涙雨に打たれて

 八月五日、午後二時半。陸上の県大会が終了した。

 日向航は期待を裏切ることなく、二百四百共に優勝。全国大会への切符を手にした。

 湧き上がる歓声。称賛の言葉。彼の周りはとても華やいでいる。ただその中で、とても素晴らしい事を成し遂げたのに、航だけは少し虚ろな顔をしていた。


「上条先輩、日向先輩どうかしたんですかね。なんか表情暗くありませんか?」


 今日は、めずらしく神山も大会を観に来ていた。その隣には藤馬もいる。


「うん……、そうかな。ま、あれだけ優勝するって豪語してたから、たいして嬉しいとか感じないんじゃないの?ああいうところ、本当捻くれてるから」


 玲は、航のあの表情の意味を痛いほどに理解していた。優勝したからこそ、玲と航は笑顔を作ることが出来ないでいる。


「……それにしても、なんで神山は今日来たんだよ。いつもはなんの興味も持っていないくせに」


 キャップを深く被った藤馬が、神山に文句を言い放つ。それに対し、神山はすかさず反論する。


「別に関係ないでしょ。だいたいねえ、うちの会長が県大会に出場するんだから、観に行くのは当たり前でしょ」


 二人は周りのことなど気にもせずに言い合いを続けている。真意のほどはわからないが、応援に来てくれたことは素直に嬉しい。


「ていうか、あんたこそずっとむすっとしてるじゃないの。日向先輩が優勝したの嬉しくないの?」


 神山は藤馬に向かって指を指し言い放つ。確かに。今日はずっと藤馬の様子がおかしい。イライラしているようだ。


「……うるせーよ。なんでもない」


「だったら来なければいいでしょ。せっかくめでたいのに、こっちまでしらけちゃうわ」


 藤馬はそれ以上反論することはなかった。なにかあったのだろうか。なにか、航と……。


「しかし、まさか本当に全国大会行けちゃうなんてびっくりですよね。大会前しか練習に出てないのに」


 神山も少しは彼に興味を持ったのだろうか。いや、これはただの好奇心。新しいもの好きのミーハー心だ。

 その後表彰式が終わり、神山と藤馬は共に帰って行った。その際にもひたすらに言い合いをしていたが、なんだかんだ仲がいいらしい。

 ふと、航がこちらを向いている事に気が付く。軽く手を振ると、遠くから花束ごと手を振り返してきた。

 このとき、大勢の殺気立った視線を一気に浴びたのは言うまでもない。今日は陸上部で打ち上げがあるらしく、玲も帰ることにした。


 明日はついに樹に会いに行く日。伝えたい事を今日のうちに整理しておかなければ。明日が過ぎれば、きっとなにかが変わるんだと思う。すっきりとした気持ちになるのか、逆にさらに思い詰める事になってしまうのか。

 今の段階ではまったく検討もつかない。だけど、一歩を踏み出すことは出来ると思う。


***


「次だな」


 玲と航は新幹線に乗っていた。目指すは盛岡。


「樹の家は田舎だけど、海が近くていい所だよね」


「久しぶりにゆっくり出来そうだしな」


 それぞれなにかを抱えて樹の元へ向かう。良い報告もあれば、懺悔も混ざっている。

 そんな思いを乗せて、電車はただひたすらに走る。しばらくして駅に到着した。そこから乗り換えをし、昼過ぎに樹がいる街に辿り着いた。


「んー気持ちいいね。さすがに少し涼しい気がする」


「眺めがいいな」


「お花、買って行こうか」


 駅の中にある花屋に寄り、バスで数分。海が見渡せる小さな墓地に着いた。


「どこだっけ。奥の方だよね、確か」


 玲は墓の名前をひとつひとつ確認しながら進む。


「……あった。玲、ここだ」


 航の方を振り向くと、一番眺めがいい場所にそれは建っていた。


 "逢坂樹 享年十七"


 一年前のちょうど今頃、樹は死んだ。自殺だった。


「志帆のお墓からの眺めと、なんとなく似てるね。いい所だね」


 二人はしばらくの間、樹の墓を見つめていた。志帆が亡くなって樹が引っ越してから、今日が二度目の再会。一度目は樹の葬儀だった。航は深妙な面持ちで立ち尽くしている。


「……俺の、せいだよな。なんて言っていいのか、わからないな」


 声にならない声で話す。航のせいとはどういうことなのだろうか。


「樹と、なにかあった?」


 航は俯いたまま、大きく息を吐く。


「……ずっと、樹には志帆が亡くなった事は言わなかっただろ?俺も、言ったらどれほど傷付くかなんて想像出来たから、それでいいと思っていたんだ。でも、次第に隠していることへの罪悪感が生まれてきて、本当の事を伝えた方がいいんじゃないかって。その方が樹にとってもいいんじゃないかって思って」


「え、じゃあ樹は……」


 今初めて聞いたことに玲は驚きを隠せなかった。


「ああ、樹は志帆の死を知った二日後に崖から飛び降りた。ずっと、引きずっていたんだよな。馬鹿だ、本当に。なんで言ってしまったんだろう」


 いつも堂々としている航が、今は少しでも触れたら崩れ落ちてしまうほどに憔悴している。


「あいつ、藤馬は樹の家の近所に住んでいたらしいんだ。昔から仲が良かったみたいで。だから俺を追って生徒会に入ったんだって。ずっとあんなに近くで憎まれていたんだな……」


 それを聞いて、玲の中で何かが繋がった気がした。藤馬の違和感。それは航に向けられた憎しみだった。

 玲はしばらく考え込んだ。航の苦しみ、樹の哀しみ。どちらの気持ちもわかる。


「……なんの慰めにもならないんだけど、私だったら教えて欲しいと思う。そのときはすごくショックだけど、だんだんと落ち着いて祈る事が出来ると思うし、もう会えないけど私は頑張るからって約束出来る。生きていると思い込んでそれでも一生会えないなら、たとえ死んでしまったと知っても、こうして会いに来られる方がいい」


 玲はそっと花を供える。


「航はなにも間違ったことはしていない。ただ本当の事を伝えただけ。樹の心が、少し弱かっただけ」


 お線香をあげながら手を合わせる。そして、樹に向かって話し始める。


「ねえそうでしょ、樹。航はずっと闘っていたんだよ。樹にとって一番いい選択肢をずっと考えていたんだよ。飛び降りる前に会いたかったな。なにか相談して欲しかった。悩みを、後悔を、聞いてあげたかった……」


 航も手を合わせる。すると、一度大きく風が吹いた。まるで、樹がなにか言葉を返して来たかのようだった。

 それと共に、ぽつぽつと雨が降って来る。大雨にはならなそうだが、長引きそうな雨だ。


「行こうか。……航?」


 呼び掛けても返事はない。樹の墓を前に動こうとしない。

 雨は少しずつ強くなる。雨に濡れた前髪で表情までは確認できないが、おそらく航は泣いていた。自分の不甲斐なさに、友の死に。


「……ごめん、本当にごめん。なんで俺は……」


 墓石に滴るは航の無念。その静かな涙は、雨と一緒になって樹の墓へと落ちていく。そのすべてに後悔の念が詰まっていた。


***


 再びバスへ乗り駅へと戻る。駅前で樹の母親が待っていた。


「久しぶりね、二人とも。今日は本当にありがとう。航君、全国大会出場おめでとう」


 母親は心から応援してくれていた。それをわかっているだけに、尚更顔を上げることができない。

 車に揺られ、樹の家へ着く。広い玄関を抜け、奥の座敷へと通される。そこに樹の遺影が置かれていた。


「樹も喜んでいるわね」


 線香を上げていると、航があることに気が付いた。


「この手紙……」


 遺影の前に、いくつもの手紙が重ねられて置かれている。


「ああ、これね。志帆ちゃんが入院している時に、樹に宛てて書いてくれたものなの。でも樹、返事をなかなか書かなくて。半年以上経ってからやっと書いたのよ」


 航は玲の顔を横目で見る。


「それから何回かやりとりはしていたみたい。樹が亡くなってからはもちろんなくなったけど。それが最近、春頃からまた送られてきたの。志帆ちゃんから」


「ずっと、志帆から……」


「ええ。でも不思議よね。当時は志帆ちゃんから手紙が来るのは別におかしいとも思わなかったんだけど。樹が亡くなったときに、実は志帆ちゃんも亡くなっていたって知って、しかも樹が亡くなる一年も前に」


 玲は目を閉じて話を聴いていた。樹のために、志帆のふりをしようと決めたあの日。樹が亡くなってからも、返事が来ないとわかっていても書き続けた。

 志帆を忘れて欲しくない。樹を忘れたくない。樹は気付いていただろうか。いくら文面を真似しても、志帆にはなりきれなかっただろうか。


「ごめんね。ずっと、嘘ついてた」


 誰にも聴こえない小さな声で、そっと樹に謝った。結局は、自分のためだったのかもしれない。樹を忘れたくないばかりに、自分を正当化していただけなのかもしれない。


「……これ」


 すると、樹の母親が一通の手紙を差し出してきた。


「樹が亡くなった日に、部屋から見つかったの。もちろん、中は見てないわ」


 それは、志帆に宛てた樹の最後の手紙だった。おそらく志帆の死を知ってから書いたものではないだろうか。もしかしたら、飛び降りる直前に書いたものかもしれない。

 そうだとすると、それまでの一年間偽物の志帆と手紙のやりとりをしていたということを知ってしまったことになる。


「これは、あなたたちが持っているべきなんじゃないかな」


***


「今日は遠いところ、本当にありがとうね。あの子も喜んでいるわ。航君と一緒に大会に出る姿を見たかった……。航君、全国大会必ず優勝するのよ。あなたなら出来るわ」


 航は少しの間口を噤んでいたが、意を決したのか目つきが変わった。


「はい、必ず。約束します。樹に馬鹿にされないよう、全力で走ってきます」


 いつの間にか空は晴れ渡っていた。薄い虹が大きなアーチを架けている。

 玲の鞄には、樹の最後の手紙が入っている。正直、開けるのが怖い。樹の本当の想いが書かれているのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る