10 被害
「だいぶ、進んだな」
「半分は尾瀬さんのお陰ですよ」
「だが大半が自己資金だろう。元ご主人のお陰だよ」
「銀行が動いてくれたのは尾瀬さんがいたからですよ。でなければ素人の年寄りなんて相手にされません」
「瑠衣子さんがそう思うなら、そうかもしれんが……」
「当然、辰巳にも感謝をしています。日常的にお金を使わない人だったから貯蓄額が多い。ありがたいことです」
辰巳悟史がわたしに与えた土地でアパートの建設が始まる。
尾瀬が様子を見たいというので来させ、話す。
「尾瀬さんを見かけた近所の人が噂をするでしょうね」
「それなら呼ばなければ良かったのに……」
「わたしが見せびらかしたくなったんですよ」
「女の気持ちはわからんな」
「元プレイボーイの尾瀬さんが何を仰います」
「当時から女の気持ちをわかっていないさ」
「わかっていたのは女の喜ばせの方とか」
「思い上がりだが、当時はそう感じていたよ」
アパートの建設が決まってから雨が続き、なかなか工事が始まらない。
そう思っていたのが既に三月前で今では殆どが完成している。
工事に先立ち元の家を壊し、更地にする作業が思いの外早く進み、感傷に浸る余裕がない。
あるいは、それが良かったのかもしれない。
辰巳悟史との離婚が成立し、半年が過ぎる。
自分では振り返ることが多いとは思わなかったが、夜に仮住まいのアパートに一人でいると色々浮かぶ。
考え過ぎると心が痛む。
ナイフで刺すほど辰巳がわたしを愛していたことが、過去を振り返るたびに確認されるからだ。
わたしが結婚を承諾したときの幸せそうな辰巳の顔。
初めての辰巳とのセックスが恙なく終わり、わたしが思わずほっとした表情を見せたときの辰巳の笑顔。
子を身籠ったとわかったときの安心した目。
生まれて来る子供の名前を考え、おずおずとわたしに提案する情けない口。
美緒が生まれれば生まれたで、
『将来、父親は嫌われるのだろうか』
と心配する困った声。
すべてが懐かしい。
もしかしたらその昔、自分が夫を愛していたかもしれないと勘違いするような、わたしへの辰巳の想いの数々。
わたしは独り、その中に浸かっていたのだ。
辰巳悟史の自分への想いを理解することなく、唯独り。
最愛の妻に自分ではない想い人がいると知り、辰巳はどれほどの衝撃を受けただろう。
その事実を胸の奥に隠し、妻の前に再び想い人が現れぬことを希望し、数十年を耐える。
一方、妻の方は夫の強い想いに気づきもせず、毎日最低一度は別の男を瞼の裏に思い浮かべる。
辰巳にしてみれば生き地獄。
が、そうまでしてさえ、わたしと一緒に暮らしたかったとは……。
若い人ならば気持ち悪いと言うかもしれない。
正直、当事者であるわたしでさえ少し気持ち悪いと思うくらいだ。
そこまで無垢な愛があるはずがない。
常識的な、ごく自然な心の流れがそう思わせる。
わたしが辰巳を愛していれば、まさか、気持ち悪いとは思わないだろう。
自分が同じ気持ちなのだから、それこそ愛と感じるだろう。
ところが、わたしは辰巳を愛していない。
少なくとも好きな人間として……。
夫としては愛しただろう。
美緒の父親としても愛している。
が、一人の男として愛していない。
酷い話だ。
ナイフで刺されても文句を言えない。
それくらい愛していなかった、というわけだ。
愛と憎しみは簡単に入れ代わるから、刺されたことでわたしが辰巳を恨んだならば、そこに愛が生じるだろう。
けれども一歩間違えば殺されてしまったかもしれないことを為されたというのに恨めない。
それどころか却って自分への想いを感じ、済まなく思う。
酷い女。
薄情な女。
わたしは自分が良ければ夫(他人)がどうなろうと一切構わない女だったのだ。
つくづくとそれがわかると、わたしには、もはや笑う以外に術がない。
過去の自分を笑い、現在の自分を笑い、それですべてを忘れるのだ。
他にどんな方法もない。
和泉佳代子が自分のため、わたしと尾瀬に仕組んだ行為の唯一の被害者が辰巳悟史。
他には誰も被害者がいない。
和泉佳代子はその死により、自分の存在を強烈に尾瀬の記憶に残すことで死後の安寧を得ようと図る。
わたしは元理系の人間だから死後の世界を信じないが、死ぬ瞬間が即ち永遠だと思えば理解できる。
当事者の尾瀬とわたしは三十年振りに復活した愛を互いに喜んでいる最中だ。
だから被害者は辰巳悟史唯一人。
が、そう思ったところで、他にもいると気づく。
美緒と柏木壮太も被害者かもしれない。
少なくとも、わたしのせいで多大な迷惑を被ったことは間違いない。
「深刻な顔で何を考えているんだ、瑠衣子さん」
「佳代子さんが今どんな気持ちだろうかと考えていたのですよ」
尾瀬が問い、わたしが答える。
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