第15話 異変
もしかすると自分が直接行くことになるのかもしれないと言っていたゼロが、城を発った。もしかすると、と言っていたあの時点ですでに彼が行くことが決まっていたのかもしれないとアリアスは思った。
どうか無事に帰ってきて欲しいと願ったのはゼロにかサイラスにもか。「無事に」と願ってしまうことが、そうさせる穏やかなならざるものがあると思っている証拠で、どう願えばいいのか。ここまで来てはじっと待つ以外にはないから、とにかく待つことにした。
塔にいる生活も二週間が近づきそう。
アリアスは今日こそは、と仕事復帰の説得を師の部屋で師へ行っている途中。
「だから師匠、もうやることがなさすぎるんです」
「掃除でもしていればいいだろう」
「私に塔中の掃除でもさせるつもりですか」
「やることがないならな」
「師匠」
「とりあえず大人しくしていろ」
「それは何でですか。もう傷は治していただいて……これじゃレルルカ様が治してくださった意味がないじゃないですか」
前回までは早々と関する会話が締め切られたことで言えなかったことをこれでもかと言い、
「もう大丈夫ですから」
これ以外に何と言えばいいのか見当がつかないので全てを一言に込めて言えば、執務机を挟んで向こう側。座って手に持つ書類でアリアスの方には隠れていた顔が、書類が傾けられてあらわれる。
鮮やかな紫の瞳がアリアスに向けられており、アリアスも机の前に立ちこの辺りだと無意識に当たりをつけて見つめていた位置に寸分違わず目があったことで視線を僅かにもずらすことはなく目を向け続ける。
一見すれば、睨み合っているように見えたかもしれない。アリアスは今度こそという意気を持っていたし、ジオはそもそも無表情で怖くも見える節があるからだ。
「師匠、私はもう子どもではありませんよ」
「どれほど時が経とうと歳の差は変わらんぞ」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
アリアス自身の年齢的に。歳の差でいつまでも子どもに見られるのではたまったものではない。
「とにかく、です。私、明日から仕事に戻ります。つけられた理由が何かは知りませんけど、二週間近くもいれば十分ですよね」
「つけられた理由は俺も知らんから、その辺りは知らんが」
だからなぜ知らないのだろうか。
「そんなに戻りたいか」
「戻りたいです」
即答する。こういうときは余計なことを考えずに自らの主張をひたすらに押すべきだ。
「これ以上こうしている理由が、私にはありません」
師が理由を述べてくれるのなら別だが、そんなに納得できそうな理由は見当たらないと思う。
半ば無理矢理に、ではあるもののアリアスは自分の中で混ざり合う考え気持ちに整理をつけた。だから。
アリアスがきっぱりと言い切り、師に真っ直ぐに臨むとジオはこれまでと同じことを言うではなくすぐに口を開く気配がない。アリアスの目を探るようにも見返し、黙し、沈黙が冷気と共に流れる。
冷気というのは、別にジオが雰囲気として冷え冷えとした空気を醸し出していたり視線が冷えていたりするなどしてそんな風に感じるということではなく、単に季節につれて冷えていった空気が部屋に流れているだけだ。
この季節になると、師の部屋は寒い。
暖炉はあるのに基本的に火は入れられない。未使用で本来は寒くなるほどに手を入れなければならないそれの掃除は不必要で楽……という点はさておきどれほど寒くなってもジオは暖炉を活用しないどころか着込むこともしない。
寒さを感じていないらしい、と知ったのはいつだったかは覚えていないが、もう随分昔から師に関する常識だった。今も部屋は壁で外気は隔てられている分外と同じ体感温度とまではいかないけれど、寒い。アリアスは肩掛けを使用しているのに対してジオは上は白いシャツ一枚、という格好。震える様子も寒がる様子もない。
今日も起きたときに窓の外を見た限りでは雪は降っていなかったが、気温はすっかり冬で息を吐けばうっすら白くなりそうな室内。
静かな時間が幾らか過ぎて、アリアスが意思を込めた目で見つめている先。
「分かった」
今まで引き留めていたのはなぜだったのだろう、というほどに師があっさりと言ったものでアリアスは一瞬了承されたことが分からなかった。表情もいつものことながら変わらなくて、前触れもなくて。
「――いいん、ですか?」
「ああ」
呆け気味になりながらも確認すると、またもあっさりと了承が返ってきた。
「ただしルーにも言っておけ」
「はい」
それはもちろん。
拍子抜けしたアリアスは書類に目を落としはじめた師を眺めてしまう。本当に、急だ。気まぐれだったのだろうか。何だったのか。
何はともあれ今日でこの懐かしくもあった生活も終わりらしい。必ず許可をと思っていたとはいえ簡単に行きすぎて、まだ首を捻りつつアリアスは机の前から離れていった。
次はルーウェン。兄弟子は相変わらず仕事の合間やそれが無理でも仕事終わりに来てくれるから今日も会うだろう。
兄弟子は昼過ぎに姿を現した。
アリアスが話を切り出したのは、しばらく時間が経った頃。もうルーウェンも戻らなくてはいけないかな……と推測されるとき。
「……引き留めすぎたもんなー」
仕方ないか、というような弱い微笑みがルーウェンの反応であった。塔の掃除のためのはたきを握ったままだったアリアスはまた拍子抜け。
するとなぜアリアスがそんな様子なのか、というように兄弟子は首を捻った。
「どうしたんだ?」
「……師匠もルー様も、急にすんなり頷きますね」
今までの苦労は何処へと困惑に近い顔をしていると、ああそういうことかと納得した様子のルーウェンはこれまで引き留めていたことを思いながらの苦笑で元々考えてはいたのだと言う。
「確かに傷も治してもらってレルルカ様ももう大丈夫だと言っていて、アリアスが大丈夫だって言っているのに止めていたからなー。心配だったから。……それでもいつまでも止めているわけにもいかないことだし、長く無理に止めすぎるのは良くないのかもしれないと考えていたところだったんだ。だから次にアリアスが言ったときには、と思っていた」
「そうだったんですか?」
「うん」
そうだったのかとアリアスが納得していると、ルーウェンが真剣な顔つきで「ただし」とつけ加える。
「具合が悪くなったら我慢しないようにすることを約束して欲しいんだ」
もしもを案じる言葉は彼らしいものであった。
青い瞳を見上げたアリアスは悩むことも心配しすぎだとは思わず、
「約束します」
頷いてみせると、ルーウェンは緩く笑みを浮かべて頷き返してアリアスの頭を撫でた。
「ルー様」
「うん?」
「毎日来てくれてありがとうございます」
ここ最近の出来事で思っていたことを言うと、ルーウェンは笑みを深くして「俺が来たいから来ているんだから」と言った。
「じゃあ俺もせっかくだから一緒に掃除していこうかな」
「ルー様はお仕事に戻ってください」
じゃあから繋がり、せっかくとは何だ。
なぜか残念そうにしたルーウェンは予想していた通り戻らなくてはならない時間が迫っていたようで、アリアスの頭をもう一撫でしてからアリアスと別れた。
アリアスはその背中をちょっと見送って、数年前まではよくこんな光景を見ていたな、と場所もまるきり同じな過去を思い出す。
次いで、明日から復帰することが決まったということで今日中に仕事場に行き誰かに言っておくべきなのだろうか。ルーウェンの反対もなく丸々一週間、もうすぐ二週間を経ての仕事復帰について考えつつアリアスははたきを手に掃除に戻ろうと足の向きを反対方向へ――――向けかけた瞬間だった。
視界の端、カッと強い光が目に入った。
アリアスが驚いて反射的にさっきまで顔を向けていた方を見ると、通路の先に止まっている姿――青みを帯びた白い光が立ち止まったルーウェンから発されていて、身体を折り曲げているではないか。
後ろから見ると苦しげな体勢に見えて、
「ルー様!?」
一分以内前とは一変した光景にアリアスは驚愕に染まる声でルーウェンの名前を呼びながらも慌てて駆け寄り、顔を見て様子を窺う。
「大丈夫ですか?」
「――大丈夫だ。驚いただけだから」
苦しげに見えた折り曲げていた身体が特に無理をしている様子も、苦しんでいる様子もなく起こされる。顔も苦しそうな様子はなく、本人の言うとおりに驚いて変わった体勢が顔の見えない位置からだと具合が悪くなったように見えただけのようだった。
だが、青みを帯びた白い光は収まっていない。
これは魔法。それも結界魔法か。白いだけではなく青みを帯びた色は、独特な魔法の証。
「ただ――」
ルーウェンは苦しそうではなかったが、なぜ魔法が放たれているのか分からないと不可解そうに視線を自身の手に落として呟く。
「……自分の力じゃないように、勝手に出ている」
この突然の状態が彼自身にも分かっていない。
力が勝手に出ている、と。そこから予想されることは力の制御が出来ていない、という類いの事。しかしこの兄弟子に限って力が制御できていないなどということが起こるとは考えられない。でも……。
一体どうしたというのか、収まる兆しのない状態にアリアスの中には焦りが生まれる。ただ事ではない、と頭のどこかが本能にも近い形で判断したのだ。
「師匠……!」
助けを求めようととっさに思い浮かんだ、まさにこの塔にいる師を天井を仰いで呼んだ。
呼んでから歯噛みする、ここから聞こえるはずがない。直接呼んで来なければ。
「ルー様、師匠を呼んでくるので……」
とりあえず師だと思って走り出す前に言い残していると白い光が近くで生じ、収まる前に目に見えた黒い姿。
ジオが現れていた。
アリアスの声が聞こえたはずはないのでルーウェンの魔法の気配を察したのかどうか……今はそれはどうだっていい。
「師匠!」
「何があった」
「分かりません、けど、ルー様が」
急に。
何が起こっているのかとどうすればいいのかで狼狽して来てくれた師に懸命に答えようとするものの口が上手く動かない、舌が上手く回らない。
「落ち着け」
落ち着き払ったジオの声に動揺した感情を鎮められたように、アリアスは見ていたはずの師の顔をそのときはじめて認識したようになる。
瞬きをし、目が合っている紫の瞳が少しも動じていないことが分かって少し心が落ち着く。
アリアスが若干落ち着いたことを見てからジオはルーウェンに視線を移して様子を確認する。
「ルー、大丈夫か」
「はい」
「お前が意図的にしていることではないな」
「はい。全く、どうにも出来ない感じです」
ジオが目を動かしたことで再びルーウェンを見上げたアリアスはルーウェンに大丈夫、と微笑まれる。当の兄弟子も冷静に受け答えしていて、一見すると何もおかしいことはないのに。その身を包む光さえなければ。
「力がどこかに行っているな……」
返事を聞き終えたジオは顔をあちこち異なる方向へ向け視線が宙をさ迷い、何かを探るように時折ルーウェンを見た。
「……師匠、一つ引っ張られているような方向があるのですが」
「どっちだ。――いや、分かった」
それほど時間が経たずしてジオの視線は定まった。
顔ごと向けられているのは通路の先。突き当たりには当然壁があり、壁には小さな窓がひとつ。
「結界か」
窓から見えるのは、城の壁。
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