少年と少女。
幸運堂に帰ってきたのは夜の十時過ぎだった。遅くなってしまった。残業代が発生してしまうけど、これはもう仕方ないだろう。
犬皇界から帰ってきたあゆみさんは、部屋の中でもぼんやりした表情で虚空を見つめていた。留守番していた姉も流石に心配して様子を伺うのだが、あゆみさんは暴れる訳でもなくただ黙っていたので、そっとしておいた。
僕は彼女の挙動に注意しながらも今日の日報を作成する。すると真面目に作業している僕の横で、姉があゆみさんのほっぺたをつついたり、引っ張ったりし始めた。意識の確認のためなのか、遊んでいるのかわからないが、とりあえず気が散る。
「姉さん、人の顔で遊ぶのはやめなよ」
思わず声が出る。
「あらー。いいじゃん、減るもんなんかないし。ってか、若いっていいわね。ほっぺたプニプニよ。仁もせっかくだから触ってみたら? 女の子のほっぺたなんて触ったことないでしょ」
「バーカ」
目もくれずに答える。何をアホなことを言ってるんだアホ姉め。
と、突然びくっと体を震わせてあゆみさんの意識が覚醒した。
「えーっと。あ、あれ。ここは……」
驚いたような怯えたような表情を浮かべるあゆみさん。
「あ、気がついた。元気? ヤッホー」
手を振る姉。
「あ。明日香さんだー。って。あれぇ、なんれここにいるんれすかぁ?」
ろれつが回ってない。心配だ。
「あゆみちゃん、おはよ。ここがどこだか分っかるー?」
軽い口調のくせにあゆみさんの瞳を覗き込む姉の視線は真剣だった。
「帰ってきたんれしたっけ、覚えてないなぁ。あ! えっと。なんだっけ。なーんか、凄い大切な世界の秘密を解き明かしたような気がしたんだけど……、忘れちゃったぁ」
一人でブツブツと言葉を発しているあゆみさん。目はまだトロンとしている。
「大丈夫よ。無理に思い出そうとしなくても」
姉があゆみさんの頭をポンポン撫でる。
「はい、そうですか。そうですかね、へへへ」
うーん、一応返事はできているが、どうも様子はまだおかしい。
「大丈夫ですか? お茶でも飲みますか」
そっとあゆみさんの前に麦茶をさし出した。あゆみさんは目の前に置かれたコップを不思議そうにしげしげと眺めていたが、ゆっくりと手を出し、確かめるように持ち上げると、口に運んだ。
「……落ち着いた?」
優しく姉が語りかける。
「え? そうですか。落ち着きますよねぇ。えへへ」
うーん。やっぱり会話がかみ合っていないぞ。あまり大丈夫じゃないみたいだ。
「あ!」と小さく叫び、立ち上がったあゆみさんが僕のほうを向いて叫ぶ。
「犬皇界って、あの世界って夢だったのかしら!?」
あゆみさんの目の色が変わった。
「犬皇界にはちゃんと行ってます。夢じゃないですよ」
「ポンチャックと一緒にお城には行ったのよね?」
「いえ、今日は丘までは行きましたけど、城には戻らずに帰ってきました」
もう大丈夫なのかな。まともな会話は出来るようになったけど、少し記憶に混乱が生じているようだ。
「そっかー、なんだか世界のすべてが嘘だか本当だかわかんなくなっちゃったー」
そう言って、ソファに腰を下ろすあゆみさん。座ると再びとろんとした眼差しに戻ってしまった。
うーん。まだ完全にハパティの効果は抜け切っていないようだ。
「……あれ、あたしたち、ポンチャックとお城は行ったんだよね?」
「いや、だからまだ行ってませんって」
また、同じことを聞いてくる。大丈夫かな。後遺症とか残ったら僕の責任になってしまうぞ。
「あ、でもポンチャックは僕達に協力的になりましたよ。ハパティを食べさせてしまって申し訳なかったって」
「あたしなんか食べたの?」
「いや、だからハパティを食べて、意識を失ったんですよ」
「あー」とアホみたいに口を空けて、なるほどー、と頷いた。
「そうだ、思い出した。それでこんな酷い状態になっちゃたんだねー。ウケる」
ウケてるんじゃないよ。その所為でこっちは大変だったんだから。
「ポンチャックがね、危ない目に合わせた責任は取るとかって言ってましたよ。思ったよりまともな奴でしたね」
「ふぅん。そーなんだー」
あゆみさんは興味なさそうに、というよりまだ頭がぼおっしてるのだろうが、そんな風に答えてから、「ふうっ」とアンニュイな溜息をついた。
やっぱりまだいつもの彼女の状態ではないようだ。
「仁、ちょっと」
姉が僕のシャツの袖を引っ張った。
「今日はあゆみちゃんのうちまで送ってきてあげなさい」
姉が心配するのも当然だったが、あゆみさんは首を横に振った。
「大丈夫ですよ、一人で帰れまぁす」
そう言って立ち上がろうとしたあゆみさんはバランスを崩して、ふらりと身体を揺らした。全然大丈夫じゃないではないか。
慌てて駆け寄り彼女の体を抱きかかえた。僕の腕に彼女の小さな肩がすっぽりと収まる。弾みで彼女の顔が急接近する。
華奢な肩。火照った顔、戸惑いがちな瞳はまだとろんとしているが綺麗な黒目が僕を捉えてる。
僕達はその姿勢で見つめ合ったまま数秒間静止した。
「おっほん」
姉のわざとらしい咳で僕らは同時に我に帰った。
あゆみさんは顔を真っ赤にして僕を突き飛ばした。そして、そのまま後方へすっ転んでいった。
「痛ぁい! 頭蓋骨が陥没したぁ」
頭を抱えて転がる彼女を見ていたら、家まで着いていかないと本当に車にでも撥ねられてしまいそうな気がした。
「あゆみさん、送っていきますよ」
僕はあゆみさんの手を取り、立ち上がらせた。
「大丈夫なのにぃ」
あゆみさんは子どもみたいに頬を膨らませたが抵抗はしなかった。
「頼むわよ。仁。大切な勇者様なんだから、粗相のないようにね」
姉の言葉に頷いて僕らは幸運堂を出た。
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