第18話 逃げ道の有無
「こんにちは」と前に立ち、他ならぬアリアスに向かって言ったのは知らない人だった。茶色の髪に茶色の目。よくある色彩でじっと見られている。
「あの、何か」
制服姿ではなく、年齢も多くの生徒より高い。ただ、教師ではないことは分かり、王子の侍従と異なり反射的に身構えさせる何かがあった。
相手の立ち止まった距離が近かったこともあり、本を持つ手に力を入れてじりと少し後ろに下がる。
「見ぃつけた」
一応何用かと問いかけながらも訝しげにしていたアリアスに男の声とは別の声が言った。
それは下に張り付いている男の影からしたと思えた。
声につられて見下ろした影が、男が動いていないのにゆら、と確かに動く。その
瞬間、同時に違和感が大きくなって確固としたものになる。
目線を勢いよくあげて男を見た。やはり、そこにはよくある色を持った
「あなたは、」
まさか。
心当たりがあった。
この不気味な影。
特徴的な声。
忘れられるはずがない。
「あれ、バレたかァ?」
へらり、と男が笑った。
その表情は隠しきれるものではない。話し方も語尾が特徴的に伸びる独特のもの。
アリアスは目を凝らす。
未だに見知らぬ男に
違う。こんな外見ではない。違う。
この男は――
「仕方ないか、こっちが勝手に喋ったしなァ」
「勝手にとは言い草だね。いいじゃん、どうせバレるものはバレるし」
ずずず、と茶色で統一されていた色彩が溶けるように失せ、黄土色の髪と深緑の目……否、少し濁った色が表れた。濁った、というよりは他の色の混じった色。
幻。
アリアスが見ていたのは魔法で作られた偽りの色彩だったのだ。顔もそれまでは今思えば霞がかかったようだった。
それらの魔法があまりに強力すぎて、その異様さにここまで入り込んできているのに誰も気がつかなかったのだ。
そして、アリアスもあの絡みつくような声を聞くまで分からなかった。
「どうもお嬢さん、久しぶりだな」
「何でここに、」
今、戦争が起きているはずだ。
この男が将軍を勤めるという国と。
理解ができない。
「お嬢さんが言っているのは、戦争のことかな。ご心配どうもって言うべきか?」
お嬢さん、とアリアスを指し笑っている男は確か、レドウィガ国の将軍。やはり間違いないのだ。
心臓が、嫌な鼓動の打ち方をし始める。
なぜここに。
急に置かれた事態に思考が追いつかない。
言わずにいられなかった疑問はアリアスの中を埋め尽くす。
「結構探した。城にいるかと思ったのに、とんだ引っ掛けだ。学校に通ってるとは、そんな歳だったんだな」
カツン、と大股で一歩姿が近づく。
男の服装は前と同じように場に溶け込むような格好。決して戦争に向かう姿ではない。
それに、今の言葉は何だ。
探した。誰を。自分を?
男から視線は離せないが、確かにここは王都の学園。図書館へ繋がる通路。アリアスの日常になっていた空間に、わざわざやって来たのは……。
なぜ。
なぜこの男は戦争の原因となるようなことをしていったくせに当の戦地ではなく、グリアフル国に、この学園にいるのか。アリアスを探した風なことを言うのか。
「そう怖がるなよ、悪いようにはしないしないさァ。俺はな」
「僕がするみたいなこと言うね」
「俺には関係ないからそこら辺は勝手にしてくれってことさ。とりあえず俺は早く戦場に戻りたいし、我が国の勝利のために来てもらおうかお嬢さん」
そう言って伸ばされた手はアリアスを捕まえようとしている。
手が腕に向かってきて触れる前、身体がとっさの判断をした。
ぱちんと高めの音と共に発生した白い魔法の光はアリアスが出したもの。
硬い音が一度に幾つ分か。持っていた本を取り落とした。それに構う余裕は全くないので落ちた先を見ることもなかった。何歩も、でも背中を向けることはなく下がる。
相手のことを考えず、さらには近い距離でためらいなく攻撃魔法を使えたのはその男に会ったことがあるから。
子ども騙しみたいに威力なかった一発目の後には内にある魔法力を意識し、攻撃魔法を準備する。
なぜ、どうしてと理由なんて関係ない。考えるべきは今どうするかだ。この、危険そのもののような存在の男を前に。動揺している暇ではない。
男は明らかにアリアスをどこかに連れて行こうとしている。黙ってついていくなんてことはあり得ない。するべきではないし、するはずがない。
少しだけ取れた距離は心許ない。また一歩下がる。
「見くびられてるのか、俺は」
威力より威嚇と数を優先している魔法の光の向こう、男の声が聞こえてくる。結界で防いでいるのか。
見くびってなどいない。以前連れて行かれることとなった空間でゼロと魔法をぶつけ合うこの男を見た。
どう頑張っても、アリアスは将軍である男に勝つことは出来ない。
「手間が増えた」
「ほら、早く捕まえた捕まえた。戻れる時間は君次第だよ」
「ちッ他人事かよ。あんたがしろって言ったんだろォ」
「交換条件でしょ?」
「そうだったなァ。感謝してますよ魔法族様」
「あはは感謝なら遂行してからがいいんじゃない?」
余裕の会話。ちらつく姿。
どうにかしなければ、と思う。誰か気づいてくれないかと思う。けれど、幸か不幸か授業中なので生徒の姿はない。教師の姿も。誰かが通りかかってくれたところでこれに巻き込んでしまうのがおち。
嫌な汗をかく。
心臓も収まらない。
一度、息を深めに吐く。
「どうにか……どうやって、」
頭を無理矢理にでも働かせるために呟いた。
やはり教師にどうにかして気づいてもら――
……一人、教師は分からないからどうとも言えないが一人、きっとどうにかできる人がいるのではないか。
学園長。確か、つい最近その役職でなければ魔法師の最高位にいただろうと聞いた。
学園長であれば。
閃いた人物はこの敷地の中で最も力を持っているであろう女性。
思いついて迷いはなく、周りをざっと確認する。
ひとまず外に。そして、学園長室に。そこにいなければ……そのときはそのときだ。
アリアスは考えるが早いかタイミングをはかって走り出す準備をする。
目くらましの魔法を、ありったけの攻撃魔法と共に――
「考えてることは大体分かるが、無理だってこと教えておいてあげようか。人は来ない、というより来る前に連れて行くからなァ」
「――っ」
決意と一緒に魔法を放つ直前、アリアスより余程強い光と威力の魔法が向かってきた。準備しておいた結界魔法を使うが、容易に砕かれる。
右脚に熱が走る。衝撃に耐えきれずにかくんと体勢を崩す。
「……ぅ」
魔法を放つ手も止まる。
魔法が当たったこととなす術なく崩れることに顔をしかめる。しまったと強く感じる。
すぐさま魔法の再開、立ち上がり男の姿を確認する前に、……見なければよかった。
魔法が当たった脚には痛みは感じていない、でも反射的に確認しておこうと、した。
脚は一箇所赤く染まっていた。そこから座り込んで、立ち上がろうと手をついた床に、ぽた、と一雫同じ色が斑点を描く。ぽた。
その視覚情報のあと、急激に痛覚が表れた。
激痛。派手に転んだときと比べるまでもなく、傷つけるために当てられた魔法による傷は痛い。
ぶわっと生まれてしまい増幅した恐怖はアリアスの身体を抑制する。立ち上がる動作が数秒止まる。
相手のことを考えるなら、その時間は無駄にしてはいけなかった。怪我を見る時間さえも惜まなければならなかった。そんなことは後回しにしなければならなかった。
いや、もしかすると相手が相手であるために魔法を受けたときにはもう遅かったのかもしれない。
もしくは、見つかったときには。
「残念でした」
次に男の姿を捉えたとき、その存在はアリアスにカツン、カツンとへらり、へらりと迫ってきていた。
すぐ、そこにまで。
「そういえばお嬢さんは肝が座ってるお嬢さんだったな」
忘れてた、とあっという間に最初より距離を詰めた男はしゃがみこむ。
「気の強い子は嫌いじゃないが、好みは年上でな」
流れるような動作で、関係ない言葉を聞きながら頭を撫でられる。
それほどに距離は近い。
アリアスは、離れようとする。横に手をついて、ずり、と。この右足は動いてくれるだろうか。傷の深さは。血の量が予想以上で、足をかばう。
「動くなよ、お嬢さん」
「来ないで、」
そして触るな、と叫びたいくらいの嫌悪感。
離れなくては、少しでも。
こうなってはなりふり構ってられず、左右後ろを見る。
「ほら動くなって、今手間かけられるとイライラする。あんまりイライラさせられると、」
その間に頭にあった手が、顎に落ちてきて掴まれて強引に顔を前に戻される。
「――殺しちまうかもしれねェ」
それまでの軽い口調が失せた上での、低い声。
目に、赤の虹彩が過った。
アリアスはぺた、と立ち上がるために浮かせていた膝を冷たい通路の床につける。
気圧された。
びり、と当てられたのは殺気と言うのだろうか。
鼓動を感じる。嫌な打ち方。そうだろう。状況は改善されず、悪い。怪我をしたことを考えると、もっと悪くなった。
それに至近距離でこちらを射抜く男の目の異常さ。目つきが尋常ではない。近いからこそ気がついた。その目の下には暗いくまができていてそれを増させる。
本気だ。
前、こんな距離でこの男と向きあって、殺すことに躊躇ないことを痛く感じたことを思い出す。
怖い。
「ダメだよ。色々聞きたいこととかあるし、殺しちゃったらさすがにどうしようもないじゃん。人形みたいに動かせるけどさあ、それこそ手間がかかるよ」
こちらもすぐ下にいるだろう影が喋る。
危険の塊のような存在は、ひとつではない。もうひとつ、影に潜む魔性の存在がいるはずだが、それはさっきから声だけで姿を現さない。
「あァはいはい。じゃあとっとと移動して、俺が条件満たせるのもすぐそこってことで。予想外に時間食ったな」
ふっと殺気を消した男が立ち上がり、アリアスも腕を掴まれて立ち上がらされる。
つー……と脚を伝う感触。温かくもある液体に気をとられていると、手首にカチャリと何かをつけられる。
「――何、を」
「一応封じだ。あれくらいとはいえもう一回ごたつくのはごめんだからなァ」
小さい音とは裏腹に、留め金をつけられた腕輪ははめられている石いくつかにぶん、と光が光って一筋繋がり、自分の中のものが自分のものでなくなったような感覚が身を包む。その腕輪は装飾品ではない。
魔法封じ。魔法を使えないようにするもの。まとわりつく腕輪を手で引っ張ってみるが、繋ぎ目があったことさえも感じられない。まるで、外すことを考えていない作り。
これでアリアスは魔法を使えない。
それに脚に怪我。容易に逃げられない。脚は狙っていたのか。
「準備できたみたいだね。さ、行こっか」
それでもこの状況から逃れる道はないのかとアリアスが考える時間は、なかった。
楽しそうな声と共に、一度経験したときのように影に飲み込まれた。
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