第7話 何者




 自覚したのは、視界からではなかった。

 何か、音が聞こえた。バチャバチャと濡れた音や、声が、遠くの方から聞こえてくる。

 次に、冷たいという不快感を得る。眠っていたのであれば、薄い意識で捉えた声や音はそれほど気にならなかっただろう。

 しかし一度不快感を自覚すると、意識が沈み直すことはなかった。感じるものが、わずかに明確になってきたような。


 肌に水に浸かっている感じがする。一瞬、水の中にでも浸かっているのではないかと誤解して、間違いだともすぐに気がついた。身につける服があり、水が服に染みている。染みているというレベルでもなく、顔に直接水を感じる。冷たい。

 どうやら顔を濡らす水が降り注いで来るようで……これは、雨か。耳に届く音の中に、雨音があることを捉えた。


 視界が戻ったのは、そのときだった。

 重い瞼を持ち上げると、ぼやけた世界が広がった。ここは、どこだ。すぐに記憶が見つからず、繋がらず、ひたすらにぼんやりとする。


 見えているのは、地面か。水が張った面に、雨が落ちている。落ち続けている様子が映る。

 濡れた地面に倒れてしまっているようだった。だがやはり、なぜこのような状態になっているのか記憶がなく、どのような状況かも分からない。

 分からず、まともに思考も動いていなかったが――意識をはっきりさせる音が鼓膜をひどく揺らした。

 竜の声だった。

 竜が、鳴いている。それも甘えるような声ではない。威嚇が混じっているような声。その声に騒いだのは、単に心か、それとも魂か。


 アリアスの意識が明確になった。

 冷たい。一番に感じたのは再度の濡れた感触で、雨が降り注ぐ地面に横たわっていた。倒れては、雨避けのマントはさほど機能せず、体はほぼずぶ濡れ。

 そんなことは、すぐに気にならなくなった。雨が膜を張る世界に広がる、異様な光景があったのだ。

 竜がいる。その周りに、暗い衣服を身につけた姿がいくつもあった。まるで、竜を取り囲むように。


かしら! この声じゃあ、気がつかれるかもしれませんよ!」

「ああ、さっさとやるぞ。攻撃魔法は効果がない! とりあえず囲め! 食われるなよ!」


 いる者全ての顔が見えない。ほぼ全員が竜の方を見ており、背を向けているからだ。

 彼らは、一体、誰だ。

 なぜ自分はこうなっている。

 わけが分からず、アリアスは身を起こそうとする。やけに体が動かし難い、と思った原因は……腕が動かない。

 起き上がるために体を支え、地面につこうとした腕が動かせず、気がついた。指は動くが、手、腕が動かない。後ろに回った腕、手首に違和感がある。縛られている?

 どうして。


 ますますわけが分からないながら、考えている暇はないと、思考の一部が判断し、苦労して身を起こした。濡れそぼった髪から滴が垂れ、顔を伝う。

 起き上がっても意味の分からない状態は続く。なぜか、たった今まで自分は倒れており、意識がなかった時間がある。そしてその間に現れただろう人たちがおり、彼らは――誰だ。

 マントの中の服装は分からないから、城の者だとも何とも言えない。

 けれども違和感だけでなく不信感までも抱くようになったのは、竜の様子と、起き上がると拘束されていた自分の状態だ。想像し得る限りで、彼らが集団ではないではないことが感じられた。

 彼らは何者で、何をしようとしているのか。何者か、というのはこの状況ではどうでもいい。重要なのは、何をしようとしているのか。

 竜の方を向いて。


 竜に、何かするつもりだ。何をするつもりだ、と言いたくなった口を閉じた。彼らはアリアスが起きたことに気がついていない。

 人数はざっと見ただけで五人以上……もっといる。一人で何か出来るとは思えない。

 アリアスは素早く周りを確認する。先輩は周りに倒れていた。竜の方を気にしながらも、一番近くに倒れているディオンの元に近づく。


「おい、一人起きてるぞ!」


 ディオンを起こそうとするかどうするかする前に、気がつかれた。

 後ろを向くと、見える限り全員がこちらを向いていた。その全ての顔が見えない。目以外、顔に覆いがしてある。そんなことをしている者たちが、ただの集団であるはずがない。


「ちょっと連れてこい」


 一人、近づいてくる者があり、アリアスはとっさに魔法を使おうとする。


「……え」


 魔法は使えなかった。使おうとして、実際に使える感覚はあるのに、外に出ないような感覚に襲われる。

 その間に来た人物により無理矢理立たされる。衣服の裾から、水が滴り落ちた。

 そのまま押され、顔を隠す者たちの元までやって来た。

 一人の、顔は見えないが体格からして男の前に。


「あんた、竜の世話係だろ。竜を大人しくさせる術を知ってるんじゃないか」

「――あなたたちは、一体何ですか」


 アリアスは目の前の男を見据える。一体何者だ。


「何を、竜に何をしようとしているんですか」

「頭、早くしないと人が来る」

「そうだな。――怪我したくなかったら、竜を大人しくさせることだな」


 体を、押し出される。

 遠巻きに囲まれている竜の方へ。鳴き、牙を剥き、周りを牽制するように尻尾を振る竜へ。

 せめてその前に止まろうと、倒れ込もうとしたが、アリアスを掴む手がそうはさせない。

 盾のように押し出され、鋭い鉤爪を構える竜が迫り――全ては止まった。


「これはいい、大正解だ。おい、今のうちだ」


 前を見上げると、白い竜が頭を下げてアリアスの様子を窺うようにした。そして少し顔を上げ、周りを睨むように牙を剥いた。

 唸る声。

 周りを見ると、竜は完全に取り囲まれていた。それも、鎖のようなものを手にして周りを囲む。徐々に距離は狭められ……ファーレルは唸るばかりだ。

 自分がいるから動けないのだと、アリアスは悟った。最近自らの体の大きさを自覚してきた竜だ。

 この状況に、何か危険を感じていて抵抗していたのだろうが、今、アリアスが邪魔になっている。


「ファーレル、ファーレル逃げて」


 竜の大きな体であれば、突進すれば逃げられるはずだ。

 だけれども竜は、アリアスをちょっと見て「キュウ」と鳴く。どうして。

 考えると、逃げようと思えば、突進して逃げられていたかもしれないのに、竜はここにいる。

 ……まさか、アリアスたちが倒れていたからか。

 もしくは、どれほどかの危機を感じていて威嚇していても、彼らを傷つけようとは思えなかったか。同じく最近、ちょっと気に入らない相手でも気遣いを覚えていた竜だ。

 でも、この状況で。そういった判断は、まだつかないのだろうか。分からない。

 しかし、どちらにしてもこの状況はまずい。竜に何かあってはいけない。

 と、思ったところでふと考える。


 ――竜に、何をしようと言うのだ


 鱗は固く、危害は加えられるとは思えない。炎は未熟で吐けなくとも、魔法でも傷つけること自体は無理なのではないだろうか。

 では一体。

 ファーレルを逃がせないと判断したアリアスは、周りを窺う。


 鎖を持つ人たちは途切れていた鎖を繋ぎ、今一本にした。アリアスがぐるりと見渡すと、鎖は円となっていることが分かる。これは何のつもりだ。

 怪訝に思うが、人が持つ部分にあるものを目にする。あれは、石?

 丸い石のようなものが見え、全員がそうだ。途端に、嫌な予感が駆け巡った。

 魔法石、魔法、何の魔法を。


「――ファーレル、鳴いて! 大きく、あの場所に届くように!」


 ここなら大きく鳴けば、闘技場がある。

 騎士団の団員がおり、竜がいる。どちらでもいい。気がついてくれれば。

 アリアスは魔法が使えない。竜は逃げない。状況を打破する方法は、それしか思い付かなかった。

 あの場所と闘技場を目で示せば、橙の目でアリアスを見た竜は、頭を上げて、口を開いた。空に向かって――その声が響く。

 大きく、強く。今だけは、大人の竜にも負けないくらいに。

 最も近くにいるアリアスの鼓膜を直撃し、アリアスは顔をしかめずにはいられないが、これならば間違いなく届いたとも思った。雨を吹き飛ばしそうな声だ。

 周りで、鎖を取り落とし耳を塞いだ動作が見えた。


「うるさいな」

「頭、さすがにこれはまずい……!」

「分かってら! 何落としてる、さっさとやるぞ。……まったく、やっぱり口を塞ぐべきだったな」

「その女は」

「時間がない、一緒に飛ばす」

「でも元々の確率が低いんじゃ」

「どうせ一か八かなんだ、つべこべ言わねえでやれ!」

「了解!」


 そのとき、遠くの方から、声がした。

 激しい竜の鳴き声が、響き渡る。闘技場の方からだ。


「うわ、竜だ!」

「落ち着け馬鹿野郎共、いいか、一回やったら失敗成功に関わらず俺たちはとっとと逃げる。集中しろ」


 強く、押された。体は為す術なく、濡れた地面に倒れ込んだ。痛みは二の次、すぐに顔を上げる。


「いくぞ、合わせろ。一、二、」


 魔法を感じた。知った魔法だと直感し、だから魔法が発動される直前に感じられたのだろう。


「三」


 強烈な白い光が放たれた。





 目を開くと、雨は降っているが場所という景色は一変していた。

 アリアスはやはり、と思う。

 今のは空間移動の魔法だ。師がよく使うところをすぐ近くで見てきたため、いつしかその魔法が使われる前兆が察知できていたほどだった。


「……どういうことだこれ」


 どこかと景色をよく見る前に、周りにいる者が目に入る。布で覆いをし、顔が見えない者たちが先ほどより多くいた。


「成功したなら、竜が来るはずだろ」

「作戦は失敗か?」


 アリアスを見て、口々に囁き合っている。

 そこで、アリアスはあることに気がつく。竜はいなかった。

 大きな姿は、どこにも見当たらない。


「……失敗……」


 空間移動の魔法は、無機物を移動させるより生き物を移動させることが難しい。生き物の中でも最も大きいだろう竜を運ぶのは、最難関だろう。距離にもよるが、あの魔法の強さでは駄目だと思った。

 けれど、竜はいない。失敗、だろうか。竜がいないことにほっとした。


「とりあえず頭たちを待とう」

「こいつらどうする」

「拘束はされてる。逃がさないようにだけして、待っておこう」


 逃げられそうな隙はないようだが、新たな危機感を持ちながらもこの状況自体にはアリアスはそれほど焦りはなかった。竜はいないと分かったからだろう。

 明らかに竜が狙われていたが、竜はいない。ファーレルは大丈夫だろうか。まだ狙われているのであれば、心配だ。また魔法を使われても失敗しますように。

 それだけが気がかりでならない。


「アリアス、大丈夫?」


 びっくりした。

 名前を呼ばれて、びくっとしたあと、振り向く。


「ディオンさん……!?」


 ディオンがいた。頬が泥で汚れ、フードがずれているために、雨が髪や顔から滴り落ちる。

 他の先輩含め、彼も倒れていたはずだ。アリアスは何とかディオンに近づく。

 周りにいる人たちはそれほどこちらを気にしておらず、違うことを気にしているようだ。


「だ、大丈夫ですか?」

「うん。アリアスは」

「大丈夫です。……でも、ディオンさん、どうしてここに」

「ファーレルのものらしきすごい声で起きたら、意味が分からない状況だったけど、まずそうな雰囲気を感じたからとっさに飛び込んでいた」


 あの大きな鳴き声で起きたのか。そして、魔法に飛び込んできたらしい。そんな無茶な。


「とにかく妨害しなければならないと思って……とりあえず、ファーレルはいないようで安心だ」

「そうですね」


 ディオンが表現も声も、いつものように表に出てないだけか、普通そのものなので、アリアスはさっきよりも落ち着いてくる。危機感も減った気がする。

 ディオンは周りに目を向けている。


「ここは、どこだろう」

「……王都、なんでしょうか」

「王都と言っても、結構郊外の方かも知れない」


 妙に開けた場所で、建物も密集していないと分かる。王都は、城に近づけば近づくほどに建物が密集している。そもそも王都に入った時点でかなりのものだが、一部郊外になると静かなところがある。そこ、だろうか。


「空間移動の魔法で竜を飛ばそうとしたなら、王都以上遠くに行っているとは考えられないけど……そもそも空間移動の魔法自体が信じられない」

「そう、ですよね」


 空間移動の魔法は高等魔法だ。

 アリアスも、不本意ながらもようやくまともに考えられる時間ができたことで、考えはじめる。

 この状況についてと言うよりも、この状況を作り出した者たちについて。


「この人たちは、魔法師ということですよね……」

「そうなるかもしれない。……一体、何者なんだろう」


 竜を狙い、空間移動の魔法まで使用した者たち。怪しいことこの上ない、というかこうなっては怪しいを通り越している。

 一体何者で、何のつもりなのか。魔法師は魔法師でも、城に勤めたりする魔法師がこんなことをするはずがない。道を外れた魔法師、という存在を思い出す。


「何者にしてもどうにかして彼らから逃れなければならないだろうけど、……魔法が使えそうにない」

「私も、魔法を使おうとして使えませんでした」


 今も試しに使おうとしてみるが、魔法は形にならない。魔法力が逃げていっているような感覚だ。

 なぜだと原因を探ろうとすると、縛られているような手首の上の方に何かつけられていることを発見する。


「魔法封じ……?」

「……確かに、何か、つけられている」


 ディオンは不可解そうに眉を寄せた。もっと意味がわからなくなった、と言うようだ。


「頭!」


 周りにいた者たちが、わっと沸いた。

 咎められないことを良いことに、こそこそと話していたアリアスもディオンも人が動いた方へ顔を向ける。

 この場にいた者が駆け寄った方には、一人、囲まれる男がいた。


「竜は盗めなかった」


 竜を、盗む?

 アリアスは頭の中で反芻し、横でディオンは呟いた。


「作戦は、失敗ですか?」

「ああ。途中で邪魔が入ってな」


 歩き続け、近づいてきていたその男が、アリアスとディオンの前に立ち止まる。鋭い眼光が刺すのは、ディオンの方か。


「妨害してくれやがって……魔法は発動された。もしかしたら上手くいってたかもしれないってのに」

「頭、人数が足りませんが……あと三人は」

「捕まった。失敗が分かった後逃げるとき、他の竜が来て炎で魔法を阻まれた。その内に人が来た」

「……どうしますか」

「当然だが、この後すぐに竜をまた移動させるつもりだった過程は中止だ。まったく、竜の制御が出来る世話係だけ連れて来てもなあ」


 それも二人、と目が向けられたのはアリアスとディオン。


「連れて行くんですか?」

「そうだな、こっちも捕まった人員がいるから人質にでも使うか」


 人質、という言葉にアリアスが目だけでディオンを見ると、先輩はかなり眉を潜めて、一言。


「魔法師盗賊団……?」


 まだ確証がない様子で。

 その、魔法師盗賊団という単語を最近聞いたことがある気がして、アリアスが思い出そうとしていると、前で男が笑った気配がした。


「大当たり、とでも言っておくか。巷ではそう言われているらしいからな」


 ひとまず場所を移るぞ、と言い、男は背を向けた。




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