憂いの季節

 新入生も入り、授業も本格的に始まった四月下旬。今朝もいつも通り六時に起床。朝はまだ肌寒いが、春の陽気が心地いい。

 れいは机の上に置かれた缶の入れ物に目を向けた。そこには逢坂樹おうさかいつきからの手紙がしまわれてある。彼との間にはいろいろなことがあった。今でも鮮明に覚えている。


「もう行かなくちゃ」


 玲は朝食を軽く済ませ、六時半には家を出た。

 この春で高校三年生。もう進路も考えなくてはならない。玲はホームルームでクラス委員に抜擢された。その他にも、一年生のときから生徒会に所属している。

 手紙は引き出しに置いてきた。本当は肌身離さず持ち歩いておきたいのだが、他の誰かに見られたくはない。

 学校までは自転車で二十分。この時間は人通りが少なく、快適な通学が出来る。

 返事を書こうか……。


 暖かな朝陽を浴びながら、ずっと樹のことを考えていた。でも、自分なんかがなにを書けばいいのか。彼に伝えたいことはある。だけど、それをうまく言葉にする自信がなかった。

 そんなことを考えているうちに正門をくぐっていた。グラウンドでは野球部が準備運動を始めている。校内からは吹奏楽部のチューニングの音が聴こえてくる。いつもと変わらない光景。


「おはようございます。上条かみじょう先輩」


 ふたつ後輩の神山が声をかけてきた。彼女は生徒会で書記を務めている。性格は明るく、はきはきと物を言う方だ。


「今日は放課後会議ですよね。そうだ、会議を毎週この曜日って決めて欲しいんですよね。バイトのシフトをずらすの大変で」


 神山は茶髪のパーマがかかった髪を掻き上げ文句を口にする。


「あとで確認してみるね」


「お願いしまーす」


 そのまま神山は行ってしまった。髪の毛からほんのりシャンプーの残り香が漂う。玲は黒髪のロングヘア。制服も特に着崩したりはしていない。ただ顔は整っており、ナチュラルメイクで十分だった。


「私もあれくらい女の子らしかったら……」


 こんなことを考えても仕方がない。玲は生徒会室へと急いだ。

 扉へ手を掛けたとき、後ろから声がした。


「玲、おはよう」


 振り返ると、生徒会長の日向航ひゅうがわたるの姿があった。


「今日は遅いのね」


「昨日寝るのが遅くてさ、まだ頭がはっきりしないんだよね」


 航は目をこすり欠伸をしている。彼は生徒会長だが陸上部も兼務しており、たまに大会に出場したりしている。

 二人は毎朝ここに来る。主に生徒会の仕事でだが、なにもなくても習慣になっていた。


「そうそう。神山さんが会議の曜日を決めてもらいたいって。バイトのシフトがなんか大変みたい」


 航はちゃんと聞いているのか、さっさと中へ入ってしまった。

 この日向航という男も、周りに流されず常に冷静でいる。なにを考えているのかわからないし、滅多に笑うこともない。


「県大会はどうだったの?先週あったんでしょ」


 玲もそのあとをついて行く。


「ああ。総合で三位、個人で二位だった」


 航は短距離走では校内一の速さを一年生のときから保っている。これだけ速いのだから、はじめから陸上部に入部すればよかったものの、自分は他人と馴れ合うのが苦手だからと断った。

 それでもやはり勧誘は止まらず、ついに短距離走のみ出場と話をつけた。


「もう少し真面目に練習していれば、優勝狙えたのにね」


「俺は、別に順位とかどうでもいいし。それより、大会が終わってやっとゆっくりできるよ。やっぱりこっちの方が落ち着く」


 大会の結果も進路に大いに関係するのだが、試験もこれまた一年生のときから首位を守り続けているため、航にとって陸上とはただの暇つぶしでしかないのだ。


「今日は一学期の部活の予算案を出して、できれば来月の球技大会の立案までしてしまいたいな」


 早速航はパソコンに向かう。こうは言っても、実は自分ですでに資料を作成してしまっている。だから会議といっても、だいたいは航の作成した資料に目を通し、決を採るだけとなっていた。

 玲も席に着きノートパソコンを開く。まだ真っ暗なその画面に、樹からの手紙が浮かんでくる。少しだけ、返事を書いてみようか……。玲はゆっくりとキーボードを打ち始めた。


 静かな部屋に穏やかな風が入り込み、野球部の掛け声と吹奏楽部の演奏が聴こえてくる。

 あの日を思い出す。あの雨が降っていた日。あのときは確かに……。


「玲、ちょっといい?見てもらいたいところがあるんだけど」


 航が手招きをしている。ノートパソコンを閉じ、玲は席を立った。


***


 午前中の身体測定が終わり、生徒達は体育館からぞろぞろと列を連なり、教室へと向かう。健康診断書は保健委員が集め担任まで持って行くのだが、職員室に用があった玲はその役をかって出た。

 身体測定や体力測定を行うと、新しい学期が始まったんだと感じられる。この感覚は好きだが、この時期はどうにもしっくりこない。

 やはりあのときのことがあるから。

 診断書を集める手が止まる。この広い体育館がだんだんと静寂に侵されていく。

 一度大きく深呼吸をした。いつの間にか、体育館には一年生が入って来ていた。


「上条先輩、おはようございます」


 列に並びながら、生徒会会計の藤馬とうまが手を振っている。彼は小柄でとても人懐こい性格をしている。玲も軽く手を振り、体育館をあとにした。

 職員室で新しいチョークの箱をもらう。ほとんどの教師が玲に声を掛けてくる。


「上条、もう志望校絞ったか?」


「今度こそ日向を抜いてくれよ」


 玲は航に次ぐ成績優秀者。いつも総合十点以内の差で負けている。


「はあ、なんとか頑張ります」


 愛想笑いをし、速足で職員室を出た。

 航なんて抜く気もない。というか、抜ける気がしない。そもそも首位にこだわるのはどうしてだろう。どんな成績であれ、志望校に受かればそれでいいではないか。私にそんな期待はしないでほしい。私は私なりに精一杯やっている。


「玲、こっちこっち。A定食でいいんだよね」


 食堂では、中学からの友人の遥と美緒が待っていた。


「ありがとう、これお金」


 クラスは三人ともばらばらだが、昼食は必ず集まって食べていた。


「二人とも、今日も部活?」


 遥はバレー部、美緒はバスケットボール部に所属している。二人とも背が高く、試合でも活躍している。


「そう、明日からは朝練も始まるよ。これから暑くなるからしんどいけど、もう最後の大会だからね。気合い入れなくちゃ」


「玲も生徒会の仕事でしょ。身体使うのも疲れるけど、頭使うのはもっと疲れるわ」


 いつも食べっぷりのいい二人を見て、玲はつい微笑んでしまう。


「あ、進路希望まだ出してないや」


 美緒は進路希望調査書のことを思い出し頭を抱える。


「進路といえばさ、玲は日向と同じところ行くんでしょ?」


「え、まあ。今のところね」


 別に一緒に行こうと約束したわけではない。たまたま希望の大学が同じだっただけだ。


「日向ってかなり人気あるからさ、ただでさえ同じ生徒会ってだけでも敵視されてるのに、同じ大学行くって広まってるからさ。玲、ちょっと気を付けた方がいいかもよ」


 遥はなんだか悪い顔で忠告してくる。


「いや、別に同じところ受けるの私だけじゃないし。それになんか、かなり誤解混じってない?」


 どうやら、航に好意を寄せている女子から自分は良くない目で見られているらしい。


「日向は絶対玲に気があると思うんだけどな」


「そうそう。まあ、玲にまったくその気がないから意味ないんだけどね」


 恋愛なんて今はする気もない。ただ静かに、日々過ぎて行く流れに身を委ねていけばいい。

 窓の外では、桜の花びらが舞い散っている。それはなんだか物悲しい気持ちにさせられた。

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