機は熟した、満を持して終幕へ

「……はあ」


 ふと、腕を掴む手が弛んだ。有坂の青白い顔に再び血液が廻り出す。冷や汗がこめかみを伝った。本当に折られると思った。そのまま首でも掴まれて握りつぶされるんじゃないかって、正直とても怖ろしかった。

 いつの間にか、上総の表情も険しい顔から悲愴な顔へと変わっていた。


「わかるだろ?入ったら最後、もう二度と戻ることは出来ないんだ。無理に生きろとは言わない。ただ、有坂には組織に残っていて欲しい」


「……これは、私に適した任務です。なんの躊躇も後悔もありません。お願いします、行かせてください。今日を限りで私の役目は終わりです」


 上総が説得するも、頭に突きつけられている銃口は動かない。しかし、もう時間がない。決断のときは刻一刻と迫っている。


「一佐、こんな状況でもやはり私は命というものにはなんの興味もないようです。あと三十分後にはこの世から消えてしまうというのに、一切焦りも未練も感じておりません。それでも、私の人生はとても充実していたと思います。一佐を目標としていましたし、大変失礼ですが勝手にライバル視もしておりました。……楽しかったです、本当にありがとうございました。本当に、お世話になりました」


 上総は深い溜め息をついた。どうすれば諦めてくれるんだ、なんて言えば納得してくれる。

 この有坂渉という男は、良くも悪くも自分とよく似ている。だからこそ考え方はよくわかるし、なかなか頑固なところもとてもよく似ていた。そして、自らを省みないところもまるで同じだった。


「……どうして有坂がここまでやらなくちゃならないんだ。これまで、お前にどれほどの違法行為をさせてきたか。俺自身が決めて、お前たち諜報部を危険に晒していたことくらいわかっているだろ?むしろ、俺を恨んで俺を行かせようとするだろ……」


「同じことを、逢坂二佐も仰っていたのでは」


 その言葉に、上総は目を見開いた。


 "どうしてそこまでやらないといけないの"


 そう言われても、自分ではまったく自覚はない。命令されたからとか仕方がないからとか、きっかけとしては多々あるが、結局は自分がこうすべきだと思ったから。


「実は、逢坂二佐に対し嗣永三佐も同じことを仰っていました。どんなときでも、必ず誰かが見てくれているんですね。頑張っているな、辛そうだなって、ちゃんとわかってくれているんですね。……ですが、この負の連鎖はどこかで断ち切らねばなりません」


「だから、それは有坂じゃなくていいんだ。俺が終わりにする。逢坂も嗣永も、俺がもっと力になれていれば、ひとり抱え込んで追い詰められることはなかった。そこまで追い込んでしまったのはすべて俺の責任だから。有坂も、これ以上はもういいんだ」


 この都築上総という男、意外に強情で負けず嫌いで、無意識に誰かのためになにかをしたいという気持ちが非常に強い。

 だけど、自分を含め部下たちは都築上総を護りたいという思いがそれ以上に強い。自分は、上総と比べると階級も頭脳もなにもかもが遥かに劣っている。だけど、これでも諜報部の隊長だ。……負けてられるか!


「……一佐。この先、まだやらなければならないことが残っておられるでしょう。我々諜報部の苦労をお忘れですか」


 有坂は小憎らしい笑みを浮かべた。頭脳や力では到底勝てやしない。だが、言論ならばなんとか互角に持っていけるかもしれない。少々強引な手だが、もうこれしかない。


「これまで、私の部下が何名犠牲になったかご存知ですか?今現在も、多くの部下が危険な任務に従事しております。そして、それはすべて一佐のご命令によるものです。もちろん、諜報部隊長として私が最終許可を出したので、一佐にどうこう申し上げるなど致すつもりはありません。私がお伝えしたいのは、今もそして過去も、この世界のどこかで部下たちは死と隣り合わせのなか奮闘しています。そして、誇らしい顔をして戻って来るんです。残念ながら戻って来られなかった者も、決して誇りだけは忘れていません。一佐は、彼らの帰りを待つ義務があるのではないでしょうか」


 黙って有坂の話を聞いていた上総は、大きく息を吐いて強く目蓋を閉じた。


「……忘れてなんかいないよ。戻って来られなかった諜報部員たちの顔は全員憶えてる。誰になんの命令を下したのかも、戻ることはほぼ不可能だろうとわかっていて命令を下したことも、決して忘れない」


 "悪い、申し訳ない"……何度言葉にしただろう。


 それを伝えたときの諜報部員たちの顔は皆同じだった。普段と変わらない、闘志溢れる眼差しに自信漲る笑顔。


「誰一人として、どうして自分が行かなくてはならないんだ、などと考えた者などいませんでした。……一佐に黙っていたことがあります。もう戻れないと命じられた部下全員に、実は面談を行っていました」


 有坂は優しくも強い眼差しを向け、諭すように話を続ける。わかって欲しいんだ。尊敬する上官のために、可能な限り精一杯出来ることをしたい。そう自分たちに思わせてくれただけで、本当に充分なんだ。


「"正直、とても緊張している。もしも失敗してしまったとしても、生きて戻ったならもう一度チャンスを与えてもらえるかもしれない。だけど、自分はもう戻れない。必ず一度で成功させなければならない。だから、今は頭の中でシミュレーションをすることで精一杯。だけど期待していて欲しい。必ず、任務は遂行する"」


 有坂の話に、上総は悲痛な表情を浮かべた。本当に本当に、彼らは頼もしい部下たちだった。最後まで闘い抜いてくれて感謝しかない。


「……全員が、緊張のあまり思考が止まり冷や汗をかき、それでも笑ってこう言いました。どんな状況であっても、後ろを振り返り嘆く者はいませんでした。そして、我々をここまで強くしたのは他でもない、一佐なんですよ」


 上官として、指導者としての義務はきちんと全うしているとは自分でも思っている。そうでなければ部下は育たないし、組織自体機能しなくなる。


 出来れば犠牲は出したくない。まず考えることといえばこれだ。甘い考えだということは重々承知しているが、こればかりは仕方ないだろう。

 自分が少し先を歩き、部下たちが後ろから追いついて来るのを楽しみに待つ。いつか自分が立ち止まり、そして進むことが出来なくなったとき、その横を追い抜いて行く彼らの背中を送り出したかった。その願いは叶わなかったが、心は、闘志は、期待以上に彼らの中で大きく育っていたようだ。


「……安心したよ。皆、立派に巣立って行ったんだな。俺だけだ、こんなに後悔ばかりに囚われているのは」


「ですから、そんな顔をしないでください。先程の怒った顔の方がまだいいです」


 そう言って微笑む有坂の笑顔は、かつての諜報部員達の最期の笑顔と同じだった。

 不意の死に比べれば、覚悟を決めてその時を待つことができただけ、彼らは悔いなく残りの人生を全うし幸せだったのだろうか。いや、必ず命を落とすとわかっている以上、少しは怖かったはずだ。未練が残ることと死の恐怖とで秤にかけたところで、彼らが自分より早くこの世を去ったことに変わりはない。


「……謝りたいと、謝りに行きたいと思っておられますよね」


「……ああ」


「まあ、彼らは謝罪など一切望んではいませんが、どうしてもと仰るのなら一佐の目的を果たしてからにしてください」


 目的……。それはただひとつ、この組織を潰すこと。


「一佐に仕えた以上、私にもその目的を果たす責任があります。そして、それが隊員たちや社員たちを救うことになるのなら、あなたは最後までやり抜かなければなりません。それができるのは一佐しかおりません」


 確かに、有坂自身はこれ以上は先へ進めない。この先は上総がやるべきこと、上総でなければできないこと。最終的に部下を救えるのは、有坂ではなく上総だ。


「なんのためにここまでやってきたのですか。どんな犠牲も厭わないと、覚悟を決めたはずでは」


 遂に上総は決断した。鋭い眼差しを向け、辛い命令を下す。


「……決して、途中で断念することも戻ることも許されない。そして、遂行したとしても生きて帰ることはない。それを踏まえた上で有坂特尉、最後の命令だ。至急ビル内部へ潜入し、地下シェルターにあるシステムのコードを解析しろ」


「承知しました!……一佐、どんな結果が待っていようと、必ず後悔だけは無きよう。願っております。今の私のように、一佐の最期の瞬間も晴れ晴れとした表情であることを」


「……」


 最後に一礼して、有坂はビルへと消えて行った。


「映像は残したまま衛生通信を全面カット。本部からの通信も無視しろ。以降は地下からの通信のみにすべてをつぎ込め!」


 上総は最後まで有坂の顔を直視することができなかった。きっと彼は笑っていただろう。そしてその顔はよく知っている。自分と同じ、心に穴が空いた寂しい笑顔だ。


「……お前に、もっと生きる希望が見つかれば良かった。見つけてあげられれば良かった」


 もう有坂の姿はない。二度とその姿を目にすることは叶わない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る