第19話 それもまた証
また同じ日数をかけて王都に戻り、予定していた日に再度スレイ侯爵家に行った。一度会っていたからだろう。そこまでの緊張はなかった。ゼロの両親と弟であるランセが一度に集まった席はまだまだぎこちなさもあるけれど、それぞれの声の固さは薄くなっていた気がした。
「アリアス」
帰る前、玄関ホールでランセに話しかけられた。ゼロは少し離れた位置で父親に何やら言われている。
何だろうと思っていると、近づいてきたランセが左右をきょろきょろしながら何か差し出す。四角に折り畳まれた布だ。ハンカチ?
「これ、イレーナに渡しておいてくれないか」
「イレーナに?」
「ついこの間夜会で会った。他人のワインがかかったときに偶然会って、これを借りたままで、イレーナは良いと言ったんだが返せるのなら返しておきたい」
「分かった。必ず返しておくね」
「頼む。……イレーナも大変だな、魔法師になったのに夜会に連れ出されるなんて。休暇の最終日なんだって言ってた」
イレーナの休暇はもう終わっているはずだ。彼女の休暇は終始実家主導の流れに飲まれてしまったらしい。おそらく卒業したきりで、思わぬところで再会して驚いただろう。ランセの言い方では少し話したようだ。
「おやランセ様、ハンカチの令嬢にラブレターですか?」
「ラ――違う。変な事を言うなクロード」
音もなく近づいていた背後の従者の言葉にランセが一瞬言葉を失っていた。
「私は是非とも応援したいのですが」
「変な事を言うなって言ってるだろう。――とにかく、アリアス頼んだからな」
「うん」
ランセは従者を押して離れて行ってしまった。離れたところで何やら言い合いをしている。仲が良い。
受け取ったハンカチを必ず友人に届けなければと眺めながら思っていると、「アリアスさん」と今度は女性の声に呼ばれた。まだ少し聞き慣れないこの声は……。
「はい」
ゼロの母だ。侍女を伴い離れたところで静かに立っていたオリビアはいつの間にかランセと入れ違いにすぐそこにおり、若干緊張する。そういえば、彼女と二人向き合うのは初めてだ。
おまけに本日も物静かな様子であったので、アリアスはここまでろくに言葉を交わしていないことになる。
けれど、目が合った灰色の瞳がゼロと同じ色で少し落ち着いた。アリアスは見つめて、ゼロの母もすぐには何も言わなかったからそのまましばらく不思議な空気が出来上がる。
「また、いらっしゃって」
彼女が言ったのはそんな言葉だったけれど、本当は何を言おうとしたのかは分からない。
「――はい、お
分からないが、この先時間がある。急かなくてもいい。
アリアスが微笑んで言うと、ゼロの母は僅かに目を見開いた。何か変なことを言ったろうか。
「まったく、もったいないな。結婚式くらい挙げればいいものを」
自主的に答えを見つけるか尋ねるかする前に、ゼロの父が十数分前までいた部屋でも言っていたことを言いながらやって来た。
「息子がそう言っても驚きはしないが、アリアスもとは……もったいない」
嘆かわしげに首を振られて、アリアスは曖昧に笑う。
二人で話して決めてそういったことはしない方向になっていた。兄弟子もゼロの父親と同じようなことを言ったのだけれど、アリアスにはそういう願望はないし、恥ずかしさの方が勝つと思う。
それに家族になれるだけで、もう身に余る幸せがあるのだから。
「アリアスが良いのならいいが。何はともあれ次に会うときには『アリアス=スレイ』か」
中々良い響きだ、とゼロの父親の笑い声がその場に響いた。
*
城に戻ると、結婚する際に提出する書類を然るべき場所に提出した。これにより結婚した証拠にもなり、同時に名字が公的に変わることとなる。
今日よりアリアスは正式に「アリアス=スレイ」となり、つまりゼロの妻となったということ。
結婚したということがこうして形としてあると実感が湧くような、だけれどまだ湧かないような、不思議な心地。帰る道、そんな心地に満たされて、ぼんやりする。
職場で登録されている情報まで全て自動的に変更されるわけではないので、休暇明けにでも名字が変わったことを知らせよう、と考えたり。
「わ」
ふいに重みを感じたかと思うと、抱き締められた。
辺りはすっかり日が暮れたけど、すぐ近くの人の顔ははっきり見える。
「ゼロ様、そ、外です」
「ん、悪い。すげえ嬉しくなった」
ますます深く抱き締められて、嬉しそうに言われると、微笑んでしまうのはつられたからではない。それはアリアスもだったから。胸元に顔を埋めることになっているアリアスが頬を寄せると彼の存在を感じるようで、この距離がずっと続く未来があることに心が温かくなった。
「ああ、そうだ。渡したいものがある」
そう言われて見上げて首を傾げると、ゼロは答えずに微笑んだ。
城のゼロの部屋に行くと、彼が取り出してきたのは小さな箱だった。箱の蓋が開けられて、灯りで輝いたのは――指輪。
「これ……」
「プロポーズした後に作ってもらったから、渡すタイミングは今日かって思った」
取り出され、手を出すように言われて片手を差し出すと、ゼロの手で指に通されるそれ。
指の付け根に慣れない感触があらわれる。
それは、つける位置によって特別な意味を持つ指輪だった。結婚した証。同じものを身につけることで、夫婦と分かるものでもある。
結婚して、家族になる事実。それだけでも十分なのに、名字もだけれど形ある証とはくすぐったくて、とても嬉しいものだ。ぴったりとはまった指輪に目を奪われていると、前にいる気配がずっと近くなって、気がつけば軽く抱き締められるようにして引き寄せられていた。
「愛してる」
耳朶に触れた唇が直接耳に囁いた言葉。
顔を上げると、触れていた顔が離れていくところで、深く笑むゼロと至近距離で顔が合う。
――彼は、いつも溢れるほどの言葉をくれる。
アリアスはいつも、いつもそれに応えられている気がしない。照れてしまうから、想いを口にすることも少なくて、自分の想いがそのまま伝えられていないかもしれなくて。
だからアリアスは離れていこうとするゼロの頬をつかまえて――少し背伸びをして、お礼も込めて耳元に同じ言葉を届けた。
言ってすぐに手を離して、ゼロの顔はもちろん見れなかった。例によって恥ずかしさが湧いてきたのだ。むしろ顔を伏せてしまう。
しかし離れる前に今度はアリアスが捕まった。後頭部に手を差し入れたかと思うと、顔を上げさせられ、柔らかく唇が重なっていた。
「あー……堪んねえな……」
唇に熱い息がかかった。すぐ近くにゼロの顔があって、アリアスは瞬く。
心なしか熱が混じる灰色の目が、間近でアリアスを見つめていた。
「そんなこと言われたら、今日は帰せそうにねえな」
「え?」
聞き返した口は次の瞬間また塞がれていて、次は長い、深い口づけだった。離れては重ねられて、一瞬しかない合間に洩れる息は熱い。どちらの息か。いつ離れて、また重なっているのか。回数が重なる度、時間が経つにつれ、熱に浮かされ、絡めとられて分からなくなってくる。
「……?」
だから力が抜けた体を抱き上げられていることに気がついて、ぼんやりとした頭で首を傾げた。
「ゼロ様?」
なぜ抱き上げているのかとゼロを見上げると、口づけが降ってきた。軽く唇を触れあわせる程度で、目を開くと、ゼロが甘く笑みを刻んでいた。
「こういうことだ」
アリアスがそっと下ろされたのは、ベッドの上。腰かける形になって、アリアスがゼロを探して見ると、前に彼が跪く。
この状況は。若干混乱している。
「アリアスが許してくれるなら、嬉しい」
彼は、見たこともないくらい艶やかに笑んだ。灯りに照らされた端正な顔にはいつからか、色香さえ漂ってさえおり、これまで重ねた歳月でもなおはじめて見る雰囲気と表情でアリアスは動けなくなる。
この場所で言われて、その意味が分からないアリアスではない。
「ゼロ様――」
「駄目か?」
驚きに近い状態は徐々に収まってきた。代わりに生まれるのは、何だろう。駄目かと聞かれると、駄目、ではない。ただ、どうしていいのか、どんな顔をすればいいのか分からなくて。
「……そういう風に聞くの、すごくずるいです」
「だろうな」
本当にそう思っているのだろうか。膝をついているゼロは笑った。
「こんなに急に我慢できなくなるとは思わなかった」
そうしてアリアスの手を掬いとって指にキスをした彼の視線は、アリアスに注がれたまま。
「アリアス」
「……はい」
「アリアスが欲しい」
視線一つのそれほどまでの熱さは、言葉の熱も表している。
その言葉を向けられて、真っ直ぐ見つめ返すのは恥ずかしいけれど、嬉しくないはずがないから。
頬を染めたアリアスは、小さく頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。