あまつさえ心救えず桐一葉

「聖、お疲れ!」


「……楓」


 最後にフィールドから出て来た逢坂を桐生が待っていた。先程まで演習を行っていたとは思えないほどに清々しい顔をしている。


「凄いね、最後まで残ったじゃん!俺興奮しちゃった!」


「……いや。今日は、今までで一番酷かったな。楓も、まさかあの状況で昴を墜とすとは思わなかったよ。敵ながら見事」


「ありがとう」


 逢坂聖としての笑顔を見るのは、これで最後になるだろうか。何もかもを忘れて、ただひとりの人間としての最後の時間となるだろうか。


「でもさ、都築一佐も性格が悪いよね。俺を牽制するだけしておいて、あとは昴とやり合ってくださいだもん」


「はは、確かに。まあ、今日は調子が良くなかったみたいだけどね。後半はほとんど動いていなかったようだし」


 聖が都築一佐と友人だったのは知っている。その頃に何があったのかは詳しく聞いていないが、上官や友人とはまた別の、他の者に対しては抱いていない何かしらの特別な感情は持っているのだと思う。


「……都築一佐が心配?」


 当たり前に「もちろん」と返ってくるものだと思っていた。いや、それ以外にどんな言葉があるだろう。なのに、聖は。


「楓、待っていてくれてありがとう。今一番話したかったから」


 想像もしていなかった返事に、桐生はただ眼を丸くして一心に逢坂の瞳を見つめていた。


「都築一佐には柏樹がついているから大丈夫だよ。それより楓、なんか顔色悪くない?早く着替えに行こう」


 自分に向けられたその微笑みを、僕は決して忘れない。本当は、その手を掴んで引き戻したい。


「……そうそう。さっき、昴が南波一佐にちゃんと言葉で褒められてたよ。昴すごい嬉しそうだった。聖、南波一佐になにか言ったの?」


「なにも言わないよ。それに、今回昴は褒められて当然だしね。だいたい、今までだって南波一佐なりに昴のことをちゃんと褒めてはいたんだけど、お互いに想いが伝わっていないところは見ていて面白いね」


 逢坂の足取りがおぼつかない。演習の疲れではなさそうだが、それでも桐生は気付かないふりをしてそのまま話を続けた。


「聖だって、乃村一佐にいつも盛大に褒められているけど、全然嬉しそうじゃないよね。それも見ていて面白いよ」


「……乃村一佐はさ、強いし統率もとれるし信頼感もあるし、普通に尊敬はしてるよ。ただ、本当に心が綺麗すぎて。それが俺にはあまりにも眩しくて、少し疲れるんだ」


 宙を見上げ、逢坂は深く溜め息をついた。乃村や陽のような、裏表がなくありのままの自分を晒け出せる性格をずっと羨ましいと感じていた。

 だけど、そうなりたいとは思わなかった。なろうとしたって、到底無理な話なんだから。


「なんか、教会が苦手な悪魔みたいな感じだね」


「悪魔、ね……。うん、言い得て妙だな」


「聖、なにかあったの?」


 桐生は、俯く逢坂の顔を覗き込んだ。


「……間違っているってことも、どれだけ浅ましい行いかっていうこともよくわかってる。それでも、俺は柏樹を撃った。柏樹の声に耳を傾けなかった」


 後悔なのか懺悔なのか、めずらしく逢坂は顔を歪め感情を露わにしていた。


「それは、柏樹が正しかったの?」


 その問いに、逢坂は目を閉じて小刻みに頷いた。自分の決断は間違っていた。本当は、あのとき拳銃を下ろすべきだった。


「あいつ、自分の立場を理解していないんだ。俺なんかと関わればどうなるかなんて、考えればすぐにわかることなのに……」


「聖、俺になにか話せることはある?全部じゃなくていい、触りだけでもいいよ」


 武器返却所の前で足を止めて、桐生はいつもの優しい笑みを浮かべていた。すべて話してしまいたい、この苦しみを吐き出して理解して欲しい。


「……もし、今後俺と嗣永になにかあったとしても、絶対に詮索はしないで。誰になにを聞かれても、知らぬ存ぜぬで通すんだ。だけど、柏樹や都築一佐になにかしらの変化が見えたら、そのときは警戒して。もう手遅れかもしれないけど、必ず良くないことが起きるから」


 逢坂の強い眼差しに一瞬戸惑いながらも、桐生は大きく頷いた。


「わかった、約束するよ」


 そう言って先を歩く桐生は、きっと物哀しい表情を浮かべているのだろう。

 すべてを話してくれないから、自分ひとりで動けと言うから。いや、違う。なにも知らない自分は、一番の友人の苦しみをこれっぽっちもわかってあげられないと嘆いているのだろう。


「なんかさ、聖が笑わなくなったのも柏樹とぶつかってばかりいるのも、なにか理由があるんだろうなとは思っていたけど。それは結果的に、なにかしらの理由で聖と俺たちとの距離をとるためであり、特に柏樹を近付けさせないためだったってことになるのかな」


 やはり、桐生は勘が良い。深くを話さずとも、彼には大事なことがちゃんと伝わっている。

 だから頼む。その場所から動かないでいてくれ。どうか、こちら側に背を向けて欲しい。


「……柏樹は、最も関わりを持ってはいけない奴だった。柏樹の向こう側の人間がなにをするのかもわからないし、それによって柏樹の動きも決まる。いち早く突き放すべき人物だった」


 桐生の足が止まる。逢坂から笑顔が消えた日。あれは確か、逢坂が初めて無断で仕事を休んだ日だ。

 連絡も取れず、終業時刻を過ぎても姿は見えない。深夜の隊長会議の最中、突然戻って来たと思ったら蒼白な顔をして席に着いた。

 その場の人間は皆何事かと驚いていたが、確かそう……、一切表情を変えずにいた人物が二人いた。

 都築一佐と嗣永。あのときはそこまで深く考えていなかった。そういう性格だし、と特に気にも留めなかった。


「……聖が抱えていることは、俺が想像している以上にとてつもなく大きなものなんだね。気付いてあげられなくてごめんね」


 そんな、どうして謝るんだよ。ただ自分が不甲斐ないばかりに、決意を固めきれずにいるせいで……。


「俺に出来ることはある?聖の助けにはならないかな」


 今度こそは。おそらく、これが最後のチャンスとなるだろう。

 あの夜、変化に気付くことが出来なかった後悔を、今日まで苦しませてしまった懺悔を。

 もっと早く何か出来たはずだ。今さら遅すぎるけど、なんとかして聖を救ってあげたい。


「……大丈夫、俺のことは放っておいて。寧ろ、手は出さないでいて欲しい。近いうちにここは大きく崩れだす。その時、楓は俺のことを二度と思い出してはいけない」


 伸ばした手はもう届かない。聖は、すでに別世界に足を運んでいる。ただただ、後悔だけが桐生を蝕んでいく。


「そっか……。もしも、それほどのなにか大変なことが起きてしまったとき、俺は聖を敵として見ることになるんだね」


 その言葉に、逢坂は衝撃を受けた。こんなことを彼に言わせてしまったのは自分だ。ちゃんとわかっているのに。


「……そう、だね」


 だけど、やはりショックだった。仲間として友として、今までもこれからも同じ道を行けないのは本当に辛い。


「そうか、やっぱりそういうことか……」


 一番近くにいるのに一番遠い場所にいる。桐生は、有坂から言われた言葉を思い出した。ただ、この場所から動くなと言われても、どれだけ近付こうとしたところで、絶対にたどり着けそうもないよ。


「でもさ、もしも聖のことを助けに行ってしまったらごめんね。やっぱり俺は、聖のことが一番気に掛かるから」


「楓、それだけは絶対にだめだ。俺のことは忘れるんだ。本当に後悔するから。わかって」


 無意識に語尾が強くなる。一層の事、すべて話してしまおうか。そうすれば離れてくれるだろうか。


「……後悔してもいいよ。助けに行くことが出来るのに、一番の親友を助けに行かない馬鹿はいない」


 お人好し、世話焼き、そして意外に強情でとても友達想いの優しい奴。そうだった、これが桐生楓だ。


「聖、会わなくなるのは仕方ない。だけど、のは認めないよ」


 最後に交わした言葉に、逢坂は返事をしなかった。一番の友に嘘だけはつきたくないから。


 ***


「……やめてくださいよ。私を弄ぶのは」


 逢坂より早く支度を終えた桐生は、喫煙所へ向かう上総の背後から声を掛けた。一見、言葉を交わしているようには見えない。お互い別の方向を向き、心の内もまったく逆方向を向いていた。


「おかげで、見せ場が作れたじゃないか。見事な腕前だったよ」


 桐生の口元が一瞬引きつる。心にも無いことを。称賛は聖からだけでいい。


「なにか、言いたいことがありそうだけど」


 逸る気持ちをなんとか抑え、桐生は深呼吸をする。


「……聖を絶望に堕としたのはあなただ。もっと早く止めていれば、眼が視えなくなることもなかった」


 怒りに満ちた低い声色。以前から、桐生には良く思われていない事は承知していたが、今はすでに嫌悪の塊と化している。


「ああ、そうだね。すべて俺の責任だ。……でもね、眼が視えなくたって腕が動かなくたって、逢坂はまだ使えるから。逢坂自身がそこに存在していれば、それで充分だから」


「は……?」


 この人は何を言っているんだ。もしも、自分が予想していることをこの後話したなら、この手でなにをしてしまうかわからない。理性を保っていられるかわからない。


「憂さ晴らし、腹いせ、娯楽。それらを満たすためには、対象となる玩具が必要だ。眼なんか視えなくていい。むしろ、その方が好都合。……最初の頃はね、痛みを感じない薬を使用していたんだ。だけど、それだといくら痛めつけても反応が鈍って余計怒らせるだけだからって、途中から使わなくなった」


 いけない、予想以上に酷い。自分を抑えられるだろうか。逆らって反発するのはまだ可愛い方。手が出てしまうかも、銃口を向けてしまうかも。


「操縦が出来ないのは、目と腕だけが原因じゃない。度重なる暴行のせいで、肋骨は何本も折れて肺に穴も開いた」


 一瞬、桐生の呼吸が止まった。酷すぎる。どうして聖が、そんな仕打ちを受けなければならないんだ。


「なんのために……。聖が、そこまで」


「なんのため?そうだな、組織のため……。いや、はっきり言おう。俺の目的のためだ。俺が上に媚び売って楽している間に、逢坂には奴らの遊び相手になってもらった」


 一発は殴ろうと決めていた。気付けば右手は拳を握り、小刻みに震えながらその時を待っていた。だが、上総はそんな桐生に対し突拍子もない話を始めた。


「レボドパって知ってる?パーキンソン病で使用する最も強い薬なんだけど」


「……なんの話ですか」


「離脱症状が結構酷いんだ。長い期間投与して急にやめる。そしてまた投与し続けて急にやめる。それを繰り返すと、酷い副作用を超えて悪性症候群を発症してしまうこともある」


 一見、今この場で必要性のある話ではなさそうだが、桐生の頭の中では点と点が今にも繋がりそうだった。


「今回は何度目の離脱症状だろう、今までで一番酷そうだ。桐生も気付いただろ。逢坂の顔色の悪さと、足取りのおぼつかなさに」


 言葉が出なかった。逢坂は病気を患っていたわけではない。それなのに、薬?離脱症状?誰がやった、どうしてそんなことを。


「通常の治療で使用する何倍もの量を投与し続けていたから、本当に酷くて辛いんだって。そしてその症状がどんどん増していて、そろそろ耐えられないかもしれないって。死にたいって」


「いい加減にしろ。今すぐ殺してやる……」


「そこまでです」


 その声に、桐生は我に返った。周りの隊員たちの死角になる角度で、有坂が桐生の腹部に銃口を押し付けている。いつからいた?彼の存在にまで、まったく気が回らなかった。


「その右手を開いてください。所持している拳銃や薬にはお手を触れぬように」


「渉……」


 怒りに支配された桐生の瞳に映るのは、冷めた目つきでこちらを見据える有坂の横顔と右耳のピアス。


「逢坂二佐には、出口でお待ち頂くようお声掛けしました。桐生二佐、そのまま我々に背を向けて、この場から立ち去ってください」


 有坂は、内心動揺していた。彼の怒りを買えば、後々なにをされるかなど想像もつかない。この場で右耳の爆弾を爆破されるかもしれない。思わず、有坂は目を逸らした。

 それでも、今の自分の最優先任務は、目の前の都築上総を護ること。それだけは、なんとしてでも遂行しなければならない。


「……そう。聖はここには来ないんだ。ここで、なにかしらのが起きても、聖はそれを目にすることはないし、聖が巻き込まれることもない」


「桐生二佐、この場から立ち去ってください」


「お前、覚悟は出来てるの?」


 桐生は、有坂の頭を両手で鷲掴みにした。嫌でも目が合ってしまう。彼はもう、人間の眼をしていない。


「この頭。一瞬でふっとぶから。都築一佐も巻き添えにしてね」


「桐生二佐……」


 さすがに有坂も動揺を隠せない。ピアスのことは上総には話していないが、ほぼ察しがついただろう。


「桐生、お前の相手は俺だろ。俺は逃げも隠れもしない」


 頭を傾け、桐生はゆっくりと首をまわす。有坂の頭部から両手を離したが、すでにその手、そして瞳には生気がなかった。


「……殺すから。二人とも」


 前方を見据えたまま一言言い残し、桐生はこの場を後にした。その背中からは、激しい苛立ちが感じ取れた。


「一佐、遅くなり申し訳ありませんでした。後ほど、柊とその部下が嗣永三佐を空港へお送りいたします。それと、逢坂二佐ですが、やはりご自身で終決させると」


「いろいろとご苦労だったね。あとは、明日一日を乗り切れば、とりあえず一段落かな」


 上総の表情は、普段と変わらないように見えるが、わずかに後悔や物寂しさが伝わってくる。


「……桐生二佐を、あそこまで怒らせる必要はあったのでしょうか」


「いずれ、全隊員から恨みを買わなければいけなくなるからね。やるなら徹底的にやらないと」


 いつもいつも、損な役回りをするのは都築上総だ。だけど、今回は損どころではない。彼の人生を懸けて、周りのすべての人間を敵にまわすことになる。


「どうして、こんな事になっちゃったんだろうね。正直、もう元に戻すことは叶わない。これから先、残った者たちがどんな決断を下すか」


 上総は、自分が存在しない未来を見据えている。その時に残った部下たちが少しでも上を向けるように、すべてを犠牲にしてここまでやってきた。


「太く短い人生というのも悪くないですよ。我々にとって、仕事は日常の中の一部ではなく、日常そのものが仕事と言いますか、任務であったように思います。まるで映画の中のような、刺激的な毎日で愉しかったです」


 皆、自らの死を常に考えている。どのような終わり方かではなく、もしも明日死ぬのならば、それまでに残さなけらばならないこと、反対に抹消しておかなければならないことを日々念頭に置いている。


「私のネットワークコードは、徐々に破棄を開始しております。多少のご迷惑はお掛けしてしまうとは思いますが」


「ああ、わかった。もしその時は、俺がすべて消しておくよ」


 自分と関わりを持った者との関係やその痕跡は、自分の死と共に何事もなかったかのように真っ新にしなければならない。


「お互い、先は長くないでしょうね」


「俺たちは、いったい何のために生きているんだろうね……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る