旅の始まり

少女の旅立ち 1

 今日も晴れ。部活はサボった。


 昼ご飯を食べている時も頭の中は興奮と不安でいっぱいだった。


 『コーウンドー』


 怪しすぎるが、どうなるものか。


 ご飯も喉を通らないってもんよ。 

 昼ごはんを食べ終えたあたしは意を決して家を出た。

 エアコンの効いた部屋から一歩外に出るだけで灼熱地獄。陽は真上にあり、あたしの影は黒く濃い。

 坂の上のアスファルトが揺らめいて見えるのは気のせいじゃないのかも。


 蝉も暑いんだろうね。

「あちーあちー」と鳴いていた。


 玄関を出るまでは自転車で行こうと思っていたのだけど、この暑さは無理。

 あたしは冷房付きの電車を選び三軒茶屋へと向かった。


 時間の指定もないんだから、もう少し涼しくなってから出ればよかった、と今更後悔しながらも地下鉄を降りて駅を出たあたしは周りを見渡し交番が近くにあることを確認した。

 よし、何かあったら駆け込めばよい。立っているのは太っちょの警官でなんとも頼りないけれど。


 大通りをトラックが通り抜け、ぬたっとした風があたしの肌に絡みつく。暑い。暑いだけじゃなく湿気もある。

 これがコンクリートジャングル東京の夏だ。出来るだけ肌の露出は避けておいた方が安心かなと思い、穿いて来たジーンズだけど暑すぎた。

 行き交う人々も気だるそうに歩いている。


 日本は四季があっていいですね、なんてテレビで羨ましそうに外国人が言うけれど、夏は暑くて冬は寒いんだよ。更に春は花粉症、秋は乾燥。ちょっとさ、四季があって良いなんて、能天気すぎない?
 


 夏休みだからか、平日のこの糞暑い中でも人通りは多かった。
雑多な店が並ぶ古びたアーケード街を歩く。


 棚に何個靴を並べられるのか、ギネス記録に挑戦中ですって感じに無理やりな陳列をしている靴屋や、一番下のプラモデルが欲しいときはどうしたらいいのよ、って店主のじいさんに問いただしてみたい程に、ひしゃげた箱が積み重なっている模型屋。

 それと、軒先に売る気があるのかないのか、無造作にぶら下げられたヒョウ柄の婦人服の洋服屋。



 そんなごちゃごちゃした小さな店がひしめき合う空の見えない路地を抜けると、アーケードの外れも外れ、アーケード屋根のちょうど途切れた路地の先に、初めて見るが聞き覚えのある看板がかかる一軒家があった。


 ここがそうね。



『幸運堂』と書かれた看板。コーウンドーはやはり英語ではなかったようだ 。

 白地に青いペンキか何かで書かれたそれは、まるで学園祭なんかで学生が作ったベニヤ板の安い看板みたいで、よく言えば暖かみのある、正直に言えば安っぽい看板だった。



 近づくにつれ、その看板が赤錆に侵されているのが見えたのでベニヤ板ではない事は分かったが、だからといって何か良い事があるわけでもない。

 看板だけが古臭いモノで建物自体はぴかぴかの新築、なんて事があるわけがなく、その看板がくくりつけられている建物自体がボロだった。


 戦前から建っているような木造住宅。関東大震災が来たら真っ先に倒壊するような傾きかけた家屋。

 昭和三十年代の懐古物の映画を撮るんだったら最適なロケ地だろうとは思う。
あまりにオンボロなので、入るか否か、悩み立ち尽くしてしまった。


 そもそもインターホン自体が見当たらないので、どうしていいのか分からない。 
 考えてみれば今までインターホンの無い家なんて見たことなかった。パンちゃんが住んでいる団地だって、会話は出来ないけど呼び鈴はある。押すと「ビーーッ」ってブザーがなる奴。



 呼び鈴すら無い時代の人は平気で「ごめんくださぁい」なんて勝手に入って来たんだと思うと、インターホンが普及して本当に良かったと思う。

 でも、それって昔の方が治安が良かったって事なのかなぁ、って、そんなことは今はどうでもいいか。



『幸運堂』の敷地と道路を区切る木塀も年季が入っていて黒ずんでいる。

 そこに錆びついた自転車が鍵も掛けずに立て掛けてあり、あたしは何故かその自転車が捨ててあるのか、留めてあるだけなのかが気になって仕方がなかった。


 そんなどうでも良いことをぐるぐると考えていたのは暑さのせいだろうか。それとも幸運堂の見た目のヤバさに現実逃避したかったからだろうか。


ぼーっと突っ立って考えていると突如引き戸がガタガタと揺れ動いた。

 その一瞬で朦朧としていた頭が覚醒する。迂闊だった。玄関の前で立っていたら直ぐに昨日の電話の主だとばれてしまう。


 相当建て付けが悪くなっていたのだろう。扉の木の枠にはめ込まれたガラスが大きな音を立てる。


 無理やり力任せに扉はこじ開けられ、薄暗い玄関から何者かが出てきた。

 男だ。痩せた男。髪がボサボサの猫背の男。


 男は大きなあくびと共に背伸びをした。


 伸びをしていると意外と身長は高いことに気付く。


 まるで鳥の巣のようにボサボサの髪はもしかしたらパーマをかけているのかもしれないし、単に天然なのかもしれない。


 体の線は細く、頬骨は浮き出し、彫りの深い瞳の下には隈ができ、顎には無精ひげが生えている。肌は白く不健康そうで年齢不詳である。


 彼は大きなあくびを終えると、目の前に立つあたしの存在に気づいた。あたしは驚きのあまり固まってしまっていた。


 しばしの間、黙ったまま見つめ合ってしまった。 


 

「こんにちわぁ」


 男はぺこりと頭を下げた。



「えっと…は、はい。こんにちは」


 慌てて頭を下げる。



「暑いねぇ。こんな日に外出せなあかん人らはホンマ大変やと思うわ」


 突然出てきた男は、まるであたしと旧知の仲であるかのようにごく自然に話しかけてきた。あまりにも自然だったので警戒する間も緊張する間も無かった。


「こんなくそ暑い中、立ち話するのもなんやから中入ったら?」


「あ、はい」


 心の準備が出来ていなかったあたしは素直に答えてしまった。

 あたしの悪い癖で、予想外の言葉を投げかけられたりすると、とっさに自分でも気がつかない内に「分かりました」とか「大丈夫です」とか肯定の返事をしてしまう。



 この前も道を歩いていたら自転車がぶつかってきたのだけど、転んだあたしを見て驚いたその人ったら「ごめんなさい! 大丈夫ですか」とか大声で叫ぶもんだから、あたしも気が動転しちゃって「大丈夫です、大丈夫です!」とか全然大丈夫じゃないのに、とっさに答えてぴょんぴょんジャンプをして元気ですアピールまでしてしまった。

 その人がいなくなってから、すりむいた膝が痛くなり悲しくなった。

 なんて間抜けな話なんでしょ。


「まあ適当に上がってえな」


 
男は薄暗い玄関の方へ手を差し出す。


「さ、早く入って、蚊とか入るから」



あたしがしり込みしていると、男は急かすようにこう言って、あたしの背中を押した。

 あたふたしているうちに幸運堂の中に入れられてしまった。


「冷蔵庫に麦茶とかあると思うから、適当に飲んでええで」


 怪しい男なのに、彼の笑顔はどうも悪い人には見えなかった。


「ほな、俺は行くから。秘蔵っ子が帰ってきたらヨロシク言っといてや」



 男はそう言い残すと玄関から出て行ってしまった。


「え!? ちょっと!!」


慌てて追いかけようとしたが、男は家の前に止めてあった錆びた自転車にひょいと乗り、既にこぎ始めている。



「ちょっと! まってください!」



 追いかけようとしたけれど、開けっ放しの玄関が目に入ったのがいけなかった。


 最近物騒だし空き巣とか流行っているから、一応閉めてあげようかな、なんて善意が頭をよぎったのが失敗で、男がその扉を開けた時がそうであったように、扉はなかなか閉まらなかった。


 扉を動かそうと四苦八苦しているうちに、男の姿は見えなくなってしまっていた。


 見知らぬ他人の家に取り残されたあたし。


 ちょっと、困るよ。





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