少女の旅立ち2
どうしよ。
少しためらったけど、家の中からは心地の良いひんやりとした空気が流れてくるし、外は馬鹿暑いしで、気がついたら引き寄せられるように再び玄関に入っていた。
入ったはいいが、扉が開けっ放しでは中の冷気も逃げてしまう。それにさっきの男は蚊のことも言ってたし。
あたしは扉を力任せに閉めた。光と熱が遮断される。靴を脱いで部屋に入っていくのは流石に気が引けるので、玄関に腰を下ろしたまま、しばし休んだ。
暗さに目が慣れてくると、室内の白くざらざらとした内壁が目に入る。人の家をじろじろと見るのはマナー違反ではあるけれど、室内に人の気配はしないし、さっきの男が善人である保障もないので、危険を察知するためには状況把握するのは構わないでしょ。
奥の部屋を覗き込むと気づくことが一つあった。
外観内観共に相当古いけど、中にある家具までが古ぼけているビンテージ物というわけではなかった。
部屋の中のテレビは薄型だったし、空気清浄機もパソコンらしきものも見えた。怪しげな店を想像していたので、あっけないほど「普通の家」なことに安堵しつつも不思議を感じた。
あれだけ大々的に『幸運堂』なる意味不明な看板を掲げているにも関わらず、何かの事業を行っているとはとても思えないのであった。
一般的な家、ただし相当ボロい。それがあたしの率直な感想だった。
IT系の会社なのかなぁ。パソコンとかもあるし。
そんな事を考えていると、曇りガラスの玄関ドアに人影が映った。
やばい!って思うけど、何もできないあたしはまな板の鯉だ。扉が開くのを見つめるしかなかったのだ。
立て付けの悪い扉がガタガタと無理矢理開けられた。
とっさに立ち上がる。夏の光と共に現れたのは一人の少年だった。
少年はあたしに気づくと「わっ」と驚き、一歩飛び退いた。その声にあたしも驚き「きゃっ」とあたしらしくもない女の子みたいな悲鳴をあげてしまった。
「ど、どちら様ですか?」
不審がるというよりかは、ポカンとした表情の少年。
あたしも同じだ。ぽかんとした顔で見つめ合ってしまった。
あのボサボサ頭の男か、それ以上に怪しい男が来ると思ったのに、なにやらどこにでもいるような量産型の普通の少年が現れたのだから拍子抜けだ。
「あ。もしかして昨日お電話頂いた石井さんですか?」
少年が発したその声は電話越しに聞いたあの声だった。あたしは慌てて頭を下げる。
「す、すみません。勝手にお邪魔してしまって。なんか関西弁の男性に入っててと言われたもので」
声が裏返る。少年は少し考えていたが、何か思い当たる節があったのだろう。
「こう、髪がもじゃもじゃの猫背の男ですか?」
くしゃくしゃと髪を洗う様な仕草をして問いかけてきた。
「はい、すぐ戻ってくると思うからって。扉を開けっぱなしで出て行ってしまったので」
歯切れ悪く答える。
「そっか、天さん来てたんだ」
ポツリと呟く少年。
「まあ、あの人の事は置いておいて、とりあえず、ようこそいらっしゃいました。幸運堂の細波仁です」
そう言うと少年は懐から名刺を取り出した。 『幸運堂 細波仁』とだけ書かれた味気のない名刺。あのチラシみたい。
「あの、石井あゆみです」
名前を名乗って頭を下げる。外から様子を伺うだけのつもりだったのに、予定は大幅に変わってしまった。
どうしよ。困った。
「いや、すみませんね。まさか昨日の今日で来ているなんて思わなくって。でも、来てくれてよかったです」
少年は中学生くらいの幼い顔つきの癖に妙に大人びた口調だ。 スーパーにでも行っていたのだろう。ビニール袋をぶら下げて、靴を脱ぎ直立するあたしの横を通り抜ける。
「さ、どうぞあがってください」
はい、と返事をして後に続く。あたしがあっけなく部屋にあがったのは、何を隠そう、少年がひ弱そうだったからだ。
これが、ゴリゴリマッチョムキムキスキンヘッドおじさん、みたいな人種だったら即座に逃げ出していただろうと思う。
この建物は一般的な二階建ての家であるが、あるがどうやら居住空間と事務所とは区別されているようだ。
案内されたのは玄関からすぐのところの事務所スペースだ。
壁にはスケジュール表が貼られ、灰色のデスクの上には何種類ものファイルが揃えられている。
デスクは二つだったが一つは物置と化していた。少年は整理されていない方から椅子を引き寄せてあたしに差し出した。
「どうぞ座ってください」
言われるままに硬いオフィスチェアに腰掛けた。
「お茶だしますんで、ちょっと待っててくださいね」
少年はビニール袋を持ち部屋の奥の台所に向かった。
「はい」と背筋を伸ばしたままで答えた。
冷蔵庫を開けて食材を冷蔵庫にしまい始めた少年。
彼が後ろを向いているのをいい事に部屋の中を物色するように見渡す。
玄関から覗いたときにノートパソコンだと思った機械はどうやらかなり型の古いモノらしく、上部からはプリント用紙が飛び出している。プリンターも兼ねているのだろうか。
いや、よく見たらワープロとかいう文字を打つだけの為の機械だ。初めて見た。
よく見れば、その他部屋にある電化製品も旧式のものばかりだった。
エアコンは備え付けられてはいるが、動いている気配は無い。涼しいのは単に風通しがよいからみたい。
あたし、こんな貧乏そうなところに、のこのこ来ちゃって大丈夫かしら。
少年はかなり大量の買出しに行っていたと見えて、ごぞごぞと冷蔵庫の前で作業を続けている。
何気なく彼の開けた冷蔵庫の中を覗いてあたしは戦慄した。
彼の背中越しに垣間見えた冷蔵庫の中には巨大な肉塊が大半を占めていたのだった。高さ一メートル後半の冷蔵庫の上段中断下段全て赤い肉の塊が占拠している。
何あれ……。一気に身の毛がよだつ。
気味が悪くなった。あんな大量の肉などあたしは今まで見たことも無い。
少年はそんなあたしの怯えた表情になど気付かず、不気味にも、もやしばかり三パックほどを肉の合間につめこみ、それからお茶の入った容器を取り出し、食器棚から適当にコップを二つ取り出す。
「お待たせしました」
少年はゆっくりとあたしの前に戻ってきた。逃げ出したくなるのをこらえ、会釈をしてコップのお茶を受け取る。
「石井さんですね。本日はようこそおいでくださいました。まさかあんなチラシで本当に応募者が来るなんて……」
少年の言葉の後半はボソッと呟かれたのではっきりとは聞き取れなかったけど、もしかして、馬鹿にされた?
「あ、いえこっちの話です。随分と変なところにチラシが貼ってあったでしょう。アレを見つけるとは中々見込みがあるのかもしれませんね」
褒めているのか、けなしているのかわからない口調で彼は言う。
「で、一体あのチラシはなんなんですか?」
「あ、すみません。その話の前に、こちらの書類に目を通して頂けますか?」
そう言って少年は一枚の紙をファイルから取り出した。
「利用規約……ですか?」
差し出された紙の上部に太く『利用規約』の文字。
「はい。せっかくお越し頂いたのに、申し訳ないのですが、誰にでもお仕事を斡旋できるわけでは無いんです。弊社と守秘義務を結んで頂ける方にのみ、適性検査を行い、その結果によりお仕事を紹介させて頂きます。下線部が重要な項目になりますので、よく読んでいただき、了承頂けるのでしたら署名をお願いします」
あくまで事務的に少年は指先でラインの引かれた箇所を示す。なんだかわからないまま書面に目を落とす。
『いかなる事由があっても弊社との契約内容、仕事内容を口外しないこと。口外した場合は契約違反とみなし当該違反者には弊社に関する全ての記憶を抹消する処置を取る。またそれに関していかなる身体的・精神的障害、後遺症が発生した場合にも弊社は一切責任を負わないものとする』
硬い文面でなにやら恐ろしいことが書かれている。記憶の抹消? 後遺症の発生? マジ?
「こんな文面見たら、尻込みしちゃいますよね。辞めておいてもよいですよ。いまなら引き返せます。今まで通りの日常の世界にね」
冷めた目で少年に見られると、少しカチンと来た。あたしは退屈な日常なんてこりごりなのよ。いいじゃない。やってやろうじゃない。って何をやるのかも定かじゃないけど、石橋を叩いて渡るような堅実な人生なんて真っ平なのよ。
少年の手からボールペンを引ったくり、「えいりゃ」とやけくそに名前を書きなぐった。
少年は少し、驚いたようにあたしの顔を覗きこんだが、直ぐに表情を元に戻し、契約書をファイルに入れた。
「じゃ、ご同意いただいたということで、改めて、ようこそ幸運堂へ」
少年は事務的に微笑みながら右手を差し出してきた。じわじわと今更沸き立つ後悔を握りつぶすように、その手を力の限り握ってやった。
「では、求人内容の説明と石井さんの経歴を簡単に確認させていただきますので、こちらに簡単にプロフィールを書いてもらえますか」
あたしに思いっきり握られて痛かったのだろう。手を素早く引っ込めた少年はファイルから新たに紙を取り出した。
渡されたのは「エントリーシート」と書かれた簡易的な履歴書だった。果たしてこんな所で個人情報を記載してよいものだろうか。と不安に思ったが、もうやけくそだ。書いてやれ。
ガシガシと枠を埋めていく。
書き終えて不安をかき消すように勢いよく少年に用紙を押し付ける。
手に取り、覗き込んできた少年が感嘆の声を漏らした。
「石井さん。神経図太いんですね。住所とか、所属団体とか、任意の記載なので結構書かない方も多いのですけどね」
「へ?」
「ここに※印で書いてあるでしょう。『連絡先と登録名以外は記入しなくても構いません。また登録名に関しても本名でなくとも構いません』と。こんな商売なので不審に思われないように、との配慮だったんですけど、大胆ですね」
ああ、もう。またやっちゃった。なんでしっかり見てから書かなかったんだろ。個人情報駄々漏れにしてしまうなんて本当あたしって馬鹿。
「石井あゆみさんですね。年齢は17歳。高校生ですか」
少年はあたしのプロフィールを確認しているが、失意にくれるあたしはそんな彼の言葉は耳に入っていなかった。
いつも美智子にも母親にもよく言われる言葉を思い出していた。「アユミは早とちりで、おっちょこちょいなんだから行動を起こす前に一度立ちどまって考えたほうがいいよ」と。その通りでございます。ああ、あたしの馬鹿。
「石井さん? どうしたんですか?」
「いや、自分の馬鹿さ加減に呆れているだけですから、お構いなく」
うなだれながら答える。少年は首を傾げたが、そのまま続けた。
「えーっと、通っている高校は都立西玉川高校……って、げっ」
踏まれたカエルみたいな声を出した少年。
「なんですか?」
「いえ、なんでもありません。学年は三年生ですね」
明らかにうろたえた少年。どうしたんだろ。てか高校の名前まで書く必要は無かったよなあ。
「アユミは素直な言い子だ」っておばあちゃんは褒めてくれるけど、馬鹿正直なのも考えものだ。
「あのぉ、未成年ですけど親の同意書とか、必要だったりしますか?」
一応聞く。こんな怪しいところで働くって言ったら絶対同意なんてもらえないけど。
「あ、それは結構ですよ。たぶん、同意が必要なんて言っていたら、誰も働いてくれないので」
自嘲するように少年は笑った。
「では、石井さんの経歴は確認させて頂きましたので、求人のご案内をさせて頂きたいと思います」
そう言ってまた新しい書類を取り出し、あたしの前に差し出した。
今までの味気ないコピー用紙みたいな紙ではなく、軟らかい質感の大判の書状だった。
さわり心地は紙というよりもなめした革が近い。あたしは文字を読んだ。
□依頼状□
求人番号02360
・依頼主。
犬皇界プティーマイラス王国第十三代国王リプティノス四世。
▲依頼内容。▲
プティーマイラス王国は朗らかで心優しい民の住む幸せな国です。しかし、ある日突然、反乱を起こした者がいました。
魔犬王ポンチャックです。彼は王国のハパティ畑を占領してしまったのです。
大好きなハパティを食べる事が出来なくなってしまい、国民は悲しみのどん底です。
我が国も何度か平和的話し合いで解決しようと試みたのですが、魔犬王ポンチャックは乱暴者で、すぐパンチをしてきます。
我々はポンチャックが占領した畑の近くで小用を足し、縄張りのアピールをする他、手筈がありません。
王国の平和の為にポンチャックを畑から追い出してください。
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