少年は慌てる 1

 爽やかな朝。姉が魔境に旅立つ朝。僕は一人朝食を取っていた。

 すると、ドタドタと騒がしい声が聞こえてくる。


「ちょっと! 仁!! なんで起こしてくれないのよ」


 ボサボサ頭の姉が怒号と共に自分の部屋からやってきた。


「起こしたよ。そっちが起きなかったんでしょ」


 ご飯を口に運びながら言い返す。


「やばいやばい、出発は何時って言ってたっけ?」


「九時じゃなかった?」


「今何時よ」


「……10時半」


「ぬきゃわぃや!!」


 姉は文字にしづらい奇声を発し、僕に蹴りを入れてくる。


「どわっ! 何すんのさ!」


「ザルフェルは!?」


「姉さんが寝てたから出てったよ。昼にもう一度来るって」


「馬鹿! 遅刻で給料減っちゃうじゃない!」


 いやいや、それは僕のせいじゃないって。

 理不尽な怒りを受けていると、事務所の扉が開く音がした。


「ごめんくださーい」


 溌剌とした声が響く。

 二人同時に玄関の方を向く。


「相変わらず仲良しそうね」


 綺麗な女性がにっこり微笑んでいる。 


「あらー、ひっさしぶりね!! ミカ!」


 ころっと表情を変え、瞳を輝かせた姉。


「お久しぶり! 仕事持ってきたわよ!」


 にこりと笑う彼女はミカさん。ザルフェル同様、昔からの馴染みの業者なのだ。


「ホント? やったー!」


 喜びの声を上げた姉は僕を突き飛ばし、興奮した面持ちで彼女の元に駆け寄った。

 ミカさんの両手を取り、ぶんぶんと振り回す。そんなに滅茶苦茶に振り回したら怪我するよ。


「たまにはあなた達に仕事持って来ないとって思ってたのよー。どう? 最近は」


 彼女は姉にいいように手をぶん回されながらも笑顔を一つも崩さない。


「めっきりよ! 今月も我が家の家計は火の車って感じ」


「あらー。大変ね。でも安心してー。久々の大仕事よん」


 僕が腰をさすりながら立ち上がると、ようやく姉の手から解かれたミカさんが微笑を向けてくれていた。


「お、少年! キミも元気でやっとるかね?」


「ご覧の通り、姉に苛められてますけど、体は丈夫ですよ」


「そりゃ結構結構。おや、また背が伸びたねー」


 ひまわりの様に明るく大きな瞳で見つめてくるミカさん。

 僕は思わず彼女から視線を外した。昔から彼女に見つめられるとなんだか胸の奥が騒がしくなる。

 逸らした視線は無意識に彼女のすらりと伸びた脚線美に吸い寄せられた。

 彼女は夏にしても無防備なタンクトップにデニムのショートパンツ姿。

 僕のような純粋な少年には目のやり場に困って仕方ない。透き通るような白い肌が視界に入り、その初雪のような可憐さに目を奪われ、慌てて目を逸らす。


「おやおや、少年も見ないうちにお年頃かい? 彼女できた?」


 ミカさんはからかう様に笑みを浮かべて覗き込んでくる。


「全然、モテやしないわよ。ファーストキスだってまだなんだから」


 冷めた瞳で姉が言う。


「ななな、なんで姉さんが答えるんだよ」


 思わず声が上擦る。


「だってそうじゃない。この前も今岡さんっていうクラスメイトにフラれたんでしょ」


「ななななんでそれを知ってるんだよ!」


 どこでそんな情報を仕入れてきたのだろうか。

 姉はさすが幸運堂の主だけあって情報収集能力には長けているが、それを僕の失恋に使わなくたっていいじゃないか。そんな無駄なことに労力を費やしているから肝心の仕事に手が回らないんじゃないのか。


「私に隠し事なんてできっこないのよ」


 鼻を鳴らし自慢げな姉。恐ろしい。


「あら。じゃあ私がファーストキス奪っちゃおうかしらん」


 その脇で今度はミカさんが本気とも冗談とも取れないことを言い始めた。


「か、からかわないでくださいっ」


「顔真っ赤にしちゃって。可愛いわね」 


 火照る頭で必死に冷静を装うのだが、年上の女性には適わない。

 ミカさんは海外のモデルでもこんなに美しい人は滅多にいない、というくらいに綺麗だ。高い鼻、ひまわりが咲くようにきらめく大きな瞳。輝く金髪。


 天使の様に美しい。


 なんて具合に形容したいが、それは本人に一度怒られたこともあるから言わない。


「天使みたいってことは、要するに私は本物の天使には見えないってそう言いたい訳?」


 と、こう言われたのだ。

 彼女は正真正銘の天使なのである。証拠に頭の上に輪っかもある。


 ミカさんは天界からの使者で、この世界に幸せをもたらす為に地上に舞い降りて来ているのだ。

 天使で美人。外見はパーフェクト極まりない……のだが、どうも彼女からは噂好きの女子大生の如き軽薄さが滲み出ており、姉とぺちゃくちゃ話していたり、僕をからかってくる姿などは、とても高名な神の使いには見えない。もったいない。


「さーて、純情な少年をいたぶるのもこれくらいにして。お仕事の話をしようかしら」


 ミカはデスクの上に薄汚れた書状を置いた。


「これは?」


「委任状。久々の大仕事だからね。こんな大層な物まで出てきてるのよ。なんたって異世界の危機を救う勇者様を連れて行かなきゃならないんですもの」


「またそっち系の仕事ですか」


 僕が眉をひそめると、ミカさんは不思議そうに首をかしげた。


「また?」


「今月唯一の仕事がザルフェルがらみの仕事なのよ」


 僕の代わりに姉が答えた。

 異世界派遣はつい先日にザルフェルからも受けているが、実は珍しい仕事なのだ。立て続けに依頼が来ることなど滅多に無い。


「わあ、ザルフェルもこっちに来てたの?」


 きらりと瞳を輝かせるミカさん。彼女は天使の癖に悪魔であるザルフェルとも仲が良い。


「ついさっきも来てましたよ」


「うそー。なーんだ。久しぶりに会いたかったなー。彼、元気にしてた?」


「お変わりなかったですよ。人間に化ける道具なんか持って来て、はしゃいでましたけど」


 悪魔のザルフェルも天使のミカさんもこうして話してみると人間相手にしているのとそうは変わらない。

 そりの合わない人間なんかよりも、どちらかといえば親しみやすい部類に入る。わざわざ人間界に仕事を持ってくるのだから、案外人間好きなのだろう。


「天宮司さんの所に寄ってるみたいですよ。姉さんが寝坊したから時間つぶしで呑んでるんじゃないですかね」


 繁華街の雑居ビルに人外の者達の憩いの場になっているバーがある。姉が寝ていることを知ったザルフェルは暇つぶしにそこで酒でも呑んでいるのだろう。


「じゃあ私も今日は早く仕事を切り上げて天さんの所に行こうかしら」


 天使や悪魔が仲良く客として行くのだから、物凄い絵面のバーである。


「でも、もう少ししたら、またココに来ますよ。今日から姉さんと魔境ですからね」


 感の良いミカさんはそれだけで状況を察したようだった。


「あら、ザルフェルの仕事の方は人が見つからなかったのね」


「そうなの。だから悪いんだけど、あなたの仕事は仁に任せるわ」


 頼むわよ、と姉が僕の肩をぽんと叩いた。


「僕は姉さんみたいに自分が異世界に行くのはイヤだからなぁ。なんとか人を出せるように頑張ります」


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