変化してゆく距離




 兄弟子に話があると言われた。改まってのことに、アリアスが何だろうと思いながら、約束の日時に会った兄弟子は一人ではなかった。


「クレア様」


 隣にいるのは、落ち着いた雰囲気の女性。その女性の名をクレアと言い、アリアスがよく知る人だ。

 クレアは、ルーウェンの恋人だ。その事実を知ったのはそこそこ最近のことだ。

 クレアのことは随分昔から知っていたので驚いたが、そう知ってしまうと並ぶ姿はしっくりくるものであった。


「アリアス、今日は来てくれてありがとうな」

「いいえルー様」


 それで話とは何だろう。と思いつつも、並ぶ姿を見てもしかして、と思うところが一つ出てきた。


「実は、クレアと結婚することになったんだ」


 ルーウェンは柔らかな笑顔をした。


 ――兄弟子が、結婚します



 *



 結婚することとなった彼の妹弟子、クレアもよく知る彼女は、明るい笑顔を咲かせた。


「おめでとうございます、ルー様、クレア様」


 嬉しそうな笑顔でそう言ってくれて、クレアは「ありがとう、アリアス」と仄かに微笑んだ。

 家族に祝福されることも嬉しいけれど、アリアスに祝福されることは同じくらいに嬉しいことだった。


「とても、嬉しいです」


 小さな頃から知っている子だということもある。だけれど、それだけではない。

 アリアスはクレアにとって、とても救いになったような時期があり、そういう意味では恩人と言ってもよい存在だった。

 同時に、とても小さな子で気にかけずにはいられない存在でもあった。

 何より、彼女との出会いが、クレアの生活を変えたのだ。


「アリアス、覚えているかどうか分からないけれど、ルーウェンを私と会わせたのはアリアス、あなた」

「私、ですか?」


 クレアは頷いた。

 かつて小さな女の子と出会い、クレアは救われ、そしてまた出会った。

 大きく、もっと自分の世界を変える人だとは思わなかった出会いだ。




 ──クレアは、人付き合いが得意ではない。仕事上のやり取りは難なく出来るけれど、私生活になったり仕事の合間の雑談となると苦手な方なのかもしれない。

 それは今も、一部を除き、あまり変わらないことではある。


 学園を卒業してから、クレアは城の医務室に勤務となった。

 仲の良い数少ない友人は、元々学園の科選択から違い館勤務となったり、医療科で同じだったが騎士団専属の医務室の魔法師となったりと職場が離れた。

 同じ敷地内におり、宿舎も同じなので会えるにしても、職場に親しいと言える人はいなかった。

 物静かで、あまり感情が顔にも声にも出ないクレアは学園の間も人付き合いが広がらなかったわけで、卒業して急にそれが変わることはなかった。

 むしろ、今まで僅かな機微を拾い上げてくれる友人がいたことが例外だったのだろう。

 だが人並みな人付き合いをすることは苦手なだけで、会話は苦手ではないし嫌いなわけではない。そう思っている。

 私的な関わりには発展しないが、普段の仕事や生活において不自由は覚えていなかった。

 そうやって毎日を、最低限の関わりのみで仕事をこなしていく日々。同僚の雑談を横に、淡々と一人で。毎日毎日。

 こうして何年も何年も続けていくのだろうと、変化しない未来は自動的に予想されていた。

 けれど一人の小さな女の子に出会って、クレアの日常は変化を遂げた。


「……だいじょうぶですか?」


 昼休みに、人気のない静かなところにいたくて外にいると、聞き慣れない高さの声を聞いた。

 クレアが意識しないうちに下に向けていたらしい顔を上げると、


「具合、わるいですか?」


 小さな女の子がいた。オレンジ色のワンピースを着て、頭に可愛らしいリボンをつけた子ども。

 なぜ子どもが、と考えていたクレアは、目の前にいる女の子が心配そうにしていることに気がついた。

 おそるおそると、こちらを窺っている。


「……具合は悪くないから、大丈夫」

「そうですか……?」


 具合は悪くない。いや、微かに頭痛がする気がする。

 疲れているつもりはなかったのに、疲れていたのだろうか。そういえば、最近気がつけば下ばかり見ているような気がする。

 一体何に疲れているというのか。理由が分かっているようで、分からないふりをしていたら、その場にいる女の子がポケットをごそごそし始めていた。

 何をしているのだろう。そもそもこの子は何者だろう。


「あなた――」

「これ、あげます」


 レースをあしらわれたポケットを探ることを止めて、近づいてきた女の子は拳を突きだしてきた。

 何かくれるらしい。

 見知らぬ子の行動に疑問を感じながらも、手を差し出すと、手のひらに置かれたのは。

 可愛らしく包装された、飴、だろうか。


「ずっとじめんを見てたり、くらい気持ちになったら、あまいものを食べるといいとルーさまが言っていました」


 緊張気味に言った女の子は、他には何も言わず、去っていった。

 一方、残されたクレアは手の中のお菓子を見つめていた。

 すごく、不思議な心地だった。

 あの小さな女の子は、妖精か何かだろうか。小さな子に心配されたらしい、という事実からか、柄にもないことをぼんやりと考えてしまった。

 残ったのは、飴。それと、小さな子に言われた言葉だけなのに、じわりと胸に温かい感覚が芽生えた。


「あの」


 小さな、声。

 飴を見つめていた目を上げると、女の子が目の前に再度現れていた。

 下を見ていたからだろうか、などと思う。

 だが違った。


「道に、まよってしまいました。……ここから、とうへ行くには、どこを通ったらいいですか……?」


 妖精は迷子になったらしい。

 恥ずかしそうに言うもので、クレアは思わず微笑んでいた。久しぶりに、笑った気がした。

 あめ玉は、とても甘かった。


 それからというもの、小さな女の子は心配してくれているのか、時折医務室の近くに現れるようになっていた。

 彼女と接するたび、クレアは癒されるような心地になった。

 そうなると、やはり新しい環境に知らず知らずのうちに張り詰め、疲れていたのだろう。

 女の子は、クレアから話すようになり、微かに笑みを浮かべると、ほっとした顔をして、よく楽しそうに笑顔を浮かべた。

 彼女が子どもだからだろうか、クレアは義務ではない、他愛もないことを話すことが苦にならなかった。


 そして当たり前だが、女の子は妖精ではなかった。

 見慣れないとはいえ、城に子どもが来ることもある。そう冷静に考えてみると、礼儀正しい女の子は、こんなに自由に城にいるならそれなりの身分の子どもだろう。

 もしかすると、二人いる王子のどちらかの遊び相手かもしれない。

 そう思っていると、違った。


「アリアスは、よく、お城に来るのね」

「はい。ししょうの部屋があるので、よく来ます」

「……師匠?」


 誰かに、師事しているということで合っているのだろうか。心当たりは浮かばなかったけれど、それ以上は聞かなかった。

 彼女はどうやら師匠が城に部屋を持っているから、城によく来るようだ。



 ある日の夕方、宿舎に帰るために歩いていると、「クレアさま」とあの子の声がした。

 医務室の近く以外で会うのは初めてで、偶然に頬が緩みかける。

 足を止め振り向くと……思い描いた女の子がいたけれど、アリアスは見慣れない人と一緒だった。

 騎士団の制服を身につけた、青年だ。


「アリアス、また知り合いが増えたのかー。俺に紹介してくれるか?」

「クレアさまです」


 アリアスと手を繋いでいる青年は、簡潔な紹介を受けて、クレアを見た。


「妹弟子がお世話になっています。同じ師の弟子で、ルーウェンと言います」


 感じよい笑みを浮かべた青年は、名字を名乗らなくても一目瞭然。その色彩は、王家の血を引く貴族の子息だった。

 のちに知ることになるが、ハッター公爵家の子息で、師は最高位の魔法師のジオ=グランデ。

 アリアスは、そんな師と兄弟子を持つ子どもだった。


 ともあれ、これが後にアリアスを見守り心配する者同士、時に協力し合うルーウェンとクレアの出会いだった。

 しかし最初から結婚に至るような関係性だったのではない。

 クレアはアリアスを気にかけ、怪我をすれば手当てをし、風邪気味だったりすると体調が悪いようだとアリアスの兄弟子である青年に教えたり、それくらいの関係。


 いつからだろう。

 どういう関係か、どういうつもりで接しているのかと考えると、明確な関係性の名前がないと気がついたのは。

 初めは確かにアリアスのことについて、アリアスによって繋がり、関わっていたのに。二人で会ったり、他愛もないことを話したり、するようになっていた。

 喋ることは苦ではなく、また、生まれる静寂が居心地悪くないことに気がついた。


 好きだとは言わなかった。言われなかった。

 恋人かと言うと絶対に違い、知り合いかと言うとそこまでよそよそしいものでもなく、友人かと言うとまたよく分からないところだった。

 そう気がつくと、もう一つ、彼との間に線があることにも気がついた。

 彼が越えないようにしている線でもあり、クレアが踏み込めない線でもあった。そもそも、元々クレアは踏み込めない性格だ。

 だからそうやって、明確な関係の表現ができない状態は続いていった。一年、二年、三年……。

 それでもクレアには焦りというものはなく、変わらず彼といることは居心地が良いことには変わりはなかった。

 関係も近づかず、離れず、変わらなかったけれど、それで良かった。


 しかし、ずっと変わらなかった距離は、ある日変化を迎えることとなった。

 しばらく会っていない、と思う寒い日々があり、しばらくして姿を見せた彼にほっとした。

 その期間のことについて何も言わないということは、職務関係で言えないことだと分かっていたから、クレアも何も言わなかった。

 そうしてまた、同じ日々、時折会う姿。

 そのうちの一日に、変化が訪れた。


「クレア」


 静寂をゆっくりと呼び覚ますような声の持ち主は、呼びかけたのに、少し間を置いて、また名前を呼んだ。

 こういうのは、珍しい。


「俺が、クレアに言う資格があるのかどうか、ずっと考えていたことがある」


 ルーウェンは、穏やかに笑っているのに、どこか哀しそうな顔をした。彼は時折、そんな表情をする。

 それでも少し前から無くなっていたものだったと思っていたのに、今、そんな顔をする。


「俺は、クレアに話せないことがある。それはこの先ずっと話すことがないことかもしれない。それでも俺はクレアの側にいたいと思ってしまう。――その一緒にいたいという俺の我が儘を聞いてくれませんか」


 出会ったときから年齢以上に落ち着いており、歳の差を感じさせなかったルーウェン。

 話せないこと。それが彼がこんなにも許しを請うように、慎重に手を伸ばす要因となっていることは分かり、けれどこの先ずっと言えないことかもしれないと言う。

 でも、なぜ、我が儘だと言うのだろう。そんなに弱い色がちらついているのだろう。いくら考えても、見ているもの以上のことが分かるはずはない。


「ルーウェン」


 分からないが、クレアはぽつりと彼の名前を声にした。

 見続けていた青の瞳を見つめ、一言、彼の思っていることの間違いを正す。


「私はそれが我が儘だとは、思わない」


 隠し事があると面と向かって言われても、不思議と気にならなかった。

 このように言うのだから尋常ならざる隠し事だとしても、見てきて見ている自分の知る「ルーウェン」という人物が揺らぐことはないだろう。それくらいは彼のことを知っているつもりだった。


「私も、あなたの側にいたいと思う――」


 声が消えてしまったのは、驚きから。伸ばされてきた腕にあっという間に引き寄せられて、包まれて。

 抱き締められて、初めて、これまで妙なものとなっていた距離がなくなった。

 初めての抱擁は少し力が強くて少し苦しくて、それでいて今までになく側にある気配に実際の温度だけでなく心が温かくなった。


「ルーウェン、少し、苦しい」

「うん」


 抱き締められて、肌に当たる布の感触越しに直接声が響いてくるような気がした。

 うん、と言ったルーウェンは聞いているのに、聞いていないように力を緩める気配はなかった。

 まるでこれまであった距離を全て無くすような、そんな抱擁だった。

 苦しいと言ったことは単なる照れ隠しのようなものだと自覚していたクレアは、耳を澄ませるように瞼を下ろした。


「クレア」

「……なに」

「ありがとう」


 何への礼か分からなかったから、うんとも何がとも言わず黙っていた。ただ――


「好きだよ」


 囁かれた言葉も、さっきの礼も、何もかもを受け止め、受け入れた。


 この日を境に、関係性に名前がついた。恋人、という名前だ。

 だからと言って、特別互いへの接し方が変わることもない。

 話すこと、流れる空気の心地よさ。クレアは静かにぽつりぽつりと話すし、ルーウェンは穏やかに話す。

 いや、確かに変わったところはある。接し方も変わった。話すことはあまり変わらない。流れる空気は、ほんの少し、変わった。

 ある日、すっと髪に何かつけられて鏡を見ると、花を模した髪飾りが咲いていた。


「クレアに似合うと思って」


 贈り物をされたのは初めてだった。「ありがとう」と呟いて、クレアはその日から髪飾りを愛用しはじめた。


 他にも、抱擁の回数は増えた。彼は甘く微笑むこともあったし、初めて口付けられたこともあった。


「あなたは、何をするにも恥ずかしげがない」

「恥ずかしげ?」


 長く抱き締めている間も、目が合ったときも、口づけた後も。とても穏やかに微笑み、感情が表情に出にくいクレアとてそっと視線をずらしてしまうことが多々ある。

 表に出ないことと、実際に何も感じないかは別だ。

 あるときぽつんと呟くと、ルーウェンは何のことを言われているのか分からないといった風に首を傾げた。

 だがすぐに示すところを理解したらしく、「まあ、確かにそうかなー」とこれまでのことを思い返したようなことを言った。


「俺は、態度で示せることが嬉しくて仕方がないんだ」


 そして、そう微笑んだ。柔らかく、優しく。


 確かに恋人と呼べる日々だった。それまでの曖昧な距離が嘘だったような日々。

 それはクレアの新たな日常となった。ただし淡々と過ぎていく日々ではなく、大切な毎日だった。

 穏やかに、穏やかな時間を過ごし、いつしか、この時間がずっと先まで続けばいいと思うようになった。彼の側におり、話し、接する。

 しかしあまりに大事なものになり、幸せな時間に思えていたから、反対に脆く崩れそうなものにも思えた。

 恋人という距離になった。前の距離が曖昧だったのにも関わらず、恋人という明確な距離になると破綻出来るものになるとも意味しているようでならなかった。

 だから、彼がその言葉を自分に向けたときまさしく夢のごとき心地になった。


「俺はクレアといる時間が大切で、好きだ。叶うことならずっとクレアといたい」


 とても真剣な眼差しをする青い目に映るのは自分。


「クレア、俺と結婚してくれませんか」


 最後の距離を無くしたのも、彼だった。




 ――そうして二人は結婚する




 アリアスに結婚を伝えた後、クレアはぽつりと言う。


「アリアスに喜んでもらえて、嬉しかった」


 彼女は特別な存在だった。それは、自分にとっても、ルーウェンとってもそうなのだろう。

 アリアスが去った方向を見ていると、「クレア、一つだけ」とルーウェンが言い、見上げて首を傾げると、微笑む彼は顔を寄せた。


「アリアスは、俺の妹なんだ」


 耳元で一つ、囁いて、離れていった顔は微笑み変わらず穏やかなものだった。

 聞いたことを思い出し、クレアは微笑みをこぼした。


「それは、もう知っている」


 ずっと前から兄妹にしか見えなかった。









────────────────




 恋人未満だった二人の話。最初だけアリアス視点、あとはクレア視点でした。クレアのことは覚えておいででしたでしょうか。

 途中出なかった時期もあったため、誰だ、となった方は申し訳ありませんでした。




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