ジャリ、見えざる猫を観測する

 ミリの指差した天井近くの壁の一部が開き、そこから凄い勢いで水が流れ始めた。

「この部屋を水没させて生き残りを窒息させるつもりのようですね」

「うん……」と少し考えながらジャリは言う。「それだけではないかもしれないが」

 ジャリがそう言うや否や、今度は天井の別の一部が開きそこから勢い良く何か気体が吹き出し始めた。

「毒ガス?」

 少し匂って来た目鼻を刺激する匂い。ミリは思わず目を抑える。

「そうだ……致死性ではない催涙剤のたぐいだと思うが、この刺激に堪えられずに……」

「避けて水に潜れば窒息」

 頷くジャリ。

「嫌らしい殺し方を考えてきましたね」

「最愛の妻のためだからね」

 ジャリはそう言うとちらりと羅良の方を見る。

 羅良は、咳き込み、目を抑え座り込んでいた。

 既に膝より上までたまった水の中に半身をつけながら、

「何よこれ」流石にさっきまでより余裕の無い言葉だが「こんな仕掛けまで、いったい財産どこまで使ったのよ。ちゃんと私が遊び倒せる分の金残しているのよね」怒りは相変わらずそっちの方向だった。

 それを見て、ジャリは、軽く嘆息をすると、スクリーンを見つめる。

 ひとしきり笑い終えた美男が、時計を見ながら、次の仕掛けの始まるタイミングを所在なげな様子で待っている様子だった。仕掛けと仕掛けの間の時間ずっと高笑いしているのは少々奇妙だし、さすがにそれに気づいた美男は、口をつぐんで黙ってしまったのだが、——その間の悪さに彼自身が少し失笑しているのが良くない。

 堂々として居れば良いのに。何か少し恥ずかしがっている風なのが見る物に背中がもぞかゆいような感覚を与える。この間何か気の効いたような小話でも挟めれば良いのだろうが。難しい顔をして、ぶつぶつと何か呟いて、必死にタイミングを取っている様子の美男にはそんな余裕はとてもなさそうであった。

 いやそんな小粋な会話のできるような人物であったなら、浮気もされなかったかもしれないし、なので殺されなかったかもしれないし、そしたらこんな馬鹿な大量殺人も考えなかったかもしれない。

 でも美男はそう言う男だった。言ってもしょうがないのだった。そして、そんな馬鹿な男の仕掛けの中に、ジャリとミリは物語の中から抜け出す時に偶然出てしまっていたのだった。

 全く——運の悪い……? 

 いや、果たしてそうなのだろうか?

 ——これは必然なのではないだろうか。

 実は、ジャリは疑っていた。

 何物かがジャリがこの場所に出るように陥れたのではないのだろうか。ジャリが物語世界を出て、この世界で勝手に動き回ってもらっては困る者——そんな人物がジャリを抹殺する為にこの大量殺人の現場に彼を導き入れたのではないだろうか。

 ジャリはそんな事を考えていた。

 なので、壁抜けでも、壁の破壊でも、その気になればこの部屋から出る位は何でも無い、チート能力者のジャリが、様子がはっきりするまでと、この部屋に彼は今まで居座っていたのだった。ジャリが外にうっかりと出た瞬間。別の罠が仕掛けられているのを警戒していたのだ。しかし、逆に、ジャリがそんな風に考えると相手も考えていたのなら、この部屋にいることでこそ彼が罠にはまってゆくと考えてはいないだろうか。

 ジャリの思考を知り尽くした人物——例えばガリ教授であったなら?

「ジャリ……」

 考え事をして少し動画から目を離していたジャリにミリが話しかける。

「あれを……」

 考え事をしていたジャリが気づかない——そもそも関心もあまり無いが——うちに動画では美男がもう話始めていた。

「……どうだ、恐怖で震えているのではないか羅良よ……くいありゃた……ぷすっ……」

 しかし動画はあっという間に乱れ止まる。

 と言うか、モニター火花出してんだけど、水しぶきがガンガンかかって電子回路がショートしてしまったようだ。なんとも……水責めしようと言うのにモニターを防水仕様にはしていなかったつめの甘さであった。

 ともかく、モニターはその後、そうそうに煙を出して止まってしまい、美男の一世一代のうらみつらみの演説は永久にお蔵入りとなったのであるが……まあ、聞いても気分も良くならないし、なにも新情報もなく、面白くもないそんな美男の戯言を聞かなくても良いことは積極的に歓迎をして……

 問題は、水責めを受けている四人と動物たちである。

 水はもうだいぶ溜まって、この中で一番身長の大きなジャリでも、もう底に足がつかなくなってしまっていた。ジャリ達のいるこの部屋は、パーティー用のホールとして作られたので個人宅としては天井が高く四メートル近くはあるのだが、この水の勢いでは、遠からず部屋は満杯となってしまいそうであったが水の勢いは強く、部屋がいっぱいになるまでの時間はもう余り残ってはいない。

 しかし、ジャリはあまり焦ってはいなかった。彼はいざとなったら、この部屋の壁を壊すことくらい造作もないし……それに彼の別の能力が当座の安全を彼に伝えてくれたのだった。

 それは予知能力だった。ジャリは数分先の未来を見通す予知能力があるのだった。様々に分岐する未来。その中に、彼らがこの部屋より出る未来——その道筋をジャリはもう見えていたのだった。

 あっという間に水位が増して、天井近くまで押し上げられたジャリ達。残るわずかな空間に濃密になったガス。咳き込みながら手を伸ばし、天井についた二つのレバーのうち片方をひねる。もう片方が出口を開けるレバーでもう片方がこの部屋を爆破するスイッチとなっているレバー。もちろんジャリはそのどちらが正解かは知っているのだが——思い出す。

 ジャリはこの予知能力を初めて使うことになったシリーズ二作目の『呪体験二次元ロマンス〜ドジッ子メイド殺人事件』のクライマックスの時の事を考えていた。

 ガリ教授のしかけた時限爆弾の解除作業で赤のコードを切るか青のコードを切るのかと言う、今まで幾万の物語の中で繰り返されたであろう古典的なシチュエーションにおいて、解決のため、作者はジャリに未来予知能力を与える事にしたのだった。

 赤いコードを切ってメイド喫茶が爆風に包まれる未来と青いコードを切って周囲は何事も無くメイドの歓声の上がる未来。そこでジャリは青いコードを切ることで爆弾の処理を滞りなく行ったのだった。

 めでたしめでたしであった。

 しかし——であった。

 作者により未来予知の一言で済まされたこのジャリの行動の後ろには、もっと深い問題が隠れているのだった。と言うのもこのコードを切ると言う一見曖昧さのかけらも無い行動の裏に量子的不確定事象が潜んでいたのだった。

 時限装置の中にはラジウム元素とα波を検知するセンサーが組み込まれている。このラジウムは五十パーセントの確率で一分以内に、原子核が崩壊を起こしてα波が出るように量が調整されている。そして、もし赤い線を切ってα波が出たなら起爆する、あるいは青い線を切ってα波が出なかったら起爆すると言う組み合わせとなっていた(その反対の事象なら爆発しない)。そんな風に時限装置は作られていた。線を切ると言う選択とは別に確率事象がその裏に潜んでいたのだった。

 これは、いわゆるシュレーディンガーの猫の思考実験のバリエーションの一つであった。マクロな事象が量子的不確定性に支配される。量子的現象が観測されるまで不確定だと言うのであればマクロな猫も不確定性を持つのかと言う話である。

 その時は、ジャリは青いコードを切ってかつα波が出なかったので爆発は起きなかったのであるが、α崩壊は量子力学的未定の確率的事象であるとすると、ジャリの未来予知とはなんであったのか? そんな疑問が起きるのである。

 ジャリが見る前は未来は混沌とした蓋然性の中にあったのかもしれないのに、彼が見たから——観測したからそれは確定したと言うことなのだろうか? 果たして彼の行った予知は観測となるのだろうか。

 もちろん、苦し紛れにジャリに未来予知能力を与えた作者が、そんな細かいことを考えてから彼に未来予知能力を与えたとも思えないのだが、そのあくまで適当な作者の意図はともかく、ジャリの能力は非常に解釈の難しい問題提起を行ったのだと言える。

 予知は観測なのか? 観測なのだとすると我々は未来を見る、つまり時間を逆行する事象、粒子などがありそれを捉えることができるのか? 確立的でしかない未来は、確率を超えた、決定した何かであるのだろうか?

 それとも予知は分岐なのか? ジャリの決定はあり得る世界からその一つを選んだと言うことなのだろうか。そしてその分岐は、ジャリが選んだ瞬間に、選ばれた物だけとなるのか? それとも両方とも在り続けるのか? つまり世界は分岐せずに一つのままで在るのかそれとも二つの世界に分かれるのか?

 非常に難しい問題である。これは、つまり、世界中の科学者を長年悩ませ続けて今だに解決できない量子観測問題そのものなのだ。

 何が正しいのか? と言うよりも、正しいのかと言う言葉にそもそも意味があるのか? 我々はこの問題で何を問うていると言うのか?

 いやいや……

 正直、物理学者なわけでもない私にはこんな問題の解答など全くお手上げだ。

 と言うか、大学の教養課程の物理学もテストを寝坊して落とした自分が語れるような話ではますます無い。

 となれば、私にせめてできる事と言えば、三人称語り手の神の視点を持つ特権によりジャリの未来予測中の心理をつまびらかに語ることなのかもしれない。

 この水中で数分先の未来を見たジャリの心の中だ。彼は天井を見つめながら未来を見る。ますます勢いを増しているように見える水の勢い。このままではもうすぐに天井まで水が満ちてしまい、その後にジャリ達みんなが溺死する未来が待つ。

 ならば……

 ——しょうがないか。

 ジャリは呟くと未定の未来に、その先が見えない、そんな世界の中に飛び込んで行くのだった。天井近く、先に小さなドクロをつけた禍々しく金色に輝くレバー、そのあからさまに誘うような様子に、ジャリは警戒しながらもそれを引く。すると、天井が開き、ジャリ達はそのまま水に押されるようにそこから出て、上の広い部屋に出るのだった。つまり、ジャリは、観測し事象を確定したのだった。しかし未だ分からないのは、——選んだ未来そこれは猫が死んだ未来なのか? 生き残った未来なのか? いまだ見えぬ猫を思いながら、ジャリはそう心の中で呟くのであった。

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