8 順番

「やっと会ってくださいましたね」

「もう顔も見たくないだろう」

「そんなことはありませんよ。ただ、この先会う機会は減るでしょう」

「提案を呑んでくれて助かった」

「わたしが浮気をしたのですから、無一文で追い出されても文句は言えません」

「冷静だな。昔の恋人とは結婚するのか」

「結婚するにしても、奥様の喪が明けてからでないと」

「ああ、そうだった」

 何度も家を訪ねた柏木壮太を説得し、ようやく辰巳悟史がわたしに会うことを承諾する。

 場所は大手貸ビルの会議室。

 仕事の関係で辰巳が利用したこともあるらしい。

 同席者は柏木夫妻。

 つまり柏木壮太と娘の美緒。

 今回は壮太も美緒の同席を許したようだ。

 定員二十名ほどの小さな会議室中央にわたしと辰巳悟史。

 壁際の椅子に柏木夫妻。

 壮太と美緒はわたしと辰巳の話に口出しをしないつもりらしい。

 が、用心のため、同席することにしたのだろう。

 今回、辰巳がわたしに危険な行動を取らなければ、次には離婚届に署名してくれた辰巳の知り合い夫婦二組に会う約束になっている。

「改めて申し訳ありません。すべて、わたしの我儘です」

「もう言わないでくれ。自分が惨めに感じられるだけだ」

「あなたが悪いんじゃないんですよ」

「だが、きみを刺したのはわたしだ」

「すぐに救急車を呼んでくれたのはあなたです」

「刺さなければ救急車の必要もない」

「わたしが過去の男に靡かなければ、あなたもナイフを刺さなかった」

「どうしても自分が悪いようにしたいんだな」

「それは、あなたの方でしょう」

「あんなことをしてしまうまで、わたしは自分の心にあんな感情があるとは知らなかったよ」

「あなたがわたしを愛し続けてくださったことには感謝します。でも……」

「仕方がないな。きみの三十年を奪ったのはわたしだ。本心では恨んでいるのだろう」

「まさか。あなたには感謝の気持ちしかありません」

「わたしには、きみの言葉の方が信じられない。三十年も好きでもない男と暮らしていたんだぞ」

「お見合い結婚だって最初は好きではありませんよ」

「わたしとの結婚生活はお見合い婚だということか」

「そうではありませんが、あなたのことは嫌いではない。もしも嫌いだったら三十年間も連れ添うものですか」

「だが、心には別の男がいた」

「ごめんなさい」

「もう構わないよ。せめて、きみが幸せになってくれることを慰めとしよう」

「ありがとうございます」

「そういえば、家はアパートにするそうだな」

「他にお金を得る手段がありません」

「将来的には、あの相手と結婚するんだろう」

「それとこれでは話が違います」

「そうか」

「男の人って面白いですね。向こうも同じことを訊ねました」

「それが男のプライドなのだろう」

「専業主夫がいる今の世の中で……」

「では、昔の男のプライドと言い直すか」

「昔だって専業主夫はいましたよ。だから違う考え、違う思想や想いの流れがあるんじゃありませんか。昔と今で絶対数は変わったかもしれませんが……」

「そんなものか」

「少なくともあなたは専制君主ではありませんでした」

「気が弱かっただけだ」

「気が弱かろうが、家父長制を信奉する男性は、それを願うでしょう。たとえ、その思想が本人の意思に関係なく刷り込まれたにしても」

「女に負けたくない想いとかだな」

「その意味では、わたしの嘗ての恋人の方があなたよりずっと専制君主でしたよ。結局、そのために別れたのですから」

「きみがそこまで気の強い女だと当時知っていれば……」

「わたしとの結婚を望みませんでしたか」

「今となってはわからないことだ。何故きみは、わたしとの結婚を承諾した……」

「あなたがあなただったからですよ。いくらわたしの心が毀れていた時期だといっても、あなたがあなたでなければ結婚はしなかったと思います」

「どういう意味かな」

「申したままですよ。あなたがあなたでなければ、わたしはあのまま毀れてしまったと思います。それを幸せだという人がいるかもしれませんが、わたしはそう思いません。笑顔を無くしたわたしに笑顔を取り戻されてくれたのはあなたです。日常的な幸せを感じさせてくれたのもあなたです。子を授かる喜びも与えてくれましたし、他にも沢山、あなたはわたしに与えてくれました」

「それなのにどうして……」

「順番ですよ」

「順番……」

「順番です」

「それだけか」

「たぶん」

「却って酷い話だな。良くて、わたしは二番目か」

「申し訳ありませんが、そういうことだと思ってください」

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