第5話
「不殺生戒と申すは、是の如き重戒なれども、法華経の敵になれば、此れを害するは第一の功徳と説き給う也」 日蓮(秋元御書)
日蓮の言葉によると、人を殺すのは悪いことだが、法華経の敵を殺せば最高の功徳が訪れるそうなので、これをお読みの方は、信者の方に殺されないよう注意してください。
さて、本題。
法華経に書かれている、この経を誹謗すると(正法、末法といった時代を問わず)地獄に墜ちるということが真実ならば、勧誘を受けたが信者にならずに地獄に落ちた人数は膨大なものである。そんな危険なものをよく釈迦は残したものである。
これが製造業の製品なら、取り扱い資格を必要とし、おいそれと布教などできないはずである。末法においては他経も危険だが、法華経は誕生当初から危険性は存在する。取り扱い超危険物である。
日蓮によると、末法になると、日蓮の説く法だけが有効になり、法華経は効力を失い、他の経は信じれば地獄に墜ちるそうである。そんな超危険な他経を説きながら、その危険性を知って隠していた釈迦という人物をあなたはどう思いますか?
もし日蓮の言うとおり、法華経以外は地獄で、法華経批判も地獄ならば、そんな危険なものを放置していいわけがない。行政は何らかの対策を早急に打つ必要がある。どんな悪性ウィルスより被害は大きい。法華経並びに他経を即座に処分し、二度と伝承できないようにしなければいけない。
仏教を完全に根絶やしにしない限り、この先も大勢の人々が地獄に墜ちる。言い換えれば、仏教さえこの世になければ、地獄に墜ちなくてすむ。この大問題を国会でとりあげないのはどうしてだろうか。日本だけの問題でもないので、国際会議に持ち込むべきである。
釈迦は、方便を説くことによる、後世の混乱を見抜いたのであろうか。目の前の弟子にわかりやすいように説明するといったその場しのぎのために、事実とは異なる方便を説くことはそれほど大切なことだったのか。
日蓮によると、釈迦は、「四十二年が程は心苦しく(主師親御書)」方便を説き続け、七十二歳という当時としては異例の高齢になって初めて法華経を説き、「我が願既に満足しぬ」ようになったそうである。
日蓮によると、すぐに法華経を説かなかったのは衆生の機根が整わなかったことが理由らしいが、四十二年の間に世の中の人間の状態が都合よく変わるのだろうか。
たとえ衆生の機根が整わなかったとしても、世間に公表さえしなければ法華経を最初に説いても問題はないはずだ。聞いた弟子が理解できなくても、ただ内容を丸暗記しておけばいい。そうしておけば釈迦の身に万が一のことがあっても、その弟子が法華経を公表すればよい。だが、釈迦はそうしなかった。
さらに残念なことに、釈迦が四十二年間辛抱を続け満を持して説いた法華経を、機根が整ったはずの弟子たちは理解できなかった。そう言えるのは、はるか後世の天台大師、伝教大師、日蓮の三人だけが難解な法華経を理解した、と日蓮自身が述べているからだ。それなのに、どうして釈迦は「我が願既に満足しぬ」になったのだろう。
末法に至っては、法華経を誹謗せずとも、釈迦の説いた他の経を信じただけで地獄に落ちる。慈悲深い釈迦は、大勢の人間を意図的に地獄に落としたことになる。
少なくとも、各経典の冒頭に、この経典の有効期間は二千年です、その後は信じると危険ですから、法華経に帰依してください。ただし、法華経も効力を失うのでその時期に出現する行者の言うことに従ってくださいと注意事項を記しておくべきだが、一言一句間違わずに伝わったはずの各経典では、そのような記述はない。なぜそうしないのか、その理由を釈迦は語らなかった。
そうした釈迦の行動により、現在大勢の仏教徒の魂が地獄で責めさいなまれている。そのことで釈迦を非難する仏教徒はいない。賞味期限のある食べ物と知っていながら、賞味期限を明記せず、多くの食中毒患者が出た場合、その食品メーカーは非難されるではないか。
日蓮にも問題がある。鎌倉時代における日蓮の布教範囲が狭すぎる。
あれだけ他経を信じると無間地獄に落ちると言うのなら、当時の仏教伝播地域にくまなく知らしめなければならないはずである。幕府に何度も諫言する暇があったら、身命を賭して西日本に向かい教えを説き、漢土、天竺にも渡る必要がある。日蓮の話を聞き漏らした当時の仏教徒はどうすればよいのだろうか。
それ以前に、日蓮が布教しなければ、地獄に堕ちる人間の数を最小限にとどめることができたはずである。日蓮本人もそのことで相当に悩んでいたようで、
「日本国四十九億九万四千八百二十八人の一切衆生又四十九億等の人人四百余年に死して無間地獄に堕ちぬ(諫暁八幡抄)」
と苦しい胸のうちを打ち明けている。
実に、四百年余りの間に、99.998%の日本人が無間地獄に墜ち、残りのわずか0.002%のみが助かったわけである。日蓮一人のせいで、我々の先祖の多くがいまだに、地獄の底で責めさいなまれている。
このことで日蓮を批判する信者はいない。自分だけが救われればそれでよいということのようだ。
これはどうでもいいことのようで、ものすごいことである。
自分の身内が虐殺されれば、誰でも文句は言うだろう。地獄に落ちるということは、一度や二度死ぬ程度の苦しみではない。法華経が正しいのなら、他経を説いた釈迦こそ究極の極悪人、ヒットラーを越える人類史上最大の虐殺者ではないか。皮肉なことに、法華経を説いた釈迦こそ法華経最大の敵なのだ。
そう思わない信者は、心の奥底では、日蓮の教えを現実の問題ではなく、観念の世界での話だと思っているに違いない。
信者以外の日本人の方に質問です。あなたは、日蓮一派の行動で、先祖の大半が無間地獄に堕ちたことをどう受けとめますか?
A 許せない
B 日蓮の妄説にすぎない
C 先祖のようになりたくないので、日蓮に従う
D 地獄に堕ちるのは嫌だが、日蓮の信者にもなりたくないので、関わり合いに なるのを避ける
日蓮の信者の方に質問です。
あなたは、地獄に堕ちる人間の数を最小限に留めるため、行政による仏教完全禁止措置に賛成しますか?
YESの場合 #1に抜ける
少数の選ばれた信者が寂光土に行くためなら、大勢が地獄に堕ちてもかまわいませんか?
NOの場合 #1に抜ける
地獄の亡者も仏縁により最終的に寂光土行けるので、行政による仏教禁止令に反対である。
NOの場合 #1に抜ける
自分の家族が十年間拷問で責め続けられても、その後で寂光土にいけるのならかまわない。
NOの場合 #1に抜ける
地獄や寂光土は所詮比喩にすぎないことは心の底ではわかっているので、これ以上信仰というファンタジーを壊さないで欲しい。
YESの場合 #1に抜ける
#0 もう少し現実的に物事を考えたらどうですか。
#1 あなたは心の底では日蓮を信じていないので無間地獄に堕ちます。
日蓮によると、正法、像法時代は、効果の差はあれど、釈迦の説いた教えならどの経を信じてもいいそうである。それなら末法に無効となるが無害である法華経を説かずに、正法、像法時代に有効で末法にきわめて有害になる他経だけを説けばいいではないか。
末法に日蓮以外の宗教が無効になるなら、釈迦は法華経を説かずに、日蓮が最初から、仏教と無関係な別系統の宗教として、自分で法華経に含まれている真理を法華経とは別の形で説けばいいではないか。これは日蓮には自力で真理を説く能力がないと釈迦が予想したということか。だとしたら、そんな人物に人類の運命を任せていいのか。
おそらくベストな方法は、釈迦が生まれる時期が最初から末法であれば、釈迦自ら法華経だけを説き、その無効性を自ら証言し、しかしながらこの経には真理が隠されていると断り、自ら漢訳して日本語読みで南無妙法蓮華教と唱えるとよいと弟子達に教えればよいではないか。しかし、それには大問題がある。釈迦の法が無効になるから末法なので、それでは末法という時代が訪れないではないか。
そんな面倒なことよりも紀元前十世紀の時点で、最初から法華経だけを説き、その無効性を自ら証言し、しかしながらこの経には真理が隠されていると断り、自ら漢訳して日本語読みで南無妙法蓮華教と唱えるとよいと弟子達に教えればよいではないか。それにも問題がある。当時の民衆には、理由がわからないが、南無妙法蓮華経が無効だからだ。
日蓮も同じような疑問を感じていたようで、
「なんぞわづらわしく四十余年の経経を説かせ給うや(顕謗法抄)」と問うている。
答えて云く、
「四十余年すぎて後にとかば謗せずして」
法華経を最初に説いた場合、衆生が誹謗して地獄に堕ちる危険性があるので、先に方便で誹謗しないように慣らしたとのこと。末法では最初から全経典が揃っているので、準備期間がなく、法華経を誹謗してしまうが、正しい教えが保たれていない悪世の衆生はどのみち地獄に堕ちるので仕方がないという。
「末代の凡夫はなにともなくとも悪道を免れんことはかたかるべし同じ悪道に堕るならば法華経を謗じさせて堕す」
逆縁といって、地獄に堕ちても、法華経を聞いた者はそれが縁となって、そこからはい上がるらしい。だが、その理屈では、末法に限らず、法華経が説かれた時点で経典が揃うので、正法像法時の衆生も末法と同条件になり、法華経を誹謗する危険がある。
要するに、日蓮の意見では、釈迦在世時の衆生(といっても膨大で難解な経典を一般大衆が受け入れたとは思えないのでそのほとんどが弟子)の安全対策のために、四十年間嘘を突き続けたということだ。
日蓮によると、膨大な経典を残したことになっている釈迦は、真実を意図的に語らなかったが、法華経の文の底にその真実を隠しておいたそうである。
真理は末法の世に登場する法華経の行者だけが読み解くことができる。現代風にたとえるなら、釈迦が法華経にその真理をエンコードし、末法に現れる法華経の行者のみがデコードできるということだ。
文の底に真理を秘める方法も、釈迦が直接文章で記すのではなく、まず弟子の阿難にパーリー語で語り、千年間口伝で一言も間違わず伝え、千年後にサンスクリット語に翻訳され、それを鳩摩羅什が漢訳で意訳したうえで、一念三千の部分を追加したものが最終形態になる。今日風に言うなら、多重エンコードというやつだ。
文の底に真理が秘められているなら、その真理に魂を帰依させればいい。そう宣言することでそれは成立する。そう日蓮は考えた。それが法華経の漢訳の正式名、妙法蓮華教に帰依を意味する南無を加えた南無妙法蓮華経である。
ただし、日本語で発音しないと効果はない。サンスクリット語やパーリー語では無効である。その宣言は回数が多いほうがいい。できたら一生のほとんど全てをそれに費やすべきだそうである。
キリスト教でたとえるなら、イエスの死後千年で新約聖書は効力を失うが、千年以降は、聖書を一度も読まない人間が、聖書の登場人物を記したマンダラを前に、「私は聖書に忠誠を誓います」と日本語で、できるだけ多くの回数宣言すると、神の国に行けるということだ。ただし、マンダラは偶像に相当するので、天の父ヤハウエに逆らうことになる。
真理が最初から釈迦の手にゆだねられているなら、法華経の文の底に秘匿せずに、釈迦在世時に公開すればいいと思えるが、きっと人智の及ばぬ深い理由があったのだろう。釈迦本人が法華経と同時に、その要髄である南無妙法蓮華経を説くと、どうなるのだろうか?
法華経に命を捧げますという宣言に従うなら、穴の開くほど法華経を読まなければならない。すると、真理である南無妙法蓮華経より、法華経に費やす時間や労力のほうが多くなり、それでは真理に背くことになる。釈迦はそのことで相当頭を悩ませたに違いない。
旧約聖書には、将来登場する予定の救世主に関する記述が、多々みられるが、法華経には末法に出現する法華経の行者の記述はない。法華経にかぎらず、全経典で徹底的にその事を宣言しておくべきだが、釈迦はそうしなかった。
法華経のすばらしさに万言を費やしているのだから、
「私の死後、二千年後から二千五百年後、東方で一人の僧侶が、法華経に隠されていた真実を解き明かし、それを全世界に広める。そのときには法華経より、その人物の言うことのほうが重要になるので、彼に従うこと」
と、せめて数行程度の予告をすべきだった。
もしビジネスマンが得意先へのプレゼンテーション資料を、釈迦のようにまとめたならば、二度とプレゼンテーションをするような仕事は回ってこないだろう。
「釈迦に学ぶわかりやすいプレゼン資料の作り方」なるビジネス本が発売される日はおそらくこないだろう。
(原稿は複数に分割し、各資料毎に文体と主張を変えろ。ポイントは文の底に隠せ。理解しないと地獄に堕ちる。長々しい比喩を用いよ。執筆後2000時間以降2500時間以内に、原稿の行者により、文の底に隠されていたポイントが公表され、それ以降は原稿は無効となる。英語への翻訳は意訳しろ。云々)
冗談はさておき、日連の主張が正しい場合における釈迦が記すべきだった経典の概要は、次のようになる。
経典は一つに限る。名称はもちろん妙法蓮華経。
不必要な比喩や繰り返しは極力省き、簡潔明瞭な表現を心がける。
十二縁起、八正道、空、輪廻、業などの基本概念の説明の次に、正法・像法期と末法期に分けて、時代ごとの信仰のあり方についての説明を行う。
正法・像法期では、諸経の精髄を書き記し、受け入れる側のタイプ別に案内する。末法期では、末法における指導者である日蓮の特徴を事細かに記しておく。 最後に翻訳に関する問題や、末法期に日蓮の教えを聞き逃す恐れがある場合は、教えが伝わるまで仏教と関わらないでいるように注意しておく。
このようにまとめないとおかしい。理由は不明だが、釈迦はそうしなかった。
実際に起きたことは、次の①から⑩のように推測できる。
① 法華経梵版の薬王菩薩事品には、宿王華に、私の死後五百年の間、ジャンブという地域で法華経薬王菩薩事品に対する信仰が途絶えないようにしろと釈迦が告げていることが記されている。
② ①を、鳩摩羅什が「以此薬王菩薩本事品囑累於汝我滅度後後五百歳中広宣流布於閻浮提無令断絶」と漢訳した。後がひとつ多く、広く宣べ流布させよと、拡大を意図しているようにも受けとれる。
③ 大集経では、釈迦入滅後二千五百年間を五百年ずつ五段階に区切り、段階的に正しい教えが失われることが記されている。漢訳されたのは六世紀。
④ 六世紀の西北インドで末法思想が起こる。エフタル国による仏教迫害により、当時すでに末法と考えられた。
⑤ ③④から中国仏教界は、正法、像法の次に末法という時代が来る三時説を作り出した。
⑥ 周異記という中国の歴史書では、釈迦の入滅時期が紀元前十世紀とされる。
⑦ 平安末期の日本仏教界は、③⑤⑥から、末法が到来したと解釈した。
⑧ 鎌倉時代の僧侶日蓮は、②③⑤⑥⑦を根拠に、末法の始めの五百年間以内に法華経が効力を失った後の新しい教えを全世界に広め始めるよう、釈迦が比喩を用い、自分に託したと解釈した。
⑨ インドを統治したイギリスは仏教の歴史を調べあげ、釈迦の入滅時を紀元前五世紀頃と判断した。
⑩ ⑨によって像法時代の人物となる日蓮が、自分を末法の人間だと考えていたことに対し、今日の日蓮信者は、
(A)その点については日蓮は間違っていた。
(B)⑨を無視する。
(C)⑨は誤っている。
(D)⑨は正しいが、日蓮は心境的には末法の人物だ、などと様々な反応をしている。
そのような状況で広宣流布は達成可能であろうか。答えは可能である。全ての日蓮系の宗教団体が公表する信徒数の合計が世界人口の95%を越えれば広宣流布は達成されたことになる。現在、日本の宗教団体の信徒数の合計は、日本の人口より多い。第三者機関が実体を調査するわけではないから、水増しして発表すればいい。
活動会員数三十万でも、推定会員数四億と発表することは可能である。信じなければ地獄に堕ちるなどと堂々と言えるくらいだから、信徒数を偽ることぐらい平気なはずだ。各団体が信徒数を競い合うので、信徒総数が世界人口を超える可能性もある。
実は、そんな姑息な手段をとらなくても、最速で広宣流布を達成できるとっておきの秘策がある。日蓮を批判しているように見せかけているのは方便で、この章の狙いは、読者を正しい信仰である日蓮の教えに導くことである。
驚くべきことに、①から⑩の文底には、
①から⑩を繰り返し読んで聞かせれば、どんな相手もたちまちのうちに日蓮の教えに従うはずである。嘘だと思うなら、①から⑩をもう一度読んでから、この章を改めて読み直せば、日蓮の考えに納得いくはずである。
さあ、信者の方は読書なんかしてる場合じゃない。誰彼かまわず、①から⑩を読み聞かせなさい。幾何級数的に増えていく信徒数に驚くはずである。間もなくあなたたちは、次のような声を聞くことでしょう。
「広宣流布達成おめでとう。人類は全て日蓮の信者です。あなたたちが折伏すべき相手はもう一人もいません」
そのとき彼らの前には折伏のない平和な世界があった。もう、見知らぬ家庭を訪問したり、死ねば地獄に堕ちるとか、鳩摩羅什が十如是を作り出したのも、釈尊の御意思なのですなどと主張しなくてすむ。
そして彼らは気づく。寂光土の真の意味を。
そこは折伏のない世界。寂光土とは、折伏という苦行から解放された世界のことを言っていたのだ。だから、信者の方々は、世界平和のために一刻も早く広宣流布を達成しましょう。
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