伸ばした手は呆気なく

 それからしばらく、陽は上総の部屋に来ては仕事を少しばかり手伝うようになっていた。話を聞いた分隊長たちも率先して業務を引き受ける。

 ある日、第二分隊隊長の和泉三尉が部屋に呼ばれた。


「和泉、この報告書だけど」


「は、はい……」


 和泉は青い顔をして上総の前へ立つ。なにか大きなミスをしただろうか。どこがいけなかった、怒られるのか。


「この部分だけ直して再提出。他はすべていい。和泉は文章能力が秀でているな」


 そう言うと、上総は微かに笑みを浮かべて書類を手渡した。


「……あ、はい。ありがとうございます」


 以前まで、書類不備があるとよく上官には怒鳴られていた。だがよく思い出してみると、訓練中も業務中も、誰かがミスをしたって上総は決して声をあげない。

 どこがどう悪いかを丁寧に説明し、自分の教え方が悪かったと逆に謝罪してくることもあった。

 相変わらず、上総の机は大量の書類の山。昨晩、最後に届いたメールは午前四時半のものだった。自分たちが手伝い始めたからといって、それでもまだまだなんの足しにもなっていない。

 少しずつ、上総に向けられる目が変わっていった。この人はなにもかもを見越して動いている。そのすべてが、部下である自分たちのために。


***


 第一部隊が発足して二ヶ月が経ち、だんだんとまとまってきた頃、それは起こった。


「こちら久瀬、第四分隊はどうなった?」


 緊迫した様子で、久瀬は上総に電話を掛けていた。


「……まだ状況は把握出来ておりません。今柏樹一尉を向かわせていますが、これから私も向かいます」


 先日、病棟のデータがハッキングに遭い、第二小隊が調査を行なっていた。と言うのも、病棟のコンピュータに潜入を試みたデータが見つかり、わざと誘いハッキングをさせていた。

 そしてハッキング元を突き止め、第二小隊はそこのビルへ潜入捜査に向かったのだが、地下へ入った第四分隊が戻って来ないのだ。


「第三分隊は、被疑者をつれ帰りすでに帰還しています。ですが、それから一時間以上経っても第四分隊と連絡がとれません」


 現場に到着した陽は、現在の状況を聞かされるもあまり耳には入っていなかった。

 犯人はすべて捕らえた。いや、まだ仲間が潜んでいたのだろうか。それでも、なぜひとりも連絡がとれないんだ。


「第三分隊の隊員が、爆発音のようなものを聴いたそうです」


「なに?」


 部下は館内図を広げて見せる。


「おそらく、この薬品庫を爆発させたんだと思います。ですが、そのせいで可燃性ガスが充満してしまい中に入ることが出来ない状態です」


「扉を開けた瞬間ドカン、か」


 地下室には、可燃性ガスの中でも特に危険なシランが充満しているため、酸素と混ざってしまったらもう終わりだ。この建物ごと爆発してしまう恐れがある。

 中からの反応は未だない。先ほどの爆発はどの程度のものだったのだろう。地下一面が燃やされてしまったのだろうか。


「柏樹一尉、状況は」


「都築さん」


 社用車から足速に上総が降りてきた。


「この通りですよ。手も足も出ません。周辺の作業員は避難させましたが、それでも建物の倒壊は避けられないでしょう」


 上総はじっとビルを見つめ、しばらくして中へ入って行った。


「ちょっと都築さん。入るならこれ、マスクつけてください」


 慌てて陽は防毒マスクを手渡す。だが、上総はそれを陽へ突き返した。


「これはお前が付けろ。俺は平気だ」


「しかし……」


 上総は目を細め袖口で口元を抑え、地下室入口の扉の前まで近付き館内図を確認する。


「レーダーによると、第四分隊はこの部屋のさらに奥の部屋にいると見られます。間に合うかどうか……」


 陽は必死に救出方法を考えていたが、隣で上総は冷静に館内図を見つめている。


「都築さん、どうしますか」


 部下が閉じ込められているなか、居ても立っても居られない陽は早口で上総に問う。


「……」


 上総は、腕時計に目をやり時間を確認したかと思うと、まさかの命令を下した。


「……総員、直ちに撤退」


 ここにいる誰もが耳を疑った。今のはなんだ、聞き間違いか。撤退?嘘だろう。


「え、都築さん?撤退ってどういう意味ですか」


 陽も自らの耳を疑い、そして上総の言葉を疑った。


「そのままの意味だ。今すぐに撤退しろ。いつ二次爆発が起こるかわからない」


 上総は表情ひとつ変えずに命令を下す。


「まだ、部下が中にいるんですよ。すぐにでも助け出さないといけないんです。撤退なんて、冗談ですよね」


 焦る陽を横目に上総は入口へ引き返す。思わず陽は手を伸ばし、上総の肩をとった。


「ちょっと……。部下を見殺しにするんですか」


 その言葉に上総は足を止め、顔だけをこちらへ向けた。その目は酷く冷徹なものだった。


「部下は他にもたくさんいる。この状況を踏まえれば、どうすべきかお前にもわかるだろう。ここは危険だ、被害は最小限に抑えなければならない」


 陽の手に力が入る。だんだんと怒りが込み上げてくる。


「……あんた隊長だろ。だったら、自分の身を挺してでも助けに行くべきなんじゃないのか」


「言っただろう。部下は他にもたくさんいると。俺はこの先も彼らの上に立ち続けなければならない。それならば、今やるべきことは撤退だ」


 陽は言葉を失った。この人は、自分でなにを言っているのかわかっているのか。この人は、この人は……、自らの命と引き換えに仲間を見殺しにすると言ったんだ。


「柏樹一尉、命令だ。今すぐに部下たちを撤退させろ」


 その言葉に力が抜け、陽の手は上総の肩からずり落ちた。そして、両手の拳は強く握られ微かに震えていた。


「……承知、しました」


 陽は歯を食いしばり、重い足取りで上総の後を追った。

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