第11話 震えるカップ

 次の日、昼頃、本当にアリアスはフレデリックに会うこととなっていた。有言実行な王子様なのだ、彼は。

 正確にはまだ会ってはいないが、彼の部屋にいた。

 昔、足を踏み入れたことのある部屋は多少変わっただろうか。

 床ひとつとっても壁をとっても天井まで優美な模様が浮かべられている部屋。壁には絵画が飾られ、薄く青みがかった白い花が飾られている。一目で貴人の部屋だと分かる部屋。

 昨日王子を引きずっていった侍従……ではなく侍女と思われる女性に促されてちょこんとある円形のテーブルにまで向かう。これまた隙なく部屋に相応しい装いの椅子に身ぶりで勧められて恐縮しながらアリアスはとりあえずは座る。テーブルにもまた、椅子と揃えられているのだろう模様。


「申し訳ございません。フレデリック王子は自分が呼びに行くと飛び出して行ってしまわれて……入れ違いに……」

「そうですか、いえ、あの、お構いなく」


 座った途端、案内をしてきてくれた柔らかな色味の茶の髪色の女性に謝られてアリアスは慌ててつられてお辞儀をする。そしてとんでもない、とぱたぱたと胸の前で横に手を振る。

 どうも部屋の主たる王子様の姿がないと思ったらそういうことらしい。


「今、フィップ様が追いかけになっておられますので、それまでどうかお茶をお召し上がりになってお待ちください」

「はい……どうぞお構いなく」


 女性は一礼して壁際に下がっていく。

 アリアスはそれを見送ってから、すとんと椅子に腰を下ろす。

 まさに今、昨日フレデリックを引きずって帰った侍従の男性がフレデリックを追いかけているらしい。落ち着いた様子なのは慣れているのか。……何だか大変だな、とアリアスは関係者のようで全くの他人事で感想を頭の隅に抱く。

 けれど、自分がこの空間でどうも居心地が悪い……というか落ち着かないはめになっているのはフレデリックのせいである。かくれんぼの前に鬼ごっこか。どうもこの国の第二王子は少年の部分がどこまでもあるようだ。昨日は別人みたいに剣を振って、あれだけ凛々しかったのに。

 でも、そういう部分があるから、アリアスはまた彼にこうして会えているのだろうなと思う。正確にはまだここにはいないけど。

 フレデリックという王子からはかけ離れた印象を抱いてしまう繊細な調度品と雰囲気の部屋。

 中身はある意味で奔放であるものの、きっと彼がここに姿を現せばその麗しき容姿はすっと馴染むだろう。という部屋に鎮座したアリアスは部屋をそんなに見渡す真似が出来るはずもなく、控えめに目の先に当たる壁にかけられた絵画を中心にぼんやりとしていた。

 何をするでもなく、そのままでいるときにそう時間が経たない内にドアが開く。

 入ってきたのは侍従と捕獲された王子……ではなくお茶一式をワゴンに乗せて持ってきた、先程とは別の女性だった。


「遅かったわね。さあ、お茶を」

「は、はい……でも、あ、あの王子様は……」

「フィップ様がお探しになられているわ。早くお茶をお出しして」

「でも、」


 案内をしてくれた女性とは先輩後輩の関係にあたるのだろうか。お茶を持ってきた女性は王子がいないことに戸惑ってお茶を出すことを迷っている様子に窺える。

 けれども、何か小声の問答があったあとにしずしずと近づいてくる気配。会釈をして、テーブルに目を落としたアリアスの視界には女性の衣服がちらつく。

 それから何秒かして、紅茶の良い香りが漂う。

 次いで視界に白いティーカップが映る。このカップの模様もすごいなぁとアリアスが何度目か思ったところ、静けさが明らかに勝る部屋の中、障る音を捉える。ほんの些細な。

 かたかたと微かに音を立てるものが前に運ばれてくる繊細なカップと受け皿であると気がつく。その原因がそれらをテーブルに置く女性の手が小刻みに震えているからだということも、ほぼ同時に。

 アリアスは意識を取られていたその手元から、なぜこんなに震えているのか、緊張する対象だと考えられる王子はいない。とおそらくかなり若い――アリアスよりは少し年上か――女性の顔をそっと見上げる。


「あの、大丈夫ですか?」


 女性の顔色は悪かった。元々白いと思われる肌以上に顔は青ざめていた。


「調子がお悪いのでは……」

「いえ、いえ……失礼致しました。どうぞ、お茶を……」


 つい小声で尋ねるが、女性ははっとして首を緩く振って一礼する。返答の語尾が消えてしまったことが弱々しさを感じさせる。

 本当に大丈夫かな、とアリアスは間近で見た顔が気がかりになったが女性は下がっていってしまった。

 残されたのは、テーブルの上の紅茶と可愛らしい小ぶりのお菓子。カップに目を落とせば、波立つことはない透き通った茶色の液体が見返してくる。

 それはそうと、やけに視線を感じる。茶色の面に映る自分ではもちろんない。

 紅茶を入れて持ってきてくれた女性、だろうか。

 ちらと視線を向けると、やはりあの女性。唇をぎゅっと結んでいる。具合が悪そうにしか見えない。でも、どこか、懇願めいたようにも見えるのはなぜか。一瞬だけその目が合ったが、さっと逸らされた。

 アリアスが目だけ、視線を向けていたのも一瞬程度で自然にカップとにらめっこに戻る。

 すぐにここは飲まないと失礼なのか、それとも王子を待つべきなのかとアリアスは二つの行動の選択肢を吟味する。それから、女性のどこか気になる様子を。

 そして、その結果、紅茶を飲むだけなのに意を決することとなりそっとカップを手にする。音をたてないように、慎重に。

 そうして、同じように慎重に口元にまで運び、口をつける。鼻に飛び込んでくる紅茶の香り高さ。次に、口の中に飛び込んでくるのは何も加えなかった紅茶本来の味。さらっと喉の奥に――


「っ!?」


 感じたのは、刺激。

 喉を通る直前に感じたそれ。

 とっさにカップを置くのも音が耳障りに、口を押さえ下を向く。

 しかし、遅い。

 喉が焼けるようだというのは、こういうことを言うのだと身をもって知る。感じる。

 まさに、液体を留めておこうと本能でどうにか出そうとしている喉を中心に焼けつくようだ。

 吐き出せた液体が手に触れる。

 でも、体内のその熱さが喉からいくらかより奥に滑った。

 咳き込む。液体を出すべく咳き込む。


「どうなされましたか!?」


 声が聞こえ、部屋の中にいた誰かの手が肩に触れる。何度も問う声。

 しかしながら、アリアスには答えてみせる余裕がなかった。

 咳き込むことをやめる。目から生理的な涙が溢れ伝った。熱い。

 喉が熱い、痛い。いや、どうだろう、どこが熱いのか痛いのか分からなくなってきた。身体そのものが異変を訴えている。

 喉から体内へ何かが滑っていってしまったからだろうか。


「……っは、……」


 息が苦しい。息をするたびに喉を苦しめる。どうすればいいのか。

 ひとつ、息を吸ったっきりで喉が耐えかねて行動を止める。

 それで止むはずはない。


「大丈夫ですか!? 誰か、誰か呼んできて! 早く!」


 あの、紅茶は――あの、女性の表情の意味が――

 浮遊感とも言えぬ浮遊感めいた感覚。

 身体に、止めていた息も詰まる衝撃。

 派手な音。

 うっすらとぼやけていた視界が、暗転、する。




 *




 横たわっているベッドはアリアスが普段寝起きしているものではなかった。部屋も同様のようで、天井からして違った。周りを窺おうとするが、厚さ的には薄めだろうが向こうは見通せない布が引かれている。ぐるり、と。

 目を開けたアリアスはどこかぼんやりとする頭と目のまま、顔をわずかに左右に動かしてそれらを見た。

 ここは。

 腕をまず動かした。そうしてから、むくりとゆっくりと身を起こす。

 ベッドの後ろの柵にもたれて、ぼんやりとする。嫌にぼんやりとして、頭が働かない。思考が。


「……起きた?」


 アリアスが手を頭に当てていたら、落ち着いた印象の声がして、右を見てから左を見て木の幹の茶色を思わせる髪の女性を見つける。見た目はアリアスより二、三歳ほど年上かと見えるが、雰囲気からすると落ち着いていて詳細な年齢をうやむやにする女性。

 他の空間とを仕切っている布の端からちょうど覗いたような彼女はアリアスが身を起こして、目を向けたことで布の向こうから入ってくる。


(クレア様)


 とアリアスは女性を認識して名前を呟いた。つもりだった。

 しかし、声は出なかった。

 引っ掛かっているような。


「……く、」

「だめ」


 もう一度力を入れて挑戦すると、声が出た。でも、スムーズにはいかなく、思うようにはやはり出ず、掠れた声。加えて咳が込み上げてきた。

 アリアスは咳を何度かするはめになる。喉が痛む。


「無理に声を出そうとしないで」


 側に来たクレアが背をゆっくり擦ってくれる。

 アリアスは数度の咳を終え、口を押さえていた手を喉に移す。違和感のある喉へ。

 ざらりとした感触。首の周りに指を這わせて確かめると、ぐるりと巻かれているようだった。


「喉が傷つく」


 ベッドの横に立ち、最後に背を一撫でして手を離した女性を見上げる。

 彼女は淡々とした口調で言った。その目は声に反映されにくい感情を映す。

 ここは城の一角。癒しの空間。比較的ではあるが、こじんまりとした一室には傷を癒す魔法に長けた魔法師が常駐している。『医務室』と呼ばれている場所であると、アリアスは悟る。

 目の前にいるクレアはその魔法師の一人だ。歳は実はかなり上。

 アリアスは手伝いでも何度か赴いたことがあり、彼女とも何度も顔を合わせていた。だから、彼女でここがどこでもあるか理解したのだ。


「手間をかけるけど、言いたいことはこれに書いて。具合はどう?」


 (大丈夫です) とアリアスはクレアから手渡された小さな長方形の紙を留めたものの一番上にペンで書いてそれを見せる。

 クレアは頷く。


「何があったか、覚えてる?」


 アリアスはその問いに、考える。

 何が、あったか。なぜ自分はここにいるのか。身体に感じる異変といえば今分かる範囲では喉くらい。けれど、なぜ声が思うように出ず、喉に包帯が巻かれているのか。

 (紅茶を、飲みました) アリアスは紅茶の温度というわけでない強烈な熱さを感じた直前の動作を書いた。


「そう、紅茶。紅茶に毒が入れられていた」


 アリアスは普段通りではあるが淡々とした口調で語られたそれに目を見張る。毒。薄々察してはいた。あの最中にも。あの熱さは痛みは火傷などという生易しいものとは種類が明らかに異なっていたのだ。

 でも、あの紅茶は――


「一番酷かったのは喉。喉の治療はした。アリアスが少量しか飲まなくて良かった。それと、それもほとんど吐き出してくれていて。毒は、とても強いものだった。体内に入り込んだ毒がもっと多かったら、それだけで中が……そうはならなかったから、話すのはよしておく」

(クレア様、)

「でも、喉は繊細だから。少なくとも今日一日は声を出そうとしないで。包帯の内側に魔法を込めた魔法石を仕込んでるから、明日かけて完全に治る。だから、不便だろうけど、注意して」

(魔法石を?)

「いいの。小ぶりだし」


 喉に包帯が巻かれているわけはそれらしい。首裏を手で確認すると、なるほど何かがぽこりと出ている箇所がある。大きさからして、先日師が直してくれた腕輪の鈴の魔法石と同じくらいか。と思い浮かべる。

 だが、アリアスが気になるのはそこではない。本当に少量しか飲まなかった。それでも、あの衝撃。

 毒、とはどれほど強いものだったのか。


(ありがとうございます、クレア様)

「いい。アリアスが無事で良かった」

(あの、クレア様、毒って)

「ごめんなさい、詳しいことは私に聞かないで。でも、王子は無事。アリアスが紅茶を飲んだから……」


 あの紅茶は元々王子にも出されるものだった。それに、毒。毒なんて入れようとしなければ混ざるはずはない。

 あの紅茶を入れてくれた女性は体調が悪かったわけではなかったのだ。だから、今思えば不振な様子が混ざっていたのだ。その彼女が気にしていたことは。アリアスは記憶を辿る。

 アリアスが狙われることなどあり得ない。狙われるとすれば、当然フレデリック。

 ぞっとした。もしかすると、目の前で王子があんな目に遭っていたかもしれないのだ。今回ばかりは、奔放な面がある王子で良かったと思う。だから、タイミングがずれたのだろうから。


「紅茶を入れた侍女が捕まった。それ以外は私は知らない。六時間前のことだから」


 六時間も経っているのか。

 クレアがベッド脇に手を伸ばして、用意してあったグラスに水を入れて差し出してくれる。喉が乾いていることに気がつく。

 紙を傍らに置いてからありがたく受け取って、喉を潤す。痛みはなかったことに安心する。飲み物を飲むだけで痛むと何かと困る。その心配がなくなる。


「アリアスが毒を飲むなんて……」

(王子が飲んでいたら大変じゃないですか)


 クレアは優しい。でもあのとき、自分が先に飲んでいて良かったとアリアスは思わずにはいられない。フレデリックが飲んでいたら一大事だ。もう、毒が盛られたという事実だけで一大事になっているかもしれない。

 自分もこうして死んでいないしそれどころか身体に痺れなどもない。喉――声だけだ。きっとクレアの腕がいいからで、的確で迅速な治療をしてくれたのだろう。

 治療専門の魔法師でも、魔法に頼らない傷の治療や病気の治療なども学び出来る。クレアの腕が一流であることをアリアスは知っていた。

 だから、感謝の意も込めて微笑む。すると、クレアは複雑そうな顔をして言った。


「そう、それは事実。でも……アリアスがそうなって心配する人がいることを忘れないで。……もう少し休んで、思っている以上に身体は疲弊しているから」


 彼女はアリアスにそう促してから、小さな足音をさせて仕切る布へ手をかける。


「何かあったら、その呼び鈴を鳴ら――」


 顔だけが向けられ、視線と言葉で示された水差しの横に並ぶ呼び鈴をアリアスが目で確認した直後。クレアの言葉が終わらない内。

 アリアスからは見えないが、おそらくドアが恐るべき音を立てた。

 開いた、のだとは思う。

 アリアスは置こうとしたグラスを落っことしそうになってどうにか落ち着けて、ドアがある方向を凝視した。

 クレアは少しだけ眉を寄せていた。

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