夕凪の刻、遑も告げず

 上総は、自室で外の景色を心無く眺めていた。手に持つ携帯電話の画面には逢坂の名前。果たして、電話は繋がるのだろうか。彼はまだ、この世界に留まってくれているだろうか。


「……都築?」


「逢坂……」


「だめじゃないか。俺はもう、死んだことになっているはずなのに。誰かに聞かれたらどうするの」


 逢坂は、穏やかな風に吹かれて、眼前に広がる大海原を眺めていた。夕暮れ迫る空は、なんとも物哀しさを増長させる。


「……ああ、違うね。未だしぶとくこの世界に残っていた俺が悪かった」


「しぶとく残っていてくれて良かった」


 上総は普段通り平静を装っているが、携帯電話を持つ手は微かに震えていた。最後に話すことが出来た喜び。最後の会話となってしまう哀しみ。散々苦しめてしまった懺悔。代わってあげられないことが本当に申し訳なくて仕方ない。


「嗣永のことは心配しないで、無事向こうに着いたから」


「そう、間に合ったんだ。それなら良かった。有坂たちも大変だっただろうね。本当にありがとう。でも、これで良かったのかな。実際、俺たちは犯罪者なのに」


 嗣永のことを聞いて心底安心するも、やはりそんなに簡単に済ませられる事態ではないこともよくわかっている。


「逢坂と嗣永は違う。自ら犯罪に手を染めたのは俺だけだ。だから、この先は俺がやる。こんなやり方しか出来なくて、本当に申し訳ない」


「結局、一番苦しい想いをするのは都築だ。どうして都築ばかりがそこまでやらないといけないの」


「俺には責任があるから。それに、俺の目的でもある。これでいいんだ。逢坂、最期に本音を聞かせて欲しい。俺が全部受け止める」


 その言葉に、逢坂の鼓動は少し早まる。本音……、これまで口にしてはならないと、奥深くに仕舞い込んだ心の叫び。


「……正直、戻りたい。ずっとこれが自分の運命なんだって、仕方ないんだって言い聞かせてきたけど、結局は後悔してる。自分で承諾したのに、本当に自分勝手な人間だ」


 逢坂の声は枯れていた。心身共にあまりに疲れきって、気力と意識が混濁した状態だった。


「逢坂のどこが自分勝手なんだよ!初めて会ったときから今日まで、俺は一度たりともそんなことを思ったことはない。逢坂は、なにひとつ間違ったことはしていない。逢坂は立派だった!」


 普段、感情を露わにしない上総が声をあげて訴えた。だって、あまりに大きな勘違いをしているから。皆にとって自分にとって、彼はどれほど必要な存在だっただろう。お願いだ、最期くらい自分を責めないで欲しい。


「頼むから卑屈になるな。自分を褒めてやれ。逢坂がいなかったら、あのとき止めてくれなかったら、間違いなく俺は今ここにはいなかった。少なくとも、俺一人の命を救ってくれた。俺は逢坂に感謝しかないよ。……ありがとう。ここまで本部を引っ張ってくれて、ここまで生きてくれて。本当にありがとう」


 逢坂の目から涙が滴り落ちた。自分勝手なのは確かなんだ。正直、戦術部を選ばなければ、この組織にさえ入らなければ……、なんて考えたこともあった。だけど、組織の一員として隊長として必死に足掻いてきたのも事実。


「……これまで、何度死のうとしたか。一層のこと、本部ごと爆破させてやろうとも思った。自分も皆も死ねばいいと思った……」


「そうだよね。視力を取り戻してあげることが出来なくて本当にごめん。代わってやれなくて、本当にごめん……」


 出来る限りのことは尽くしたが、結局視力が回復することはなかった。その後の訓練やリハビリには出来るだけ付き添い、逢坂が以前となるべく変わらない生活を送れるよう努めた。そして、それくらいしか出来ない自分に終始腹が立った。


「いや、ありがとう。都築じゃなきゃ、完全に視えなくなっていたよ。腕だってちゃんと動いてる。都築、今だから、今しか言えないから伝えておくよ。部下全員が都築を尊敬していて、もっと役に立ちたいと感じている。彼らにとって都築の背中はまだ遠いけど、たまに振り返ってみたらいいよ。気が付かないうちに、とても立派に成長しているから。なんかすっきりした気がする。聞いてくれてありがとう。……この先は頼むよ」


 この電話を切れば、上総は真っ暗な闇に突き進むことになる。手を貸してくれる者など誰も存在しない、大きな孤独と戦うことになる。


「ああ、やるならとことん悪を貫くよ。決して迷わない、すべてを裏切ってやる」


「はは……。皆、可哀想だ」


 生温い風に吹かれて、逢坂は遠くを見つめ深く息を吐いた。自分が悪事に手を染めたことで、たくさんの人たちに迷惑を掛けてしまった。そして、上総もこれから大勢の部下を裏切らなければならない。


「逢坂、本当にごめん。そんな選択しかさせてあげられなくて。こんな終わり方になってしまって……。なんのためにこの地位を保ってきたのか、まったく意味がなかった……」


「嗣永を助けてやれただけで充分じゃないか。これは、都築じゃなきゃ無理だった。嗣永の上官として心から礼を言うよ。あと、俺のことはいいんだ。ちゃんと、自分で後始末をするから」


 上総は、眉間に皺を寄せて湧き上がる苛立ちを抑えていた。もっと違うやり方があったはずだ。もっと慎重に調査をしていれば。……あまりにも、自分には力が無さすぎた。


「逢坂、本当によく頑張ったよ」


「……」


 その一言は、逢坂がいちばん欲しかった言葉だった。命令を下された日からとうに捨てた人生だったが、それでも自分は生きていると、この世界に参加していると、誰かに認めて欲しかった。


「後は任せちゃってごめんね。……待ってるから」


「先にいってて。きっと、すぐに追いつく」


 二人は、後戻りの出来ない一歩を踏み出した。上総も逢坂も、哀しくも強い決意を固めて。


 ***


 逢坂は、鳴り止まない携帯電話を握りしめ空を見上げていた。必死に堪えるも、無情にも頰を涙が伝う。様々な感情が入り混じっていた。

 その時、電話の着信に紛れてメールを一通受信した。差出人の名前は柏樹陽。待ち受け画面に表示される通知で確認出来る僅か一文。


 "生きて欲しいと願う人に後悔をさせるな"


「生きて欲しいと願う……」


 真っ先に浮かんだ顔。

 生きて欲しいからこそ関わりたくない。生きて欲しいからこそ真実を話すことが出来ない。生きて欲しいからこそ、共に歩むことは叶わない。


 逢坂はしばし思い切らないでいたが、意を決し携帯電話の画面に指を向けた。


 ***


「……あの、あまりにも酷いといいますか、衝撃的すぎて、ちょっとまだ信じられません」


 ハンドルを握る桐生の横で、タブレットPCを手に位置情報を調べている笹谷昴が怪訝な表情を浮かべていた。


「仕方ないよ。本当に、嘘みたいな話だしね」


「視力がほとんどなくて、首と腕がちゃんと動かないなんて……。昨日の演習でも、全く不自然なところはなかったので。それに、裏組織との取引に関わっているというのも」


「都築一佐が教えてくれたんだよ。その代わりに、本件については一切手は出さないこと。そして、有坂とは自分の指示以外では今後一切関わらないことってね」


 現在、逢坂が居る場所は既に把握している。しかし、移動している様子がないため、本当に逢坂自身がそこに存在しているのか定かではない。


「聖は被害者だ。いくら上からの圧があったからって、聖をあんなに酷い目に遭わせた都築一佐と諜報部を、俺は絶対に許すことは出来ない」


「僕もそうですよ。詳しいことはよくわかりませんが、逢坂二佐があまりにも不憫で。一年近くもの間、身体的にも精神的にも苦しんで、誰かに助けを求めることも出来なくて、すべてを諦めて……」


 昴の声が震えている。ハンドルを握る桐生の手にも力が入る。


「……!!桐生二佐、逢坂二佐が出ました!」


 思わず息が詰まる。声を聞けるのか、自分の声を聞いてもらえるのか。……まだ、生きているんだよね。


「Bluetoothで飛ばしますね」


「スピーカーで大丈夫だよ。昴にとっても大事な上官であり仲間なんだから。ちゃんと話をしよう」


「……ありがとうございます!」


 昴はそっと画面に触れた。それから声を発するまでのそのほんの数秒が、とてつもなく長く感じられた。


「聖……?」


「……電話、出られなくてごめん」


 ああ、確かに聖の声だ。少し掠れているが、怪我などを負って苦しんでいるといった様子はない。


「気にしないで。出てくれて本当にありがとう。少し、気が晴れたのかな」


「……そう、だね。心配を掛けてごめん。昴も、急にいなくなって迷惑を掛けたね」


 昴は涙を堪えられなかった。自分は部下であったのに。近くにいたのに。


「逢坂二佐!本当にごめんなさい!僕、なにも気が付かないで……。逢坂二佐の苦しみに、全然なにも……!」


「昴……」


「帰って来てくださいよ……。もう会えないなんて嫌ですよ。僕、なんでもしますから」


 嗚咽まじりの必死な訴えが車内に響く。その背中を、歯を食いしばり涙をぐっと堪える桐生がさする。


「もう決めたんだね。聖は聖なりのけじめをつけようと、その場所に立っているのかな。でも、もう少しだけ待ってはもらえない?」


 楓の優しい言葉。昴の小さな泣き声。逢坂の身体は自然と振り返りそうになる。引き返したくなる。


「俺がいなくなれば、すべてが終わるわけじゃない。むしろ、俺がいなくなろうと何も変わらないだろう。だけど、必要のなくなったものは処分していかないと。ひとつでも残せば、必ず後で響いてくる」


「そんな……。逢坂二佐……」


「昴は諦めちゃだめだよ。昴は隊長に向いているし、悪いけど乃村一佐の支えにもなって欲しい。これでも上官として側で見てきたんだ。昴のことは、よくわかっているつもりだよ」


 その言葉に、昴の決心は固まった。


「……僕、昇級試験を受けようと思います。その、南波一佐が推薦してくださると。本当は、もう辞めようと決めていたんです。でも、今回の演習で少し手応えを感じられて、まだ頑張ってみようって」


「……そう。よく決断したね。そうか、試験受けるんだね。大丈夫、いつも通りやっておいで」


「はい……!ありがとうございます……!!」


 逢坂の目尻からも涙が零れ落ちる。昴は皆にとって弟のような存在で、彼を見ていると少しくらいの悩みなんてすぐに吹き飛んだ。彼にはこの先の組織を引っ張って行って欲しい。


「楓」


 ついに来てしまった。最後の会話、さよならの会話。もう話せないどころか、聖という存在を目にすることも叶わなくなる。


「俺の態度が変わっても、素っ気なくしても、それでも隣にいてくれたこと、本当に感謝してる。楓がいなかったら、俺はここまで生きていなかった。いつだって俺のことを考えてくれて、それなのに俺は最後まで自分のことばかりだった。楓は一番の親友で戦友だ。都築と有坂のことは、あまり怒らないであげて」


 もうやめて欲しい。話を終わらせないでくれ。時間が短すぎる……!

 もう言葉が出てこない。涙を堪えるのに必死で、哀しみを増幅させないようにするだけで精一杯で。


「二人とも、もう引き返すんだ。さすがにもう見放されていると思うけど、奴らがどこで見ているかわからない。二人の安全をしっかりと確認してから終わりにしたい」


 残していく方も辛いし、残されてしまう方も辛い。でも、助けに行けないことがなによりも辛い。


「二人のこれからが、出来る限り困難なものにならないよう、ずっと祈ってる」


 "さよなら"は言わない。

 たとえ二度と会えなくたって、共に過ごした時間はちゃんと残っているから。


 ***


 度の強いコンタクトを入れた右眼。気を緩めると小刻みに震える左腕。常に神経が突っ張る首元。まだ繋がって間もない肋骨に、一度穴の開いた肺。

 隠し通すのに必死だった。もし知られてしまえば、きっとすぐにでも戦闘員から排除されると思った。仲間たちと一緒にいられなくなると思った。


 血の滲むような厳しい訓練も、いつ命を落としてもおかしくない危険な任務も、毎週のような連日の徹夜だって、今思えば懐かしい。

 決して忘れない。ここで経験したこと、出逢った人たち。……少しくらいは、自分のことも褒めてあげようか。


「ああ、本当に長かった……。でも、よくやり遂げたな」


 目の前に広がる緋色に染まった大空は、それはそれは壮大だった。その景色を目に焼き付けた逢坂は、岸壁の端に片足を掛け拳銃を握る。

 僅かな残照まぶしく、次第に辺りは闇に包まれていく。静かに風が吹きはじめ、岩肌には白波が打ちつけていた。


「……ちょっと、怖いな」


 足下遥か下は闇への入り口。覚悟を決めて目蓋を閉じたのち、瞬く星に紛れて、発火炎が一瞬煌めきを見せた。

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