少年は退屈と遊ぶ

少年は退屈と遊ぶ

 夏休みも折り返し地点を過ぎた八月の中旬。

 帰省先で美味い物を食っている友人達も多いであろうこの時期に、僕は泣きまくる腹の虫と必死に戦っていた。

 ここ数日、水道水ともやしが我が軍の主力部隊である。

 育ち盛りの高校二年生の空腹を誤魔化しているのが、こんな雑兵なのだから我ながら泣けてくる。


 楽しい時間は直ぐに過ぎるのに、退屈で空腹でつまらない時間というのは何故こんなにも長く感じるのだろうか。

 六十秒で一分。六十分で一時間。二十四時間で一日。そんな風に途切れることなく続いている時の流れに、何も考えずに乗って生きていけたら、どんなに楽だろうか。何も考えず、考えないことを苦にも思わず。

 だけど、そうやって生きるのは難しい。今の僕の様にヒマすぎると、どうも自分の人生やら未来やらエロい事やらを考え始めてしまうのだ。

 絶えず流れていると思った川も、近づいて見ると岸辺に濁った水の滞りを作ったりしているもので、僕は時の流れの淀んだ場所に嵌り、答えの出ない問いをずっと自分に繰り返している。


『自分は何のために生まれきて、何を為すべきために生きているのか』


 高校生にもなってそんな青臭いことを考えているのか、と思われるかもしれないが、いいじゃないか。

 学生もサラリーマンも死の間際の老人だって、ふとしたきっかけで考えるものだろう。

 だけど、考え抜いて結論を出せる人というのはどのくらいいるのだろうか。

 夜中の暗いベッドの中で思い悩んでも眠気は襲う。退屈な授業の最中に考えても休み時間になれば忘れちゃう。やりがいのない仕事の途中にふと考え始めてしまってもクレームの電話は鳴る。死を目前にして自問しても、結局は死んでしまう。

 人は目の前に広がる片付けざるを得ない現実問題に向き合うのに必死で、人生について深く考えてるヒマはそうそう無い。

 だから、もしかしたら僕はある意味で幸福なのかもしれない。

 哲学が流行るのは平和で怠惰な時代と聞いたこともあるし、何より要するに僕は……、ヒマなのだから。


 ま、言ってしまえば僕にも夏休みの宿題という現実問題が目の前に立ちはだかってはいるのだけど、いつだって人間は現実から逃げたくなるものなのだ。

 僕は自宅兼事務所のデスクに覆いかぶさるように突っ伏していた。扇風機はガタガタとやかましく、ラジオからは今年一押しらしい、ごり押しアイドルのサマーソングが流れている。

 今年の夏もどうやら楽しいことはなさそうだった。


「仁! 仁!」



 微睡んでいたせいか、二度三度呼ばれて僕はようやく顔を上げた。
 玄関のドアを開け放ち、若い女が立っていた。僕が目を向けると彼女はブロンズに染めた巻き髪をかきあげ、満面の笑みを浮かべた。

 『誰もが思わず見惚れるほどの魅力的な笑顔』であるらしいのだが、弟である僕からすれば、悪戯を思いついた悪ガキのような笑顔にしか見えない。


 僕の四つ年上の姉、細波明日香だ。

 今日も大学をサボり、僕を電話番にしてバイトに行っていたのだった。

 事務所の中ですら、この暑さだから外は灼熱地獄なのだろう。姉は汗だくである。

 余談だが蝉が死ぬのは寿命ではなく単に暑さの所為なのではないか、と僕は夏になるたびに考えている。


「ザルフェルが来たわよ」



 大きな瞳を更に大きく輝かせている姉の後ろから、身の丈二メートルは優に超すであろう長身の男が、ぬっと現れた。

 季節はずれにも程があるベージュのトレンチコートに中折れ帽。キャリーバックを引きずっている手には革の手袋。

 見ているだけで気温が二度三度上がるように暑苦しい。

 男は顔を上げた。僕を見つめるのは黄色い瞳。縦に一本線が入った爬虫類のような瞳孔がギョロリとこちらを覗く。


「久しぶりだな、秘蔵っ子」


 地鳴りのように響く低い声で男は僕を呼び、上着を脱いだ。

 トレンチコートを脱ぐと、ゴツゴツとした黒い岩のように硬そうな鱗が黒いワイシャツの合間から覗く。

 手袋を取れば銀色に光る鉤爪を携えた指先。

 そして、シャツの背中から伸びるは翼竜の如き大きな翼。


「お久しぶりです。ザルフェルさん。魔界は冬なんですか?」


 愛想笑いで立ち上がる。手ごろな椅子を勧めると男はどしりと腰掛けた。年季の入った椅子が軋む音がした。


「人間界は真夏だったのだな。考えておらんかった。コートを着て来てしまったよ」


 ガッハッハと豪快に笑うザルフェル。口を開くとギザギザの鋭利な歯が並んでいた。

 突拍子のない話で驚くかもしれないが彼は悪魔なのである。


 ——日常というのは、とても主観的なものだ。

 殺人鬼にとっては人を殺すのが日常なのかもしれないし、紛争地帯では爆弾が降ってくるのも日常なのかもしれない。


 僕にとって、悪魔が家に来るのは別に不思議なことではなく、平凡な当たり前の日常なのだ。

 

 

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