5 役割
実際、わたしに付いた傷跡は文字のように見える。
ただし、それはAではなく、ひらがなの「わ」に似ている。
あるいは下部のない円(左側の上下に出っ張りがある)か。
娘はやっと家を訪れなくなったが、暇さえあれば電話をかけてくる。
話す内容が続くとも思えないが、いつも五分以上話す。
単にわたしの返事が欲しい(生存確認がしたい)したいだけならSNSでも事足りるが、声を聞く方が安全に思えるらしい。
「だって当然でしょ」
娘が言う。
「成り済ましがいたってわからないし」
「誰がお母さんに成り済ますのよ」
「それはわからないけど、声なら間違いないから」
「今だったら声の成り済ましだってできるんじゃないの。ホラ、あの何とかいうヴォーカル・ソフトに歌手の声ヴァージョンがあるじゃない」
「そう言われれば、そうだけど」
「お母さんのツイッター発言を全部解析すれば、その辺のAIでも成り済ませるわ」
「……ということは、今のお母さん、AIだったりして」
「だったら、どうする」
「どうするって、どうにもできないわ。だって、あたしの方だってAIかもしれないんだし。お母さんを心配する良い娘を演じるAI」
「美緒は良い子よ」
「お母さんの知らない、わたしもいる」
「当然でしょ、美緒の知らないお母さんがいたのだから」
「ねえ、お母さん……」
「なあに……」
「あのさ、お母さん……」
「だから何よ」
「いえ、やっぱりいい」
「言いたいことがあるなら言いなさい」
「別に言いたいことなんかありません。あっ、もう休憩時間が終わり。また、かけるわね」
「今日はもういいわよ。じゃあね」
「うん、じゃあね。夜にかけるから」
通話が終わる。
携帯電話やスマホがない時代なら、できない会話か。
いや、あの時代には何処の企業の玄関にもピンク電話がある。
出先で何度も利用させてもらったものだ。
今では見かけなくなったが蕎麦屋や大衆食堂、それに煙草屋の店先に必ずあった記憶が鮮明。
今では、その煙草屋自体が少なくなっている。
代わりに自動販売機は増えた気がするが……。
もっともわたしがタバコを吸わなから、そう思うだけで、案外当時と数が変わらないのかもしれない。
調べてみるとピンク電話の正式名称は『特殊簡易公衆電話』というらしい。
公衆電話の不足を補う目的で一九五三年にサービス開始された簡易公衆電話(店頭の一般加入電話を公衆に使用させ管理者が料金を手渡しで受け取る方式)の後継とし、歴史を刻む。
ピンク電話の料金回収は店舗等の運営者が行い、電気通信事業者から請求される基本料金及び通話料金を支払うというシステムだったようだ。
初期型ピンク電話(小型ピンク電話)がレンタルで提供開始されたのが一九六〇年でダイヤル式、十円硬貨のみ、市内通話のみが可能。
次が大型ピンク電話で一九七二年にレンタル開始、二〇〇四年生産終了、郵政民営化後は販売扱いとなっている。
かなり長期に渡って使用されたので、わたしが記憶しているのも、おそらくこの型だろう。
次がボタン式ピンク電話で一九八五年から二〇〇五年へと続く。
(一九八九年にレンタルのみでサービスを開始したテレホンカード専用ピンク電話(二〇〇五年終了)もある)。
その先も『特殊簡易公衆電話』という機種は続くが、ピンク電話という呼称が消える(ただし筐体の色は――全体ではないが――ピンク)。
木製の筐体を加装した『鹿鳴館』を経、Pてれほんシリーズ開始。
PT1、PT2、PT12、PT13、PT3TEL、PT4TEL、,PT51TEL、DCL、S、C、CⅡと続き、現在もまだ稼働中。
ピンク電話のサービスが始まった一九六〇年は、アフリカにおいて当時西欧諸国の植民地だった地域の多数が独立を達成したことから、アフリカの年と呼ばれる。
わたしはまだ子供。
当時のコマーシャル・ソングで流行ったのが『カステラ一番、電話は二番』『渡辺のジュースの素』『パッとパラソルチョコレート』など。
食べ物しか覚えていない辺りが微笑ましい。
一九七二年は閏秒による秒の追加が年内に二度もある。
同じく流行ったCMソングは『のんびり行こうよ(石油会社)』『さわやか律子さん(石鹸会社)』『金曜日はワインを買う日(酒造メーカー)』など。
わたしは高校生。
二〇〇五年は青色発光ダイオード訴訟の和解で始まり、北朝鮮が核兵器の製造保有を公式宣言、京都議定書発効、JR宝塚線脱線事故、クールビズ開始、ロンドン同時爆破テロ、スペースシャトル・ディスカバリー(日本人宇宙飛行士)、ハリケーン・カトリーナ米上陸、郵政民営化法案成立、新憲法草案、耐震強度偽造事件、宇宙探査機『はやぶさ』の小惑星イトカワ着陸があり、イラクの自衛隊派遣再延長で終わる。
わたしは五十代。
今から近い時代なのに却って何を考えていたか思い出せない。
ピンク電話は社会に導入され、進化し、やがて役割を終える時を迎える。
わたしも辰巳家主婦としての役割を終えようとしていたのかもしれない。
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