凜として群青の空に翼焦がれし
翌日、本部内は騒然としていた。嗣永が急な海外勤務となり、逢坂は突如辞表を提出し、そのまま姿を消してしまったのだ。
嗣永の件については、研究員や戦術部の隊員たちに上総から直接説明をし納得を得た。しかし、逢坂については上官の乃村や部下の伏見でさえなにも聞かされていないうえ、上総ですら知らないの一点張りで、謎は深まるばかりだった。
「……桐生二佐、逢坂二佐からなにか聞いておられませんか」
最後の頼みの綱と、伏見は桐生のもとを訪ねた。だが、桐生の表情を目にして、逢坂は誰ひとりにさえなにも言わずに出て行ったのだと確信した。
「様子は、確かに普段とは違った。なにかを決意したようで、なにかを諦めているようでもあった」
昨日の逢坂の表情を思い出し、桐生はたどたどしい口調で話す。
「俺もね、詳しくは聞いていないんだ。ただ、俺も伏見も知らない聖が存在していたことは事実。おそらく世間的には決して認められない、そしてあってはならないことをしていた」
「あってはならないこと……。それは、組織とはなんの関係もないことなんですか。逢坂二佐は、本当にただお辞めになっただけなのでしょうか……」
頭の中ですでに答えは出ている。それでも、伏見は僅かな希望を信じていた。桐生の口から”なんでもないよ”と言ってくれるのを願っていた。
だが、それを理解してか桐生は哀しげな顔で微笑んだ。
「ただ、ひとつ教えてあげるね。嗣永が海外勤務になったってことは、その代わりに聖はもう戻らないってことだよ。ここに戻らないって意味じゃない。この世界に戻らないってこと」
「それは……」
伏見は、眼を見開いて言葉に詰まった。どうして、一体何があったというのか。私たちを、部下たちを置いて行ってしまうのか。
「伏見、知ってる?聖の右眼がほとんど視えていないこと。左腕が使い物にならないこと。首の神経がやられていること」
「え……。それ、どういうことですか」
逢坂の右眼がほとんど視えていない?航空部隊の司令でもあるのに、まさかそんなことはあり得ない。
「腕と首は、テスト飛行のときになんとなく気が付いた。それでも、何事もなかったかのように左で射撃をしていたから、ただの不調だと思ったんだけど違うんだ。眼はね、見ちゃったんだ、聖のコンタクト。右眼だけあり得ない度数だった。今思えば、聖はあの頃から自分だけ訓練を倍に増やしていた。よく隠し通していたよね」
伏見もそれはよく知っている。ウエイトの重さを一人だけ重くしていたし、週に何度も夜通し射撃訓練を行っていた。
「確か、眼帯は結膜炎だと仰っていました。腕と首は、知りませんでした……」
「誰も気が付かなかったほどだ。おそらく、都築一佐が綺麗に処置してくれたんだと思う。でも、どうして聖ばかりがあんな目に……。それだけじゃない、聖は感情までもを奪われた」
元々、とても明るい性格とまではいかないが、普通に話し掛けてくるし楽しそうに笑っていた。
それが、本当に突然だった。体調でも悪いのか仕事がうまくいかなかったのか、口数が減りあまり目も合わせようとしない。たまに見せる笑顔も、なんだか哀しげなものだった。
「……あのとき、強く問い詰めるべきだった。反発されようがちゃんと聞くべきだった」
「私、実はちょっと見てしまいまして……。逢坂二佐が眼帯をつけ始めた日の夜中、戦術部の会議室で暗闇の中ひとり静かに泣いておられました」
桐生の息が止まる。視力を失ったんだ、今後のことを考えれば絶望しかない。それほどまでに苦しんでいたというのに、自分はいったいなにをしていたんだ。ああ、当時の自分に本当に腹が立つ。
「逢坂二佐、大丈夫ですよね。少し休まれているだけですよね。……思い直してくれますよね」
伏見は、両手で顔を覆い下を向いた。手を伝い涙が滴り落ちる。もう会うことはないという事実を受け入れたくなかった。
「でも、俺は諦めない。一瞬でも姿が見たい。今ね、昴に頼んで聖の位置情報を特定してもらってるんだ」
その言葉に、勢いよく涙顔を上げる。ほんの少しでもいい、とにかく希望を持ちたい。
「もう、間に合わないかもしれないけど。もしも聖に会えたらさ、思いっきり殴ってやるんだ!」
「……お願いいたします!」
涙を流しながらも、伏見は精一杯の笑顔で敬礼を掲げた。
***
「お前、今どこにいんだよ。桐生が血相変えて出てったぞ」
その頃、逢坂と嗣永のことで騒ぎになっている本部で、隙を見て陽は何度も逢坂に電話を掛けていた。
「うん、ずっと電話鳴りっぱなしだった。柏樹からの電話も、出るつもりはなかったのに間違えて出ちゃったよ。……ちょっとね、故郷に顔を出しに」
やっと電話に出た逢坂の声は、昨日にも増して疲れきったものだった。
「確か、岩手だったよな。ただ実家に戻っただけか?」
「……ここからの景色は偉観だよ。今、北山崎って所にいるんだけど、海面から二百メートルの高さの大海食崖が連なっていてね。日本交通公社全国観光資源評価の"自然資源・海岸の部"で、唯一の特A級に格付けされた場所で……」
「おい待て、なんの話だよ。……お前、なにしようとしてる。馬鹿なこと考えてるんじゃないだろうな」
陽の脳裏に一抹の不安がよぎった。逢坂は実家に戻ったわけじゃない。今まさに、最悪なことをしようと……。
「昔、弟がね、ここから跳んだんだ。だけどこの高さだ、遺体は上がらなかった。もう十年になる。今日がその命日なんだ。楓も、どれだけ急いだって間に合うはずがないのに。……待ってはあげないけどね」
その言葉に陽は悟った。どうにかして止めないと。このまま、この世界から離脱させるわけにはいかない。それは、自分の任務のためでもあるし、それ以上に逢坂は仲間であり好敵手でもあるから。
「だいたい、なんで急にいなくなったんだよ。あっちの仕事はどうなった」
小さな溜息をついて、逢坂はゆっくりと息を吸う。辞表は以前からすでに用意しており、いつか来るその日まで取っておいた。橋本将官に命令された日から、おそらく最後はこうなるだろうと予測していたから。
「一昨日、政府とのパイプ業務はほぼ完了したんだ。だから、俺はもう用済み。そうなれば、都築一佐に下される命令は俺を始末すること。だけど、都築一佐にそんなことはさせられない。だったら、俺の方から姿を消した方がいいだろ」
「そんなのまだわからないだろ。あいつだって、そこまではやらないかもしれない」
「時には切り捨てなければならないものだって出てくる。俺を消すことで組織を護れるのなら、都築一佐だって覚悟を決めるだろうし俺も抵抗しない。でも、それをさせないために、周りの俺たちが出来ることをするんじゃないか。都築一佐をこれ以上苦しめるな。これ以上手を穢させるな」
逢坂の言葉に陽は口を噤む。上総になるべく負担を掛けないよう一番気を付けていたのは、紛れもない自分自身。だからこそ、逢坂の選択は正しいのかもしれない。
だけど、それでは逢坂が失うものがあまりにも大き過ぎて、そして自分を含め誰もそれを助けてやれないことが悔しかった。
「柏樹、ここ最近はなんかいろいろと話が出来て良かったよ。柏樹のことは好きではなかったけど、同じ二佐として多少尊敬はしていたかな……」
息が荒い。息切れというよりは、なんだか苦しそうだった。
「お前、大丈夫か。昨日も具合悪そうだったし……」
「離脱症状らしい。脳に作用する強い薬を、続けては止めるって繰り返されていてね。止めた時の反動が凄いんだ。しばらくパニックになる」
心臓の鼓動がとても激しい。一定の間隔をあけて怠さと吐き気が襲い、昨夜から頭痛も酷い。昼下がりの青空はこんなにも澄みきっているのに、こんなにも大きく広がっているのに。なぜ自分は、これほどまでに狭いところで足掻いているのだろう。
飛び出そうと思えばいつだって飛び出せたはず。すべてを棄てて自由になれたはず。それが今、自分にとっては最悪のかたちで実現されようとしている。
「心が辛い奴は、皆無理をするから。でも、俺はなにもしてあげられない。せめて、ゆっくり休んで欲しい。だから、帰って来い」
鬱を発症してしまった上総と重なるのだろう。逢坂は、あの夜の項垂れる陽の姿を思い出していた。
「今は、俺のことより都築一佐だろ。すぐに戻ってあげて。俺は本当に平気だから」
「平気なわけないだろ!お前のことだって、上総と同じくらい心配に思う。当たり前だろ!」
予想もしていなかった言葉に、逢坂は眼を見開いた。"心配する"という言葉さえ、都築や楓くらいにしか言われたことはないのに。まさか、この男の口から聞くことになるとは。
「……ずるいね。最後の最後に、なんかさ。でもそっか、そうなんだ」
自分が思っている以上に、皆優しくて強い。言葉に出さずとも、ちゃんと相手のことを考えて見守っている。その中でただひとり、自分だけがそこに参加出来ていなかった。
「ちょっと、いろいろと整理をして反省してくるよ。自分がどれだけ愚かだったか、今さら気が付いた……」
「それは、いつかちゃんと戻って来るってことだろうな」
こんなの、普段の逢坂ではない。いや、毎日毎日苦しんで、それでも、すべてを必死に隠してここまで来てしまったんだ。
「頭の中はぐちゃぐちゃだけど、なんかね、なにも考えないように真っ白になるんだ。ちゃんと考えたくても、別の感情が邪魔をする……」
逢坂の様子がおかしい。呼吸が乱れ、なんだか感情的になっている。携帯電話を握る手に力が入る。
「落ち着け」
逢坂は、頭を抱えてしゃがみ込んでいた。発作のような息苦しさが襲い、自分でもなにを考えなにを伝えたいのかわからなくなっていた。
「……もういい加減耐えられない。痛めつけてなにが愉しいんだ。ずっと、逃げ出したかった」
「ああ、辛かったよな。なにひとつ気付いてあげられなくてごめん。だけど頼むよ、戻って来てほしい」
今さら無理だ。死にたくて死にたくて、早く来て欲しいと願っていたその時がやっと訪れた。もう、頭の中は麻痺している。
自分の存在価値も生きている意味も、これまでずっと考えてきたけれど結局答えは出なかった。奴らに洗脳されて、自分の意志を持てなくなっていた。
上総はいつも、自分や嗣永のことを気に掛けてくれていた。だから、心配や迷惑を掛けまいと、カウンセリングや精神鑑定では、なるべく悪い結果が出ないよう努めた。
「もう終わりにする。せっかくの、この好機を。……最後の抵抗だ。都築一佐に俺は殺させない」
「何言ってんだよ!だめだ、認めない!とりあえず戻って来いって!」
まずいまずい。本当に止められない。まさに今、命を断とうとしているのに。それをわかっているのに。こうして言葉を交わしているのに!このままだと、逢坂はもう……。
「お前が消える必要なんてどこにある!そもそもの元凶は恩田たちだろ!俺たちと協力してあいつらを堕とせばいい。だから……」
「黙れ」
「……逢坂」
息苦しいのに呼吸はどんどん荒くなる。早く楽になりたいのにどうして邪魔をする。
「……俺には、そんな優しい言葉は必要ないから。いつもの柏樹でいてくれないと、調子狂うよ」
辛い。陽の優しさも自分の運命も、なにもかもが辛すぎて苦しくて泣けてくる。逃げ、なのだろうか。最後まで立ち向かわなければいけないのだろうか。ああ、結局俺は自分の意思を貫けないままなのか。
「でも、ありがとう。俺を引き留めてくれて少し嬉しかった。そのまま死んでくれって言われていたら、やっぱり少し辛いかも」
もう遅かった。昨日の時点で、もっと話を聞いてあげられれば。無理にでも拘束しておけば、命だけは、まだ……。
「充分生きた。精一杯やった。これが、俺の終わり方だ。少し早かったけど悪くないかな。……柏樹、最初で最後の頼みだ。都築のこと、どうか支えてやって」
「おい逢坂!!だめだ、やめろ!!」
陽の想いは届かず、逢坂は通話を切った。
「……あの馬鹿!!!」
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