雨の日に、傘のある人に、 傘のない人の気持ちは わからない。

雨の日に、傘のある人に、

傘のない人の気持ちは

わからない。

「絶望」は自分だけが抱えているという現実に腹をくくることで、

人に深く同情できるという「良い人間」になるチャンスを

得たことを知る。


最後の審判も終わり、全ての望みが絶たれ、

何もする気にならない日々を送っていた頃でした。


会社に行く気にもならず、それまで忙しく仕事をしていたので、

取れなかった夏休みを一人きりで取って(もう秋でしたけどね)

映画を見にいきました。

前宣伝が派手だった割には、

気分が一層暗くなるようなつまらない映画を見終わって、

映画館を出た時には、来るときは晴れていたのに、

外は土砂降りになっていました。


ここまで、ついてないのか。


雨や曇りの日は、絶望している者にとっては最悪です。

せめて天気ぐらいよければ、少しは前向きに明るい気持ちになるのに、

天気にまで見放されたのか!という気分になるものです。


僕は傘を持っていなかったので、

駅までとぼとぼと濡れながら歩きました。

周りには何人か、僕と同じように、傘を持っていない人たちもいましたが、ほとんどの人は傘を差し、悠遊と、雨の中を歩いていました。

平日なのに、結構人手が多く、前を行く傘を差している人々の一団を追い越そうとしてもなかなか追い越せない。

ずぶぬれになって歩きながら、思いました。


あたりまえのことです。

傘を持っている人に、

傘を持っていない人の気持ちはわからない。


もちろん、傘を持っていない人がいることは知っていて、

その不自由さは想像できるはずです。でも、実際は、、

傘を持っている人たちは、

自分は傘を持っているから、ゆっくりと歩きます。

道を開けることに気づく人は少ない。


自分が傘を持っていない時に、初めてその気持ちがわかる。


よく考えてみれば、自分も、傘を持っている時に、

傘を持っていない人の気持ちはわからなかったのかもしれない。

そう思いました。

そして、こうも思いました。

今、彼らは傘を持っているけれど、

いつかは傘を持っていない側にまわるかもしれない、

逆に今度は僕が、傘を持っている立場になっているかもしれない。

でも、その時には、ちゃんと、傘を持っていない人の気持ちになって、

ちゃんと道を開けられるような人間になりたい。


そう思いながら、ずぶぬれで歩いていると、

なんだか、ずぶぬれになることにも、

大切な意味があることのように思えてきました。


「絶望」している人に、

心配りをしてくれる人はいるかもしれない。

でも、自分がその経験をしたことのない人には「ずぶぬれ」になりながら、歩いている人の気持ちはわかりません。


今、「絶望」という土砂降りの中で、

傘を持たず、ずぶぬれになって佇むあなたは、

傘を持っていない人の気持ちがわかる人に既になっているのです。


他人の不幸なんて、

爪の先ほども、傷ついたことのない人にはわからない、

という残酷な事実に気づいたあなたは、

傷ついた人の気持ちがわかる強くて、

優しい人になっているという誇りを持ってください。


大丈夫、きっといつか、この雨は上がります。


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