好きだなぁと思う。

軍服で身を固めた姿は十分凛々しかったしかっこいいと思ったが、少し堅くて冷たい雰囲気があった。

今目の前にいる方が少し柔らかい印象になる。

服装の威力は凄まじい、と頭の端で思った。

「隣に、お座りになりませんか?」

おずおずと、誘いの文句を口にして。

近づいてきたフレデリクの動きが何かに怯えるようにゆっくりだったことでちょっと意外で、笑い声をこぼす。

「逃げ出したりしません。白い結婚はしないとお約束しました。」

それに、

「お嫌なら無理はなさいませんように。」

逃げ道を必ず作る。

この結婚によって彼の心を汚すようなことがあってはいけない。

フレデリクは少し間を空けて寝台に腰を下ろし、その反動で少しレイチェルの身体も一緒に沈んだ。

二人して窓の方を向いて無言のままでいる。

「…。」

「…。」

その沈黙を破ったのはレイチェルだった。

「…お飲み物は飲まれますか?…いろいろ用意してくれたみたいで。私は詳しくないのでわからないのですが、お酒もあります。」

ベッドサイドを示すが、フレデリクは首を横に振った。

「…いえ。結構です。」

夫婦の初夜の会話の入り方がこんなものでいいのか。

レイチェルは不安だったが、フレデリクが返事をしてくれたことで口は勢いを得てまわり始める。

「わかりました。飲みたくなったら遠慮なさらないでください。では、改めてとなりますが…、私の伴侶になってくださってありがとうございます。」

フレデリクの方を向いて頭を下げる。

この人には感謝してもしたりないほどだ。

自らの経歴にバツをつけることを受け入れてくれた人。

「できるだけ早く解放します。その気持ち、大事に持っていてくださいね。」

自分の心臓の辺りを指さして、持ち続けてくださいと言う。

きっとこれから彼にとって苦しい毎日がくると思う。

どうやってもレイチェルの伴侶だと色眼鏡で見られることを避けることは出来ない。

それを支える中でその気持ちが大きくて重要な役割を持つことは明白だった。

フレデリクも同じように自分の心臓の辺りに手を添えた。

「畏まりました。」

彼が頭を下げてもレイチェルの視線が下を向くことはない。

「その……お名前でお呼びしてよろしいでしょうか?」

「お好きにお呼びください。この部屋では敬語も必要ありません。」

「それは…おいおい考えます。」

声が少し笑っているように聞こえ、何か少し彼の空気が緩くなったように思う。

しかしタイミング良く月に雲がかかったらしい。

彼が俯いていても少しだけ見えていた顔が一気に暗くなって見えなくなる。

「私はあなたを何と呼べばいいでしょうか?」

暗くなった部屋は少し寒さを感じさせた。

「…フレデリク、と。」

答えと一緒に寝台に置いていた手に何かが触れる感覚があって、それがフレデリクの手だと知る。

夜目が効くのか、正確にゆっくりと、手が取られていき、指を一本ずつなぞられる動きにびくりと体が震えた。

腕の辺りまで沿って動いた彼の手はそこでピタリと止まってしまった。

「…後悔、しませんか?」

フレデリクがポツリと呟いた質問に少し困ってしまう。

後悔なんて、ずっとしている。

それこそ彼との結婚話が来てそれにのせられてしまった時から、ずっと。

レイチェルはその質問には答えずに、そのまま質問を返した。

「ふ、…フ…フレデリク…は、後悔しませんか?」

少し緊張して彼に許された呼び名で尋ねる。

こんな好きでもなんでもない女に手を出して、あなたのその美しい心は穢れませんか。

付け足したかった言葉を心の中だけで呟き、この辺りか、と当たりを付けた場所に取られてない方の右手を伸ばせば指先に触れるものがある。

今度はレイチェルが触れたフレデリクの身体がびくりと跳ねて固まった。

「キスだけは…しないでください。…それだけです。まるで子供の考えかもしれないですが、大事にしてほしい。」

レイチェルの指先が触れたのは唇である。

もっとすごいことをしようとしているのに無駄なことだと思うかもしれない。

しかしレイチェルはフレデリクの気持ちのためにこれだけは譲れなかった。

これから起こることは全て欲望を満たすための行為である。

そこに愛情が入り込むことはないし、必要ない。

どれか一つだけ彼にとって守るものを考えればそれしかなかった。

彼が小さく頷いたのを感じて唇から指を離し、暗闇の中でほほ笑む。

「…後悔しませんか?」

再びレイチェルが尋ねた。

ぐっと腕に置かれた手に力が込められて、体が前に引き寄せられていく。

胸板に受け止められて、体に回った腕に苦しいほど力が込められて、レイチェルはトクントクンという心臓の鼓動に耳を傾けた。

少し速めの鼓動に目を閉じる。

自分から真っ暗闇に入れば、身体が小刻みに震えているのを感じた。

レイチェルにこの先の経験はない。

なんとなく話を聞いているだけで詳しいことなんて一つもわからないのだ。

先の見えない恐怖に身体は敏感に反応し、怯えている。

フレデリクに伝わらないように震えを抑えれば抑えようとするほど、逆に震えが大きくなる悪循環に、自分の身体なのに言うことを聞かないという状況に、レイチェルは舌打ちをしたくなった。

自分の中の感情なんてどうでもいいのだ。

確かにまだ父が生きていて一人の王女として生きていた頃、女性として生まれたからは好きな人に愛する人にこの身体を捧げたいと夢見ていた。

ただ自分にそんな人が出来る確率は皆無だし、必要性も感じず、今は王として生きていくことに全霊を注いでいる。

そんなレイチェルを抱き締めている人は真面目な人で、白い結婚はしたくないと言った。

それを叶えられるのは彼の妻になった自分だけしかいない、それだけの事だ。

レイチェルの事をフレデリクの中でその慕う方に置き換えてくれていい。

少し怖いが、物みたいに扱ってくれてもいい。

気分が乗らないなら、心が壊れそうになったら、レイチェルを置いて出ていって構わない。

この部屋の中では、レイチェルはフレデリクの妻で彼の望みを叶える僕になる。

主導権は常に彼にあるのだ。

レイチェルに触れようが、触れなかろうが、フレデリクの自由。

全ては彼の気持ち次第である。

「しません。」

耳に届いた彼のその答えに、複雑な感情が一気に身体中渦巻いた。

哀しみ、怒り、嘆き。

負の感情の多さに苦笑さえできなくなる。

フレデリクの腕の中で俯いていたことに安心して、手早くそれらの感情を回収する。

「あなたは?」

突然少し掠れた声で耳元で囁かれて、目を閉じていたレイチェルはその威力に軽く手を添えていたフレデリクの寝衣を握った。

彼に攻撃されたのに縋る場所が彼の所しかない。

「さあ、どうでしょうか。」

意趣返しのように答えた声は震えなかった。

明確な答えは口に出来ない。

かといって彼に対して嘘をつくことなんてもっとできない。

取れる選択は一つ、はぐらかすしかなかった。

いつか彼が口にした文言とまったく同じに答えたことに細かい理由はない。

ただパッと思いついたのがあの言葉だっただけだ。

声が震えずに出たことに安心する間もなく、身体が持ち上がった感覚がして、とさりと落とされる。

目を開ければ、前にレイチェルを組み敷くようにしたフレデリクの顔があった。

やはり少し眉間にしわの寄った顔はただジッとレイチェルを見下ろしている。

何かに惹かれる様に両手を持ち上げて、腕を彼の首に回す。

精いっぱいの力で顔を引き寄せ、その眉間に軽く唇を触れさせる。

少し離してもう一度顔を覗けばやはり驚いたような顔をしていて、眉間のしわもなくなっていた。

「どうすればいいですか?」

直前にとった行動に意味があるのか、と問われれば、さあ…と困惑気味に答えることしかできないだろう。

自分でも明確な理由がわからないからだ。

ただなんとなく彼の眉間に触れたいと思って、少し遠いから手で引き寄せなくてはいけなくて、手を使ってしまっていたから唇が出てきただけだ。

心の動揺を押さえつけて、レイチェルはごまかす様に口を開いた。

経験があるであろうフレデリクしかこの先の事はわからない。

彼の首から離れて落ちていく腕と一緒に彼が近付いてきて、レイチェルは思わず再び瞼を閉じた。

その瞼に何かが触れた感覚があり、口づけられたとわかったのは同じ感覚をそのまま下の頬にも感じたときである。

ちゃんと律儀に唇を避けて顔中にゆっくりと落とされていくものに、身体の中がざわざわと落ち着かなくなり、首筋の辺りにそれが落とされてとうとう口から吐息が漏れた。

「は…あ、ぁ…ん…。」

フレデリクが口づけを落としていく度に止まらなくなったそれが恥ずかしくて、零れる声を手で押さえようとしたが、レイチェルの腕は動かない。

優しく柔らかく、ただ逃げられないようにしっかりと手首を押さえられていた事に目を開けてから気付き驚く。

いつの間に捉えられたのか、目を閉じていたことで彼の口付け以外に意識が向かなかったらしい。

唇が触れる場所ばかりに神経が集中していて、その気持ちよさに酔っていた証拠であってレイチェルはますます恥ずかしくなった。

そんなことを考えている間もフレデリクは止まらず、今では寝衣が大きく開いた胸元に唇を寄せていた。

「はっ…、…んぁあぁ。…んん…。」

声にならない悲鳴を息とともに吐き出し、せめてもの抵抗として顔を動かせるだけ横にして枕に顔を押し付ける。

自分の声がくぐもった事に安心する間もなく、今まで触れられたことのない場所に唇が触れたことで自らの行動が裏目に出たことを知った。

「あああ!…んあぁ…。」

新しく露わになった首筋に触れるものの気持ちよさにレイチェルの声は一際大きくなり、あまりの衝撃に呼吸が乱れた。

腰の辺りでリボンを軽く結ぶタイプの寝衣は侍女が用意したものだ。

つるりとした柔らかい生地は着心地も触り心地も最高だが、身体を覆うものとしては少々心もとない代物で。

だんだんと乱れていく寝衣は当然のように肩からレイチェルの肌を露わにし始めていた。

ゆっくりとレイチェルの首元から顔を離したフレデリクは落ち着いているように見えて、息を荒くした自分が一層恥ずかしくなる。

レイチェルは自分が感じたことのない感覚に捕らわれて逃げ場のない状態に陥っていることに焦り、彼の動きの一つひとつに悶える身体は一際大きく震えた。

彼が最後に眉間に落とした口づけは他のものより長いように感じられた。

月はいまだに雲に覆われているようで部屋は暗い。

灯りの類はあるものの最低限まで落とされていて、お互いの姿はよく見えるとは言い難かった。

それでもただ、再び目の前に来た彼の、明るいうちに見れば確か深い緑色の、瞳が微かな灯りを受けてきらりと煌めくのを、ただ綺麗だと思った。


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男装女王の恋 @hahaha-ha

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