厭忌は憧憬へ
第一部隊が発足して五日目。
陽は朝一番で上総の部屋を訪れていた。嫌なことはさっさと終わらせたかったのだ。
ビルの五十階にあるこの部屋は、どうやら仕事部屋と居住部屋が繋がっており、まるで高級ホテルのような部屋らしい。
「はあ……、いい待遇ですね」
少し躊躇しつつ、部屋の扉をノックする。
「はい」
「あの、柏樹です。今お時間よろしいでしょうか」
少し間が空いて、どうぞと声が掛かった。
扉を開けると、広い部屋の奥の机に上総は腰掛けていた。だがその姿は、いくつも積み上げられたファイルに何十枚と重ねられている書類、そしてまだ封の切られていない郵便物によってほぼ隠されていた。
しばらくキーボードを叩く音が響いていたが、それが止む気配はない。
「そこ座って」
上総は椅子に座ったまま、部屋の中央にあるソファを指差す。
「それで、なに」
ソファに腰掛けた陽の方を見ることもなく、上総はキーボードを打ち続ける。
「えと、部屋のことでご相談がありまして。今、第三大隊の依田二尉と同室なんですが、今回自分が異動となったので部屋を替わるのではないかと思いまして。出来たらその、この先も同じ部屋でいることって可能でしょうか……」
とりあえず上総の方を向いて問い掛けてみた。だが、上総は一向にこちらを向こうとしない。
「部屋……?ああ、別に好きにしていいけど」
「え。ああ、ありがとうございます」
あまりにもあっさり認めてもらい、少し拍子抜けしてしまった。やはり、部下には興味ないんだな……。
さっさとこの場から去ろうと立ち上がったが、上総の机上の書類にどうしても目が行ってしまう。
「都築……さん」
気になるとつい声を掛けてしまうところは、やっぱり悪い癖だと思う。最も関わりたくない人間にさえ声を掛けてしまったではないか。
すると、今まで絶えず鳴り響いていたキーボードを叩く音が急に止まった。
「……なに」
書類に隠れながらも、上総がこちらに顔を向けているのがかろうじて見える。
「これ……、いつもこんなに仕事あるんですか?」
「ああ、そうだな。事務処理はだいたい毎日これくらい」
「え、毎日って。これ全部今日中ってことですか?他にもしなきゃいけないことたくさんありますよね。終わるんですか?」
あまりの驚きに、思わず上総の机に近付き覗き込んでいた。先ほどより、ちゃんと上総の顔を確認出来る。そういえば、真正面からきちんと顔を見たのは今が初めてだった。
「別に、仕事量は以前と変わらないし。終わるまでやっていればいいだけだから。そんなにたいしたことじゃない」
上総はやはり表情ひとつ変えず問いかけに答える。陽はそんな上総の顔を見て言葉を失った。
あまりにも疲れきっている。肌が荒れているとかそういった類ではない。目は虚ろで顔色も悪い。
「……あの、体調は大丈夫ですか?何時まで残業されてるんです」
「体調……、特にいつもと変わらないけど。最近は四時頃には寝れているし、普段通りだな」
陽は言葉を返すことができなかった。この人は働きすぎだ。そのせいでいつもいつもあんな表情になってしまっているんだ。
「私でよければ、なにか手伝いましょうか」
「……いや、いい。柏樹一尉は自分の仕事をやってくれ。それと、たまに部下の様子も見てくれれば助かる。俺のことはいいから」
そして上総は再びキーボードを打ち始めた。だが、陽もそんな簡単には引き下がらない。
「いえ、気になりますよ。都築さん相当お疲れじゃないですか。仕事しすぎです。助け合ってやっていきましょうよ」
すると再びキーボードを打つ手が止まる。上総の表情が一瞬変化したように見えた。
「……」
「都築さん……?」
上総はモニターから視線を外し、しばらくキーボードの方へ目をやっていた。
「本当に、平気だから」
陽は納得いかない様子だったが、これ以上は無駄だと判断し部屋を後にした。
***
「全体、休め!気を付け!捧げ銃!」
本部ビルと病棟を合わせたほどの広大なグラウンドで第一部隊は訓練を行っていた。基本教練の中の執銃時の動作だ。
指揮をとるのはもちろん隊長。これが想像以上にスパルタ教官だった……。
「そこ、タイミングが合っていない。第一分隊、外周十周」
「はっ!」
「銃の高さが違う。第三分隊、腕立て五十」
「はっ!」
先ほどから、自分たちは何度ペナルティを課せられているだろう。
この第一部隊の隊員は、他の隊員たちと比べれば断然実力は上だ。素人目から見ればこの程度のズレなどまったく気が付かない。……というか、自分たちでさえどこが駄目なのか理解出来ていないところもあるが。
軍帽に真っ黒い戦闘服、そして小銃を手に仁王立ちでこちらを睨んでいる上総は、それはそれは怖れの対象だった。
ただの行進でさえ、彼の目線が気になって仕方がない。そしてそればかりに気を取られると、ほんのコンマ数秒のズレが上総の目に留まり、またしてもペナルティだ。
「五分休憩」
二時間ぶっ通しで基礎訓練を行い、やっとのことで休憩をもらうことが出来た。二十代の男たちが皆息を切らせている。
「はあ、やっぱきついな」
「ああ。この先、ついて行けるかな」
それぞれ地面に直接腰を下ろし、浴びるように水を飲んでいる。ここで、誰もが感じる疑問を口にした男がいた。柏樹陽だ。
「ここまできつい分、あの隊長さんはさぞ完璧なんだろうな。そうじゃなきゃ、あそこまで言えないよなあ」
陽は少しばかり皮肉めいた表情を浮かべて、壁に寄りかかって立っている上総へ視線を送る。隊員たちもつられて視線を向けた。
「第一戦術部では指揮官だったんだろ。それなら、訓練している姿は同じ隊だった奴もあまり見たことないよな。これはますます気になるな」
陽の不気味な笑みを目に、第一分隊隊長の相馬がつい声を掛ける。
「あの、柏樹一尉。さすがに今お考えになっていることはどうかと……」
しかし、そんな心配もよそに陽はすでに立ち上がり、上総の方へ向かって行ってしまった。
「ああ、もう駄目だ。ペナルティだけで今日が終わる……」
隊員たちは皆頭を抱えて絶望に打ちひしがれた。
「あの、都築さん。一度見本を見せていただきたいのですが」
上総より少し背が高い陽は、首を鳴らしている上総のことを堂々とした態度で見下ろす。
「……ん。なにか言った」
右に首を傾けた状態で、上総は上目遣いに陽を見上げた。
「執銃時の動作の見本を見せていただけないかと」
「……見本、そんなの必要か?なんのために」
上総は引き続き首を回しながら、時折歪んだ表情を浮かべる。
「結構タイミングとか合っていないようなので、このままだといつまで経っても前へ進めないといいますか、その……、自分たちも完璧にしたいので」
頭に思い浮かぶ教科書通りの言い訳をなんとか繋いで言葉にする。後ろの方では部下たちが心配そうな目でこちらを伺っていた。
「……そう、まあいいけど」
「え、いいんですか。ああ、すみません」
休憩が終わり、まず第一小隊と上総で執銃時の動作を行うこととなった。隊員たちと一緒に行うのは、自分たちがどれほどずれているのかを知るためだ。
陽の前に上総が立つ。後ろ姿からでも感じられる威圧感。
「では、始めます。立て銃!」
第二小隊隊長が声を張り上げた。それに合わせ、第一小隊は瞬時に右脇に銃を立てる。タイミングは合っていたと思う。第一小隊の誰もがそう感じていた。
だが、目の前の上総をずっと目にしていた陽は違った。自分たちはまるで出来ていない。全然遅い。
号令がかかったと同時に、上総は一切無駄のない動きで後ろの第一小隊の誰よりも速く銃を立てた。それは誰もが目を見張る動きだった。
「下げ銃!担え銃!」
その後も次々と動作は続く。しかしその全てにおいて、上総の動きは速く正確なものだった。
「じゃあ次、第二小隊」
たった今正面から自分の目で上総の動きを見ていた第二小隊は、緊張して動きがぎこちない。
今初めて上総の動きを目にした第一小隊、そして改めて正面から見ている陽。彼らは上総の見本以上の動きに圧倒されていた。
「少しは参考になったか?じゃあまた、はじめから」
***
午前中いっぱいこの基礎訓練は続いた。どうして今基礎訓練なんだと疑問は残るが、完全に上級以上レベルの動きを目にして、もう文句を言う気力はなくなってしまった。
「気を付け!敬礼!なおれ!ありがとうございました!」
あまりにも疲れきった隊員たちは、よろよろと歩きながら戻って行く。それに続いて、一番後ろを陽が歩く。
入り口に差し掛かったとき、ふと後ろを振り返った。さっきまで自分たちが汗水流して訓練を行なっていたその場所に上総が立っている。陽はしばらくその様子を見つめていた。
すると、上総は倉庫の方へ向かって行ってしまった。
「いったいなにを……」
「気になりますか?柏樹一尉」
声がした方へ顔を向けると、そこには久瀬将官の姿があった。
「あれね、いつもやっているんですよ。清掃道具を取りに行ったんです」
「清掃道具?どうして」
陽は将官の方へ顔をやりながらも、横目で上総へ視線を向ける。
「このグラウンドは砂や石がないので、一見なにも汚れてはいないように見えますが、磨くと結構な汚れがついているんです。そのままだと、次の訓練に少なからず影響が出るかもしれない。だから彼はいつもああやって、訓練後はひとりで清掃をしているんです」
陽は言葉が出なかった。都築上総という人間を誤解していた。あんな量の仕事をすべてひとりで請け負って、部下の安全まできちんと考えている。
「都築はね、ここにいる誰よりも部下のことを考えているよ。自分がどう思われようとも、そんなことは関係ないんです。ただ、部下たちに立派になってもらいたい、その一心なんですよ」
そして将官は中へ入って行った。だが、陽はその場から動くことはなかった。
上総は、清掃道具を手に戻って来る。
「都築さん……」
やっと一歩を踏み出した。
「手伝います」
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