騎士の矜恃

 乱打される拳が壁を穿ち床を抉り、そしてことごとく空を切る。

 これ程虚しい戦い、永く魔導書の守護者チェシャ猫を演じていて初めてである――互いの攻撃が無意味ということは、やってもやらなくても同じこと。


 戦わなくていいならやらなくてもいいなら戦わないやらない。それがチェシャ猫という存在役割なのだ。


「なあなあ、もういい加減にしない?」


 魔術師緑野郎からは、返事の代わりに巨大な拳が返ってきた。

 それをし、舌打ちひとつ。

 無駄だ、まったく、何もかも。

 引き戻される腕を無感情に眺めながら、チェシャは決意を固める。


 ………


 もちろん相手は逃しはしないだろう。しかし、チェシャの爪で四肢を斬り飛ばしてやれば、流石に直ぐには追ってこれまい。そのまま離脱し、のもとへと駆け付けよう。


 決断したあとは、猫は早い。

 反撃も迎撃も気にせず、間合いへと踏み込んでいく。


 瞬間、足元に影。


 チラリと見上げれば、広げた掌。握り拳ではない、張り手のような構えである。

 床ごと潰す気らしい。チェシャはやれやれと苦笑する。


 空から突き落としてやったときを忘れたらしい――チェシャは存在の矛盾そのもの、【床がないのに】、【床がある】ように振る舞うことも容易い。

 まあ、丁度良い。壊れて散らばる床の破片に混じって逃げ延びよう。チェシャは笑いながらそれの到来を待ち――


僕はお前を掴まえた汝の命運我が手のままに………【真暗操糸シャドウバインド】」


 ――勝敗は、ここに決した。


「っ!?」


 身体が動かない。押さえ付けられているのではなく、そもそも筋肉に力がこもらない。

 声が出ない。声帯が震えず、笑みに歪んだ唇を戻すことも出来ない。


 チェシャは、迂闊だった。喋らない相手というのを、ただ退屈なやつとしか思わなかったのだ。

 


「やれやれ。無効な攻撃でも、けして無駄ではないものですよ? 魔術師相手では、特にね。以降参考にしてください」


 まあ次はありませんけれど、などと呟きながら、ベルフェは悠然とチェシャに歩み寄る。哀れなキャッティアは、それを睨むことすら出来ない。

 何をした、こいつ――!!


「良く誤解されますがね、僕の魔術は影を操ること


 チェシャの内心を読み取ったように、ベルフェが手の内を明かす。


「逆なんですよ、何もかも。………僕の魔術は、影操るのです」


 まさか、とチェシャは叫びたかった。

 愕然と目を見開きたかった。

 それはもう出来ない。敗者にはなんの権利もない。それが戦いというものだ。


「物体があれば影が出来る。動けば影も動き、動かなければ影も動かない――?」


 動かすことの出来ない視界の端に、ちらちらと闇色の糸が見えた。頭上から垂れているらしいそれは、おそらくチェシャ自身の影に繋がっているのだろう。

 影が動かない、だから、身体も動かないというわけだ。


 不死身の肉体も頷ける。奴の影が傷付いていないから、肉体の傷はわけだ。


 世界を歪め、事実を騙す。


 ――魔術師嘘吐きめ。


 言葉にならない言葉を最後に。

 ベルフェの魔術虚像の拳が、チェシャを叩き潰した。






「ふふ、まあ、このくらいですかね」


 虚像を伴い、或いは虚像に伴われて、ベルフェは壁の穴から庭を見下ろす。

 巨大な少女と茨の玉座を見てとり、さらにその奥を見て、唇を歪める。


「決着は近いですかね。しかし、クロナさんは、


 どんどん遠ざかっていく【黒幕】の姿を眺めながら、ベルフェは悠然と空中に足を踏み出す。その足元には、闇色の掌が。


「もう少し、働くとしましょうか。クロナさんには悪いですが………何しろ、


 虚像が腕を振るう。

 投石機カタパルトから打ち出されるように、ベルフェの身体が投げ飛ばされていく。

 巨人もバラも、何もかも置き去りにして。






 目が痛い。


 眼球全体が熱いスープに浸かったようにヒリヒリと痛み、目の奥から頭蓋骨をドンドンと激しくノックしてる。


 ヒリヒリ、ドンドン。ヒリヒリ、ドンドン。


 心臓の鼓動に合わせて響くリズムに耐えかね、アリスは大声で泣き叫ぶ。その声にやられたのか、五月蝿いチビは動きを止めたようだった。

 もちろんそんなことで目の痛みは収まらなかったが、ある程度の溜飲は下りた。


 そして邪魔が無くなったのなら、別にここにいる必要はない。どこか川か泉で顔を洗おう、そう決意してアリスは手探りで身体を起こし、


 ガサリという音に、びくりとその動きを止めた。


 


 まさか、という純粋な驚きが、痛みを一瞬だけ忘れさせた。あれだけ間近で、このサイズの叫びを直撃させたのだ、百歩譲って生きていることは有り得るかもしれないが、立ち上がれる筈がない。

 それとも、この認識の差こそが、戦士でない自分と彼女との差なのだろうか。


「けど、別に問題はないわね。運が悪いわ、貴女」


 距離は近い。起き上がっただけならば、それはつまり、先程倒したのと同じところにいるということ。それなら―――同じように、叩き潰せる。

 最初の叫びは偶然の産物、自分の大声がどれ程の威力を持つか解らなかったが、今回は三度目、声が武器になると充分にわかっている。徒に叫ばず、一つの単語を空気の大砲にしてぶつけるイメージ―――放つ。


「【ワッ】!!」

「ガハッ…………!」


 当たったらしい――見えないけど。


 金属同士がぶつかる音と、何かが地面を弾む音を聞いて、アリスはそう判断した。

 終わった。相変わらずの目の痛みに眉を寄せながら、アリスは今度こそ立ち上がろうとして、そして再びその動きを止めた。


 カタカタと、体が小刻みに震えている。巨人もかくやと言うくらいの巨体に成りながら、青ざめたその顔は、正しく少女のそれだ。深夜目を覚まし、部屋の暗がりに有り得ぬものを見て布団を被って怯える少女のそれだ。


 だが今、彼女は目が見えない。如何なる恐怖の像も、アリスを怯えさせはしない。だのに怯えるとしたら、それは、有り得ぬものを見たのではなく。

 有り得ぬ音を、聞いたからだ。ガサリ、という、誰かが芝生を踏み締めた音を。







 今度こそアリスは、目の痛みを完全に忘れた。そんなことに使うような余裕は、今のアリスの神経にはない。

 彼女の頭を支配していたのは、ただ一言――『そんなバカな』だ。


「…………立てるわけ、ない」


 武器としての性能を理解したが故に、アリスは理解できなかった。

 最初の叫びは声も拡散していて、いわばシャワーのように威力は散らばっていたから、生きていても不思議はない。だが、今のは違う。いうなれば、声の大砲だ。立ち上がることはおろか、生きていられる訳がない。

 だが、奴は立った。どうして、どうやって?


「う、うぅ、ううううう…………」


 見えないことがもどかしい。相手がどんな状態なのか、どうやって立ち上がったのか、わからないことが怖くて恐くて堪らない。

 今まさに、目の前で剣を振りかぶっているかもしれない。大した威力じゃなかったが、それは防いでいたからだ。防御もせず無防備に喰らっては、無事では済まないだろう。


「う、うわあああ?!」


 慌てて、アリスは手足を出鱈目にばたつかせた。狙いも型もあったものではないが、ただ大きいという一点だけでどんな行動も必殺足り得ることを、アリスは経験で学んでいた。

 手足は、何にも当たらない。しばらく暴れてようやく、アリスはそれを疑問に思うことができた。


 恐慌が過ぎ去り、アリスは暴れるのをやめて耳をそばだてた。…………全く、音がしない。


「…………?」


 なんだろう、と考えられるくらいには冷静になったアリスは、懸命に目を擦りぼんやりとした視界を取り戻した。


「っ!?」


 息を呑んだ。


 ぼやけた視界に映っていたのは、先程まで戦っていた騎士だった。

 赤い霧に包まれたような世界に一人、ぼろぼろになりながら、剣を杖のように突きながら、それでも彼女は立ち向かっていた――立ちはだかっていた。


 血に染まったような赤い瞳に射抜かれ、アリスは背筋が凍った。そこに込められた殺意に、そして、


 彼女は、すでに意識を失っていた。


 砕かれた身体で、停まった意識のまま、ただ【わたし】への殺意だけで立ち上がった騎士。


 恐ろしい、と素直に思った。これが騎士、これが――戦い。


 それは、体験したことのない経験だ。ただ本のなかで読んだだけの、文字でしか知らない話。

 本当に? 心の中で誰かが尋ねた。本当に、私≒貴女は知らないの?


「…………私、は…………?」


 脳裏を掠めた記憶に、アリスの動きが完全に止まる。自分のものでないような記憶、誰かのもののような記憶わたし


「私は、いったい…………?」


 呟いた、その瞬間。

 何かが、アリスの顔面に炸裂した。

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