男装女王の恋

@hahaha-ha

その始まり。

みしっと寝台が軋む微かな音を耳が拾った。

ああ、もうそんな時間かと、レイチェルは微睡みながら目を開ける。

明るくなり始めた朝の空気が広がっているのを感じ、肌寒いことを認識してフルリと体が震えた。

少し手を動かしてみれば、かろうじて寝衣を身に着けているものの肌が露わになった場所が多く、寒いはずだと思う。

昨夜、記憶にあるのは意識が遠のくほど翻弄されたことだけで、寝衣を身に着けた覚えはない。

着せてくれたのだろうかとぼんやり考えて胸が苦しくなる。

そんなことをしている間に背中に感じていた気配は消え去り、今度はドアが静かに開閉する音が耳に届いた。

「…おはようございます…。お気をつけて…。」

重い体を精一杯起こして、ポツリと口から洩れた挨拶は当然誰にも届かず、キンと冷えた空気に消えていった。

「もう少しだから…。」

自分に言い聞かせるように、レイチェルは胸の辺りを強く抑えて呟いた。

ギュウっと瞼に力を込めて、涙が零れないようにする。

もう少しだから。

彼と過ごした後に最近必ず言い聞かせる言葉だ。

溢れそうになる気持ちに蓋をして重しを乗せて、外に出ないように厳重に鍵までかけて。

この気持ちを知っているのはもちろん自分だけで、誰にも知られてはいけない気持ちだ。

「もう少しだから。」

レイチェルは再び呟くと、トントンと胸を軽く叩いて顔を上げた。

気持ちの整理に時間を掛けないようにする。

長引けば長引くほど苦しくなるからだ。

「…早く来ないかなぁ…。」

いつかそう遠くない未来に必ず来るタイムリミットを、レイチェルは今か今かと待ち続けている。


***


レンブラン王国。

レイチェルの父、ルドルフ国王が女性でも爵位が告げるように法律を改正し、周りに文句を言われながら後継者を指名することなく、満足げにほほ笑みながら息を引き取ったのは少し昔の話だ。

慌てふためいた城では次の王が誰なのか、その事だけが話のネタになった。

何故ならルドルフには息子がいない。

王妃を心の底から愛していたので側妃を取らず、どんなにうるさく言われても常に笑顔で躱し続けていた。

ルドルフの血を直接継ぐのは当時二十二歳のレイチェルと十七歳のサラだけで、女だったことがまず事態を複雑にした。

更に言うなら三代前の国王の血を継ぐ男子がいたことが余計だったのだと思う。

結論を言えば、ルドルフが定めた法律が一番強かった。

どんなに受け入れられなくても法律は法律で、レイチェルのもとに王座が転がりこんできた。

レンブランの王座はこの国で唯一の公爵家のもので、その当主が代々受け継いできたものだった。

レイチェルは好むと好まざるとに関わらずレンブラン公爵家の当主となってから国王になり、今まで女が関わってこなかった、関わることが許されなかった世界に一人で飛び込むことになってしまったのである。


慣れない世界に四苦八苦して、お金の話、内政、外交、あらゆる知識をできるだけ早く吸収していった。

それなりに要領も良く、頭も悪くなかったことから、それらの事を苦労と思うことはなかった。

わからないことはわからないままにせず、その日のうちに解決する。

それだけを考えて、どんなに些細なことでも誰かに尋ねる生活を毎日繰り返した。

それにはもちろんサラの助けが必要で、彼女は文句ひとつ言わずレイチェルを支えてくれた。

どうにかこうにかしてある程度は自力でこなせるようになったのは、王となって一年経った頃である。

その頃から国内に小さいながらも不審な動きが出てきたことにレイチェルはしっかりと気付いていた。


「反乱、です…。」

ベルナルド将軍が厳しい顔をしてそう報告したのはそれからしばらく経ってからだった。

月日にすれば半年ほどだろうか。

部屋の空気が一段と重くなり、息をするのも苦しくなる。

レイチェルはすでに様々なことを身に着けていたが、唯一上手くいかなかった、今も上手くいっていない事があった。

それが軍に対する命令権の確立である。

女であることがまず第一、軍部の心証を悪くしたそうだ。

男社会の中でもさらに男しかいない場所で、そこのトップに女が立つという事態が受け入れなかったらしい。

報告によると軍部から離反した者たちは例の男子を新しい主君として立てたようだ。

西の大国と手を組んだとの情報もあり、暗い中始まった会議は明るくなってからもいまだ出口が見えずにいる。

今後の方針を決める時に彼には一度会っただけだったが、失礼ながら人の上に立つような器ではないように思えた。

まあ、今の私の状況も同じだけどね、と一人ため息をついて、最近ため息が多くなったなぁとぼんやりと考える。

目の前ではレイチェルに付いてくれた腹心たちが盛んに意見を交わしていて、サラは何の感情も感じさせずにレイチェルの隣に座っている。

今、大きく支持されているのは東の大国に助けを求めることだ。

レイチェルの中でもそれしかないだろうと、早々にその結論にたどり着いていたが、そのために成さねばならないことがたくさんある事にも気が付いていた。

「サラ。」

ポツリと呟いた声は小さかったが、騒がしかった部屋は一気にシンとして、愛する妹が立った時に軽く椅子がなる音だけが響く。

姉妹の動きに視線が集中していることが痛いほどわかって、改めて王としての責任の重大さに体が震える。

「悪いが、妹は退席させる。しばらく休憩にしよう。」

言葉使いが女性らしくなくなったのはいつ頃だったか、レイチェルはもう覚えていなかった。

サラを伴って後ろの扉から出る。

閉まる扉の向こうから再び意見が激しく交わされ始めたのを感じ、あれをまとめるのは大変だ、と独り言を呟けたのは、ひとえに傍にサラしかいなかったからに他ならない。

「お姉さま、私、…。」

部屋に着いてから、本当に小さな声が横から聞こえたことにすかさず耳を塞ごうとしてしまったのは自分の心が弱いからだろうか。

レイチェルはとっさに小さな彼女の体を抱き寄せるとぎゅうと力を込めた。

すぐに壊れそうになる儚さに怖くなり、サラの体がいまだに本調子でないように感じる。

サラはまだレイチェルの腕の中で何かを言おうとしていて、それを言わせないようにするのに必死だった。

「言わなくていい。これは王として、私が言うべきことだから。」

「…。」

「ちゃんと言う。これしかない、わかってる。ごめん。でも私はまだ王になりきれてない。」

サラの腕が自分の背中に回って子供をあやす様にさすり始めたことで、心臓の鼓動が落ち着きを取り戻した。

ゆっくりと体を離して、サラが臣下の礼をする。

カーテンのひかれていない窓から優しい朝日が部屋に差し込む。

サラは本当に美しく、儚げで、朝日が当たった黒髪は綺麗に輝いている。

この状況を横から見れば、ほとんどの人間が最高に美しい瞬間だと絶賛するかもしれない。

しかし、レイチェルの心の中は反対に暗く、まったく光の当たらない状態で、涙を流していた。

「サラ王女。あなたにはガインデルト王国へ、我が国の平和を守るために行ってもらう。」

レイチェルの口から出たのは、東の大国へ人質として行けと言う命令だった。


サラが乗った馬車が出発すると、レイチェルの心は一層冷え込んだ。

このような状況に陥ったのは全て自分の力不足のせいである。

ガインデルト王国は嫌な噂は聞かないが、いい噂も聞かない、正直に言えば正体が掴めない国だ。

それでも大国として名を馳せているのだから不思議なものである。

唯一の妹にこれ以上の不幸が訪れないことを願う。

「どうか…。」

口から洩れた言葉は途中から声にならなかった。


部屋にベルナルド将軍を呼んだのはその日のうちだった。

彼が現れると、指示通りに周りにいた人間は一人残らず出ていって、部屋には二人きりの状態になる。

普通だったら男女が二人きりになるのは不謹慎なことになるが、将軍には愛する妻がいて、それが周知の事実だったため、問題は何一つなかった。

「お話とは?」

国として緊迫した状態なのにも関わらず、彼は穏やかな笑顔をまで浮かべた。

だからこそ軍のトップに立てるのだろうか、と少し見習わなくてはいけないと思う。

「これから私は軍隊の先頭に立つ。」

出来るだけ冷ややかに、感情を表さず、平然と。

「ガインデルトからの援軍はすでに到着した。不穏の種はすぐに摘まなくてはいけない。さっさと決着をつけようと思う。」

勘違いしないで欲しいがレイチェルは軍について全く勉強していなかったわけではない。

兵法だって、戦術書だって、必要と思われるものには目を通して頭の中に叩き込んである。

軍の人間に認めてもらえるよう、自分たちが仕える主としてふさわしい思って貰えるよう、日々努力を惜しまなかった。

将軍は少し目付きを鋭くしたもののまだ何も口にしていない。

レイチェルは畳みかけるように言葉を紡いだ。

「情けないが、自分で剣をふるうことは出来ない。だが王として、皆を率いる者として、後ろに隠れるようなマネはしたくない。」

「…それでは、お命が危ないことも承知で?」

問われたことに部屋の気温が低くなったようにも感じる。

「無論だ。」

「もし、陛下の命が奪われたら?我が軍はどうするのです。」

「将軍に頼みたい。私が一番信頼している人物だから。より良く、平和に物事を進めてくれると思う。」

「…。」

「重い責任を負わせてしまうこと、申し訳ないと思うが頼みたい。」

長い沈黙が二人を包んだ。

しかしレイチェルにはもう言うことがない。

だからひたすら待ち続けた。

「…わかりました。」

了承の返事にほぅとため息が漏れる。

「私は陛下に仕えると決めました。だから陛下を死なせるようなことは万に一つありません。よってその頼み事は聞かなかったことにします。」

ニコリと最後にほほ笑んで颯爽と将軍は部屋を出ていった。

残ったのはぽかんと口を開けたレイチェルだけ。

安心した空気は欠片も残っていなかった。


剣がぶつかる音、人の怒号、思わず顔をしかめるほどの血の匂い。

本当に最後にはガインデルトの国王まで出てきて、一年におよぶ長い戦いは終焉を迎えた。

出てきた理由については詳しく教えられなかったが、少し体を動かしたかったからだと聞いた。

国王からはサラは元気だとだけ伝えられた。

その他に伝えたいことがあったのかもしれないが、ほとんどの時間は彼が驚くことだけに使われてしまったのである。

第一に、レイチェルは長い髪をさっぱり切ってしまっていた。

理由は邪魔だったから、ただそれだけである。

かろうじて一般的な男性より長い髪が、ふわふわと柔らかそうなところだけが少しだけ女性らしさを感じさせる。

第二に、服装である。

女性らしくドレスでも来ているのかと思っていたらしいが、身に着けているのは男性用の服である。

軍服を着たレイチェルは、それなりにある身長と豊満ではない体のお陰でパッと見、少し女性らしい綺麗な男ぐらいに見えた。

戦場に出ていたため所々汚れていて、今は見えないが打ち身ぐらいの傷も小さいながらいくつもある。

まるで男性のようになっている女王の姿に、彼女の部下たちは何も口を出せないようだった。

「サラをよろしくお願いします。」

国王にそう言った時だけ、妹を心配する姉に見えたという。


「結婚に興味はありませんか?」

朗らかに、その質問はレイチェルの耳にしっかりと届いた。

城に戻り、ガタガタになった内政にメスを入れて整えて、外交を従来通りにし、戦いが始まる前の生活を少し時間をかけて取り戻した。

以前と違うのは、サラがいないことと、レイチェルの姿形だけ。

レイチェルは男装をやめなかった。

髪だけは侍女にうるさく言われて渋々伸ばし始めた。

今ではかろうじて一つに結べるぐらいまでになっている。

それでも女性としては異常と言っていいほど短い。

ただ服装に関しては、こっちに慣れてしまったという理由で頑として譲らなかった。

どうしてかドレスを着る気が起きなかったのである。

そんなレイチェルが執務室で書類とにらめっこをしている時にその質問は投げかけられた。

「…は?」

「だから、結婚に興味は?」

内政を取りまとめているローレンスは満面の笑みで再び問いかけた。

その笑顔に嫌な汗が背中を滑り落ちたのを感じる。

「あ、り、ませ、ん!」

つっかえながらも確実に、危険を回避しようと再び書類に向き合う。

しかしその書類は瞬く間に奪われて、ローレンスの顔が目の前に現れる。

「考えたわけ、女王を支える部下たち全員で。やっぱり王に伴侶がいないってどうなのかってさ。」

随分と軽い口を叩けるのは彼とレイチェルが幼馴染だからに他ならない。

レイチェルは彼をジトッと睨みつけながら

「それは私に後継者を産めっていうことか?」

と、自ら正しい言葉に言い直した。

「んー、まあ、そうともいう。」

レイチェルはこの時二十五歳になったばかり。

それでも結婚適齢期はとっくに過ぎて、一般的に言えば行き遅れの部類に浸かっている。

だからレイチェルの答えは一つだった。

「必要ない。後継者はサラの所から貰う。この調子だったらすぐにまた次の子供が出来ると思うし。それにまだ私は死なないよ。失礼な部下たちだ。」

サラは人質として行ったはずなのに、どこをどう通ったのか、今ではあの国王の正妃の座に座っていた。

しかも一夫多妻の風潮をものともせず、国王は生涯サラだけを妻にすると宣言したとも聞く。

その夫婦のもとに、新たな命が誕生したと手紙が来たのはつい先ほどだ。

「サラ様はサラ様でいいんですよ。私たちは陛下に普通の女性として、結婚して伴侶を得て子供を産んで育ててっていう生活を得てほしい。」

結婚してないやつが良く言うと思ったのは顔に素直に現れたらしい。

「そんな顔するなよ。確かに俺は結婚してないけど、それは主人がまだ結婚してないからだ。」

「好きに結婚すればいいだろう。…だからか、最近嫌味のように結婚したいと次から次へと訪れる。」

はあ、とため息をついてレイチェルはここしばらくの執務室の訪問者を思い浮かべた。

どいつもこいつも婚約者がいるくせに、最後には結婚できないと嘆きだした。

理由を尋ねても答えないのには辟易してさっさと部屋から追い出して、仕事をしろと怒鳴りつけたのは記憶に新しい。

たちが悪いのは、部屋に訪れる男の以外に、レイチェルをお茶会に誘った女のほうからも同じような話をされて最後にはさめざめと泣きだすからだ。

どうしようもなくなって男を呼べば、二人でしっかりと抱き合って泣き続けるのだから頭も痛くなる。

逆に言えば尋ねてきたのは結婚の予定があるやつばかりだと今さらになって思い至り、レイチェルは渋い顔をした。

「こんな男みたいな女の所に誰が来ると?十分な行き遅れだぞ。」

「好きな人とか、いないのか?」

その質問に目を二度ほど目を瞬かせて、レイチェルは吹き出した。

机に突っ伏して肩を細かく震わせ、どんどんと拳を机に叩きつける。

波はなかなか引かなかった。

あまりの煩さに補佐官が隣の部屋から駆け込んで来たほどだ。

「すっき、な、人ぉ?」

ローレンスは不機嫌そうにしかめっ面をして、ソファに身を投げ出していた。

笑い声を聞かないようにするためか耳を塞いでいる。

レイチェルは笑いすぎで零れそうになった涙を軽く拭うと、ふっと小さく笑みをこぼした。

「そんな暇、どこにあった?パーティーには初めに顔を出すだけで、あとは執務室に逆戻り。毎日顔を合わせるのは部下のお前たちに、麗しき女性陣。国のこと以外に現を抜かす時間がなかったことぐらい、わかっているだろう?」

「いるのかなっていう微かな興味だ!国のために一生懸命なのはわかってる。それでも個人として、一人の女性として、幸せな生活をして欲しいと思ってもいいだろう?」

俺たちは主人を大事に思ってるからな、という呟きに、ありがとう、とだけ答えておく。

「その気持ちだけで嬉しいよ。」

「俺は不満だ。」

それだけで話は終わったと思っていたのが甘かったのかもしれない。


「そろそろ本格的にご結婚を考えていただけませんか?」

それを言った人が人で、内容が内容だったので、レイチェルはピシリと体が固まってしまった。

半月ほど前にローレンスに同じような質問をされたがあれは簡単に躱すことが出来た。

今考えればあれはローレンスだったから軽めに済んだものだったのだと思う。

これから立ち向かうものにレイチェルは気の遠くなる気さえした。

ギギギと音をたてて首を動かして声のした方向を見れば、思った通り朗らかにほほ笑むベルナルド将軍がいた。

会議が終わったタイミングで声をかけられたことに何かの策略を感じずにはいられない。

自然と好奇心を感じさせる視線が向けられるし、将軍の後ろにはわざとらしく無駄に綺麗に直立したローレンスが立っている。

「…それは何の冗談だ?」

「冗談ではありませんよ。もちろん。」

「その後ろに立ってる奴にすでに言ったが、結婚するつもりはない。後継者についてはいずれどうにかするつもりだ。…お前たちが気にすることはないはずだが。」

将軍と意見を交わす時に気を付けなくてはいけないのは、できるだけ短時間で終わらせる、その一つである。

武官のくせに口の達者な将軍に一つでも多く言葉を使わせない。

口車に乗せられて苦労する彼の部下たちをこの目で見てきたのだ。

まさかそれが自分に向けられるとは思っていなかったが。

「これでこの話は終わりだ。」

自らの手で会話を終わらせられたことに満足して、レイチェルは将軍がニコリとさらに口角を上げたことに気付かなかった。

彼のことを知っている人ならば、その笑顔は悪魔の微笑だとわかっただろう。

ただこの時レイチェルは気付かなかった。

すでに将軍に背中を向けて、自分を待ち受けている仕事の量を思い出しながら、足取り重く歩き出していたからである。

「では…国のために結婚していただけませんか?」

この一言で足が動かなくなって立ち止まってしまったことでレイチェルの結婚は決まったようなものだった。

良い意味でも悪い意味でもレイチェルは国という言葉に弱かったからである。

それは王としての自分に自信がなく、自らに力がないことを痛感している証拠だった。

「国のため?」

「はい。陛下にはこの国の人間と結婚していただきたいと思っています。…軍部の人間と。」

気付けば将軍の後ろにはこの国の根幹を担っている人間たちが勢ぞろいしていた。

それによって、将軍の言葉が彼らの総意であることを示している。

彼らの出した結論は非常に良く的を得ていた。

軍部から離反した勢力の反乱は時間がかかったものの最後にはしっかりと抑え込むことが出来た。

戦いの間、レイチェルは自分に従った軍部にきちんと命令を出した。

その命令に軍部が従順に従ったのは間にベルナルド将軍が入っていたことが大きい。

彼がいなかったら…、それを考えると背筋が凍る。

簡単に言えば、レイチェルに今軍部が付いているのは将軍のお陰に他ならない。

確かにレイチェル本人への忠誠を得るための近道は、軍部に大きな影響力を持つ、出来ればベルナルド将軍が後継者と認めた人物との結婚が良いのかもしれない。

そこまで考えて再び将軍を見たのは抵抗する意思が無くなったことを示すためだ。

将軍の後ろで満足げにほほ笑むローレンスを見て、後で仕事を余計に回してやると八つ当たりをすることを決めた。

「そこまで言うということはもう候補もいるんだろう?」

椅子に諦めたように腰かけたレイチェルの前にスッと一枚の紙が差し出される。

「彼しかいないと私は考えます。」

――フレデリク・ハイデン副将軍。

ハイデン伯爵家の次男。

一族の性格は実直で真面目。

長男が伯爵家を継ぐので本人は士官学校に入学。

一からの叩き上げで実力は十分、人間性も問題なし。

そんな釣書がずらずらと書き連ねられている。

名前に少しだけ覚えがあったのは、最近将軍が本部に呼び寄せた将来有望だという人材が載った書類で見たような気がしたからである。

ただし顔は知らない。

正確に言えば、顔と名前が一致していなかっただけの事なのだが、この時は何も気づかなかった。

レイチェルが最後まできちんと目を通す間、会議室では一つも物音がしなかった。

「本人は?この話は知っているのか?」

「すでに話を通して、陛下がお望みならありがたくお受けしますとの返答を得ています。」

その答えに思わず少し顔をしかめてしまう。

自分が望んだことということに少し抵抗を感じたからである。

しかし国のための行動というのは、言い換えれば、レイチェルが望んだことになるのかもしれない。

「…そうか。一応本人に会いたい。出来れば内密に。」

「畏まりました。」


面会の場はすぐに整えられた。

久しぶりにレイチェルに会いたいと言った将軍夫人に屋敷でのお茶会に誘われる形で。

通された部屋で待つレイチェルの前に現れたのは、彼女にとって見覚えのある人物で、心が少し動揺した。

彼の方は知らないだろうが、顔に名前が付いて、彼の存在がレイチェルの中で整えられてしまう。

すらりとした体躯に、広い肩幅。

男装して男のように見せているレイチェルには絶対にない性別の差をまざまざと感じさせる。

彼が現れた途端にピシッと部屋の空気が引き締まった気さえした。

「初めまして。フレデリク・ハイデンと申します。…陛下。」

低い声に慌てて意識を戻し、立ったままだった彼に座るよう促した。

将軍の指示で部屋には他には誰もいない。

この屋敷に勤める人間の口の堅さは天下一品だし、二人きりで話したいというレイチェルの頼みでもあった。

それでも隣室に誰かしらいるのだろうが。

「初めまして。レイチェル・レンブランと言います。」

目の前に座ったフレデリクと正面から目を合わすことが出来ない。

彼の良い姿勢と高い身長と、同じ高さの椅子に腰かけているはずなのに、レイチェルは自然と少し顔を上げた。

「単刀直入に聞きます、…あなたには誰か、異性で慕っている方はいますか?」

自分がローレンスに聞かれた時は笑い飛ばした質問を、今度は自分が真剣に尋ねている。

そんなことには一つも気付かず、レイチェルは答えを待った。

フレデリクは少し驚いたように目を開く。

「…います。自分には手の届かない、高貴な方です。」

素直に質問に答えてくれたように見えた。

レイチェルはそう感じた。

「そうですか。」

「…。」

彼はジッとレイチェルを見つめ続けている。

「失礼ですが、その気持ちに望みはありますか?」

「さぁ。どうでしょうか。」

表情に気持ちの浮かばない人だと思う。

答えだけを淡々と。

レイチェルは何も読み取れなかった。

「望みがあると判断したら、すぐに離縁したいと言ってください。私を理由にすぐに離縁します。どうしようも我慢できなくなった場合も同じです。私には他人の結婚を破談にすることは出来ませんが、あなたと別れる権利なら持っています。あなたに傷は一つもつけません。」

彼はいまだに口を挟まない。

「いつか、…あなたを解放します。出来るだけ早く、ここから三年のうちに。お約束します。その間だけ、私の伴侶になってください。その間、私は出来る限りあなたが望むことを叶えます。あなたが不自由と思わないように、あなたが無理をしないように。仕事の方も望むならば今まで通りできるように取り計らいます。」

大切で重要な言いたいことを言って、レイチェルは大きく深呼吸した。

これからは国の事を話さなくてはいけない。

「知っての通り、軍部の私に対する少し風当たりは冷たい。あなたがそのことについてどう思っているかはわかりませんが、ベルナルド将軍のお陰で今は何とか従えている状態です。私は王として軍部への命令権を確立したい。あなたを伴侶と迎えることできっかけを得たいというのが本心で。最後には必ず形にします。出来れば少し協力してくれるとありがたいんですが。これらをわかっていただけるなら、私と結婚してください。」

最後は少しお願いのようになった。

あとはフレデリクの答え待ちだ。

ここで了承したら結婚へまっしぐら、そうでなかったら結婚話が無くなるだけで。

レイチェルの心の中では了承してほしくないの方が強くなっていた。

長くて三年の間、好きでもない相手と夫婦になるなんて普通の人だったら耐えられないだろう。

まして慕う相手がいるのならなおさらだ。

自分の気持ちを大事にしてほしかった。

こんな、王なんていう国を背負っている女に、一般的な夫婦の形から著しく外れてしまう結婚に、フレデリクの時間を無駄にするわけにはいかない。

返事を待っているとフレデリクが動いた気配がした。

いつの間にか彼は床に跪いていて、ひじ掛けに置いていたレイチェルの片手はフレデリクに捕らわれている。

まさか、という気持ちに顔が強張った。

「お話をお受けします。ただし、私からも条件が。陛下にもしお慕いする方が出来たら教えてください。同じ理由で離縁に応じます。夫婦である間、私は陛下の忠実な僕で、夫になります。私は権力はいりません。ただ望むのは…。」

顔をしかめたフレデリクはしばらく黙り込むと、少し手に力を入れた。

柔らかく握られていた手の平の間が狭くなる。

「陛下のお力になりたい、それだけです。お互い誠実にいきましょう。お嫌でなければ、夫婦生活もそれなりに。白い結婚では周りに噂が立ちますから。」

レイチェルは彼の手を振りほどきたいのを必死に我慢していた。

嫌だったわけじゃない、彼のその申し出に、その心の広さに、申し訳なさでいっぱいだったからである。

「一応、私は男ですから。言わせてください。」

フレデリクはそう言うと、レイチェルを見上げた。

さっきまでは逆だったのにと思う。

「私と結婚してくださいませんか。」

涙が零れた。

自分が力不足なばかりに、この人の大切な時間を奪って、この人の心の広さにつけこんで、最後には愛してもいない好きでもないレイチェルを抱いてくれるとまで言う。

こんな人、私なんかにもったいなさすぎる。

止まらない涙を拭ったのは武骨な指だった。

親指で次から次へと溢れる涙を止めようとしている。

「あ…あな、たの…。」

この指で拭いたかったのは、私の涙なんかじゃないだろうに。

「何ですか?」

答えを促す声が優しく耳に届く。

この声を聞かせたかったのは、私なんかじゃないだろうに。

遂には泣き止まないレイチェルをフレデリクは引き寄せた。

ふわりと香った爽やかな香りに続いて感じたのは、すらりとした見た目に反してしっかりとした彼の身体だった。

人一人を抱えたってびくともしないだろうと言うほどがっしりしているものに包まれる。

「結婚してくださいますか?」

もう一度抱きしめられたまま、尋ねられた。

彼が抱きしめて尋ねたかった相手はレイチェルなんかじゃないのに。

「あな、たの…お、望みのままに…。」

嬉しいです、私なんかでよければ。

まだ恋愛や結婚に夢を抱いていた頃、求婚されたらこんなふうに答えたいなという文言なんか言えない。

言えるはずがない。

涙が止まらなかった。

膝の上につくった握りこぶしにこれでもかと力を籠める。

爪が手の平に食い込む痛みは、彼の心の痛みなんかと比べられないだろう。

それでも、この痛みを忘れてはいけないと自らに叩き込む。

ポツリとつぶやいた上に途切れ途切れの答えが無事に届いたか、レイチェルはポンポンと優しく背中を叩かれて知った。


***


もし、あの頃に戻れるというなら。

レイチェルは一人で着替えながら考えた。

湯あみも済んで、体の重い感じもまぁまぁ無くなった。

いまだに男装を使っているが、髪は随分伸びて、今は背中と腰の間あたりまである。

それでもこの服装に合うように一つにする。

ドレスは最悪自力で切れないが、男性用の服は面倒くさいものでなければ十分自力で着れるものばかりだ。

仕立てるためにかかる金額もそれなりに違う。

そんな理由からレイチェルは男装をやめずにいた。

シャツを着て、上着を羽織って。

鏡の中でだんだんと出来上がっていく自分は王として、ちゃんと出来ているだろうか。

答えはきっとわからない。

行っている政策の結果が評価されるのは遠い遠い未来の話だ。

人々に自分が評価される時もその時だ。

鏡の中の姿はあとはボタンを留めるところまで来た。

ひとつひとつ飛ばさないように、首の下までしっかりと留めていく。

この部屋から一歩でも外に出れば、レイチェルは王として周りに見られる社会に足を踏み入れることになる。


もし、あの頃に戻れるというなら。

どんなことをしてでも、たとえ自分の頬を張ったとしても、レイチェルは自分を怒鳴りつけて考え直させただろう。

『将軍の口車に乗せられているだけだ。』

『結婚しないという意思を貫く強さを持ちなさい。』

『他人の力に彼の存在に頼るなんて、王として情けないと思わないのか。』

文句はきっと止まることを知らずに口から出続ける。

『苦しい思いをすることになる。』

『…女としての自分に気付くときが来てしまう。』

そして遂には、

「この部屋から出ていきたくないと思う時が、…来る。」

鏡の中のレイチェルがそう言った。

慰めるように男装した自分の頬に手を伸ばす。

もちろん触れることは出来ず、つるりとした冷たい鏡面に指が触れただけだ。

自分の浮かべる笑顔は、笑っているように、心の底から笑っているように、見えるだろうか。

心の中の溢れそうになる気持ちを抑え込んで無理して笑っているように見えないだろうか。

「もう少しだから。」

レイチェルは最後もう一度そう呟くと、今度こそ鏡の中から姿を消した。

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