3 帰宅

 警察と娘に連絡したのも、わたしを病院に送ったのも夫。

 後の経緯から、それがわかる。

 わたしを刺し、赤い血が流れるのを見、怖くなったのではなく、冷静に戻っての判断らしい。

 気を失ったわたしが大柄な消防隊員に担がれ、救急車内に運び込まれたとき、すでに警察は到着している。

 夫はわたしの乗った救急車を見送る許しを受け、その後、警官に連行される。

 事情聴取では正直に自分の気持ちを話したようだ。

 が、夫のこと、おそらくわたしを庇い、わたしの浮気のことは話さなかったはず。

 だから尾瀬の名前も出さなかったのだ。

 殺人事件ではなく、犯人と思われる人物も捕らわれているので、警察の捜査もおざなりになる。

 だから尾瀬のところに警官が現れない。

 少し調べれば、すぐにわたしとの繋がりがわかったはずだが、わたしが痴話喧嘩のエスカレートという主張を変えず夫を訴えなかったので、それで終わり。

 日本の警察は忙しく、ストーカー事件でも、被害者が殺されるまで動かない。

 つまり事件にはならないのだ。

 一週間ほど病院に入院し、家に戻る。

 当然予想はしたが、夫の姿がない。

 あったのは夫の署名がなされた離婚届。

 証人欄に署名さえある。

 その二人の名前は、わたしも知る夫の友人夫妻。

 いったいどんな話を持ちかけ、署名を貰ったのだろう。

「困ったわね。わたしの方から渡すはずだったのに……」

 離婚届をじっと見つめながら思わずボヤくと娘が言う。

「詳しい事情は知らないけど、お母さん、どうしてこんなことに」

 娘はその日も仕事を休み、わたしに付き添っている。

 もう大丈夫だから、と言い聞かせても帰ろうとしない。

「人生はいろいろあるのよ」

「お父さんが可哀想。壮太は憤慨してるわ」

「でしょうね」

「お母さん、あの人のことを愛しているの」

「やっぱり美緒にはわかったか」

「まさかとは思ったけど、あたし、お母さんの男友だちを知らないし、タイミングもぴったりで病院に現れるし……」

「そうね」

「お父さんとは、もうやり直せないの」

「美緒はそれを望む」

「お母さん、頑固だからね」

「あら、美緒の方が頑固でしょう」

「お母さんに似たのよ」

「じゃ、わかって頂戴」

「もう、どうにも仕方がないってことなのね。あの人のこと、少し教えて」

「尾瀬康裕さんという、三十年前にお母さんの恋人だった人よ。その後振られて、お母さんはお父さんと結婚したの」

「でも何故、今頃……」

「少し前に、お母さん、お友だちのお葬式に行ったでしょう。あのとき亡くなったのは尾瀬さんの奥さんなのよ。その奥さんに引き合わされて……」

「複雑な事情なのね」

「佳代子さんも気持ちの逃げ場がなかったんだわ」

「それで死んだの」

「さあ、それは永遠の謎。……ところで美緒の方に、お父さんから連絡はないかな」

「あたしにはないわ。壮太にはあったみたいだけど。でも壮太がわたしに言わないから」

「まったく何を考えているんでしょうね、お父さんは……」

「お母さん、お父さんのことを何でも分かるって言ってなかったっけ」

「二人とも変わったのよ。だけど一度は話さないと」

「そうね。壮太にカマをかけてみるかな」

「あんたたちの夫婦仲を拗らせないでよ」

「たぶん大丈夫。でも……」

「なあに」

「お母さんも女だったって」

「女は若くても年寄りでも女ですよ」

「お母さんの口から、そんな言葉が出てくるなんて」

「お父さんとの三十年が消ただけ」

「そんなに簡単なこと……」

「美緒には経験して欲しくはないけど、経験すればわかりますよ」

「そう」

「ところで、もう大丈夫だから美緒は仕事に行ってよ。このご時世、休みが続くと首になるから」

「大丈夫。そんなにブラックな企業じゃないから。有給だって十分残ってるし」

「そんなこと言ったって、仕事には相手があるでしょう、迷惑よ」

「そこはね。でも、お母さんの方が大切だから」

「……」

「お母さん……」

「ありがとう。ごめんね、悪いお母さんで。しかも歳を取ってから」

「謝るなら、あたしじゃなくて、お父さんにでしょ」

「お父さんには謝るわ。でも居場所がわからないと。お母さん、お父さんのことが心配なのよ」

「それは、わたしも……」

「ところでさ、美緒。仮にお母さんとお父さんの立場が逆だったら、美緒はお父さんのことを応援した……」

「そんなの、わからないわよ。事情による」

「そう。では何故、今回はお母さんの味方をしたの」

「あたしはお母さんの味方をしているんじゃなくて、単にお母さんの身体が心配なだけ。それにお父さんは男でしょ。会社を定年退職したとはいえ、週に三日は顧問をしてる。結構忙しい。でも、お母さんには会社がない」

「美緒がお母さんの会社代わりか」

「そんなところ。でも、いずれあの人があたしの役を代わるのね」

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