入相の鐘の音

「すみません、忙しいときに」


 午後七時を回った、高校の向かいにある公園。そこに、藤馬は航を呼び出していた。


「いや、ちょうど練習があったし」


 今さっきまで汗をかいて走っていただろうに、航はそんなことを微塵も感じさせない姿で藤馬の前に現れた。

 二人はベンチの両端に腰掛ける。しばし無言の時間が続く。

 藤馬の拳に力が入りようやく口を開いたとき、ふいに航の方から話し始めた。


「……お前、俺の事を憎んでいるんだろ?」


 藤馬は目を見開く。いきなり核心をついてきた。


「玲がさ、藤馬が俺の事を憧れの対象として見ているんじゃないかって言っていてね。まさかとは思ったけど、もしかしたら少しは許してくれているのかと思った。だけど、大会の日にちゃんとわかったよ。許すどころか、憎しみはどんどん増加しているってね」


 航は目線を足下に落としながら、静かに話を続ける。


「入学式の挨拶のとき、壇上に上がった瞬間ものすごい視線を感じたんだ。新入生は皆俺の方を見ているんだけど、その中でも群を抜いてお前の視線が痛いくらいに突き刺さった。後で調べたら、お前が藤馬だとわかって本当驚いたよ」


 再び静寂が訪れる。そしてしばらくして、藤馬もまた視線を前に向けたまま口を開く。


「……本当はもっとレベルの高い高校へ行くつもりだったんですよ。ぎりぎりのところで、わざわざレベルを落としてここにしたんです」


 思わず航は苦笑する。


「あの人が死んだって聞いて、信じられなくて。生徒会の話はよく聞いていたので、日向先輩の事も知っていました。仕方がなかったにせよ、死んだ原因はあなたにもありますよね」


 そう言うと、藤馬はこちらに顔を向けた。その表情は憎悪と哀しみの混ざった顔だった。

 航は一度深呼吸をする。


「隠し通すことは出来ないと思った。あいつにもなんとか乗り越えて欲しいと。……でも、それだけじゃないな。俺の個人的な、勝手な考えを押し付けてしまった」


 航は目を閉じた。ずっと心の奥の方に閉じ込めておいた記憶を、少しずつ少しずつ手繰り寄せる。


「ずっと黙っておいて欲しかった。そうすれば、少なくとも今とは状況が違っていたでしょう。僕だって、あなたと顔を合わす事もなかった」


 語尾に力が入る。藤馬は必死に感情を押し殺しているようだった。


「本当の事を言ったらどうなるかなんて、あのときのあいつを見ていればすぐに見当がついたのに。でも、それでも言おうって決めたんだ。どうしてかわかるか」


 航も藤馬の方を向く。夕陽が二人を照らす。


「俺がこういう人間だからだ。俺はあいつよりも自分をとった。俺は周りや他人の事なんて全く考えちゃいない。生徒会に入ったのは学校を内側から操作したいと思ったから。生徒会長になったのは、そんなやつらを見下したいからだ」


 藤馬の表情がみるみる変わる。航は藤馬を嘲笑うかのように話し続ける。


「まさかお前がここに入って来るとは思ってもいなかったけど、余計面白くなったよ。目の前に自分を憎んでいる人間がいる。そいつをどう転がしてやろうか、どう陥れてやろうか、それが楽しみになっていた……」


 航の話が終わらないうちに、藤馬の拳が航の頬を突いた。

 藤馬は全身で大きく呼吸をする。右手の拳がじんじんと痛む。


「……こんな、こんな事で終わりにはしないですよ。こんな、わざとらしい……。卑怯だ」


 航は少し微笑んだ。


「ああ、わかっているよ。今のは、大会の時にあいつの側にいてくれた礼だ」


 ポケットからハンカチを取り出し、少し切れた口を拭う。


「最近、あいつは心が不安定だ。去年の今頃もそうだった。忘れようとして、でも命日が近付くと思い出してしまう。一見、しっかりしていて芯が強いように見えるが、ものすごく脆い。その状態のときの玲は、おそらくなにを言われてもはいと言ってしまうだろう。……死ねと言われれば、きっと死んでいた」


 航は少し項垂れているように見えた。この人はこんなに小さかっただろうか。


「だから、本当に助かったんだ」


 話終えて、航は大きく息を吐く。少しだけすっきりしたようにも見える。


「部活の練習になかなか出なかったのもそのせいですか?僕はただ、あなたが惜しくも優勝できなかったところを見に行っただけです。まあ、余計闘争心を掻き立ててしまったようでしたが」


「とりあえず、県大が終わったらちゃんと片付けるよ。玲もそうするつもりなんだと思う。今はまだ、その準備をしている段階だな」


 どこからか鐘の音が響いている。そういえば今日は近くの神社で夏祭りが催されるはずだ。その鐘の音は、この二人の静かな闘いを一時休戦させた。


「今日は帰ります。殴った事は謝りません。その代わり、生徒会から除名していただいて構いませんので」


 そう言い残し、藤馬は足早に去って行った。


「……除名ね。そんな勿体ないことは出来ないよ」


 様々な感情が入り混じった表情で、航は藤馬の後ろ姿を見つめていた。


***


「練習終わった?今ね、もう駅着いたよ」


 今日はこの後、玲と夏祭りに行く約束をしていた。それはいいのだが、この傷の事はどう誤魔化そうか……。

 少しして玲がやって来た。


「お前、浴衣着て来るとか言ってなかったか?」


 確かに玲は、浴衣を着て髪型も凝って来ると豪語していたのだが。


「なんか、面倒になっちゃって。あれ、期待してた?」


 玲は不敵な笑みを浮かべる。そんな玲の背中を押して、祭り会場へと足を伸ばす。

 その間、航は考えていた。面倒になったからではないだろう。一人だけ浮かれて楽しい思いをするのが悪いと感じているのだろう。

 浴衣を着ないという些細な事だけれど、せめてもの償いとしているのだろう。航はため息をつく。玲がここまで思い詰めているのも、自分の責任だ。


「玲、まずはあれだろ?」


 航はある屋台を指差す。玲もその指差す方に視線を向ける。


「あ、そうそう!お祭りといえばまずはこれ。あんず飴」


 玲にあんず飴を買って与える。今この二人は、周りから見ると恋人同士というよりかは、兄妹に見えているのではないだろうか。玲は、それくらい美味しそうに嬉しそうにあんず飴を頬張っている。

 頬の傷の事にはなにも触れては来ない。なんとなく気付いているのかも知れない。それでも、今は細かい事は忘れて楽しもうとしているようだ。

 そんな折、玲はこちらを向いて微笑んだ。


「航、明後日の県大が終わったらさ、樹に会いに行こう。話したい事がたくさんある。航が全国行くって直接伝えよう」


 急な提案で驚いたが、航もそうするつもりでいた。


「いや、まだ全国行くって決まってないけどね。でも、そうだな。すぐにでも行こうか。俺もあいつに話したい事がある」


 航は真剣な顔つきになった。それを見て、玲も頭を切り替える。


「……長かったな、ここまで来るの」


「うん」


 たくさんの人の笑顔が埋め尽くす賑やかな祭り会場。軽快なお囃子や空腹を刺激するたくさんの屋台。

 そんな中、二人の周りの空気だけは違っていた。ひどく哀れだが、とても強い決意の二人。

 ただ、今だけはそれを奥にしまい、純粋にこの雰囲気を楽しんでいた。

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