黒幕
演習終了まで、残り十五分。
現在の生存者は特務室二名、戦術部一名。このまま終われば特務室の勝利はほぼ確実だが、あろうことか逢坂の前に陽が姿を現した。
「……なに、まだやるの?」
生い茂る雑林。樹々の間から僅かに差し込む陽射し。普段の日常とは百八十度違った世界。軍服を纏い銃を手に、ただひたすらに人間を撃ち殺す。普段ならあり得ないその非現実が、時には心の奥に潜む傷みや苦痛を忘れさせてくれさえする。
「それ以上近付くと、バラバラになっちゃうよ」
その言葉に、陽は足下へ視線を落とす。逢坂は、まさに陽の足先に地雷を仕掛けていた。
「逢坂。お前は、呑み込まれたまま這い上がってこられない状態なんだな」
陽の話には耳を傾けず、逢坂は気怠そうに腰を下ろし木に寄りかかっている。
「いや、違うな。自らその場に留まっている。どうして這い上がってこない」
「……その必要がないから。戻る意味がない。戻ったところで、どうせまた堕ちていくんだから」
逢坂の目線の先には、棄てられた二丁の銃。その傍らの木には無数の弾痕。しばし沈黙が続いたが、陽は地雷を跨いで逢坂の側に立った。
「お前、なにかあったか。ここ最近なんか調子悪そうだし。それに、その眼。ちゃんとコンタクトつけてるか?あと、左腕。首元も?ちょっと痛めてるだろ」
……驚いた。誰一人として気が付く者はいなかったのに。まさか、柏樹が気付くとは。
「さっきは、わざと外したんじゃないな。お前なら、上総の射程に入る前に必ず俺に当ててくる。それに、上総に見つかる前に引き返すはずだ。お前、距離感が掴めてないだろ」
逢坂は大きな溜め息をついた。なにをどう返そう。なにから話そう。そもそも、柏樹陽は最も関わりたくない相手だ。
「……コンタクトはつけてるよ、片方だけね。もう片方は落としたんだ。さっき外れて、そのまま失くした。予備も忘れてきた」
「なんだよそれ、嘘が下手にも程があるぞ。それと、もうひとつ聞く。今まで、俺のことをわざと避けていた。俺と、関わりを持たないようにしていた。違うか?」
これだから勘の鋭い奴は。柏樹も楓も。せっかく遠ざけたのに、どうしてわざわざ近付いて来たりなんかするんだ。
「ああ、そうだよ。柏樹には近付かないようにしていた。それと、俺の右眼はほぼ視えていない。空砲を撃たれたんだ。今まではなんとか強制的に視えるようにしていたけど、二、三ヶ月前から視えなくなった。もう矯正は不可能。視界は磨りガラス状態で、操縦も出来ない。片方がね真っ白だと、両眼開けていてもほとんどなにも視えないんだ」
「は……?嘘だろ。それにお前、操縦も無理って。航空部隊は……?え、腕は……」
想像していたよりも遙かに酷い現実。いつからだよ。逢坂は、いつからこんなに苦しんでいた?
「左腕と首は、切られて神経が傷付いてる。日常生活にはあまり支障はないけど、リハビリしてやっと今の状態。正直、筋力も握力も右に比べて半分以下だ」
「そんな、それ大怪我だろ。いや怪我っていうか、障害が残ってるじゃないか。だいたい、この事誰も知らないよな。任務で負ったわけじゃないってことか?それじゃあ、その傷は誰が治して……」
落ち着いて一度ちゃんと考えたいけれど、あまりの衝撃がそれを許さない。なんで?どうして?いつから?あの時は怪我を負った後だったのか?あの時はすでに視えていなかったのか?過去の記憶が止めどなく溢れ出る。なんで気付かなかった。俺は、一体なにを見ていた?
「都築一佐」
その名前に、一瞬陽の呼吸は止まる。知っていた。上総ははじめから、全てを。
「この眼も腕も首も、周りに知られないように都築一佐が治してくれた。それまでも、俺が怪我を負って帰って来る度に。……都築一佐はね、俺が怪我を負って帰って来るってわかってるんだ。なぜだと思う?橋本将官が、俺たちの間にいるからだよ」
「橋本将官……。上総は、あれ?え……、お前」
「知っているんだろ?都築一佐が裏切るって」
その言葉に、陽は息を呑んだ。それは決して口に出してはならないこと。それを、どうして逢坂が……。
「都築一佐は、本部や部下たちのためにすべてを棄てたのに、俺や嗣永のことまでなんとか助けようとしてくれた」
「嗣永?あいつも関係してるのか?」
「……俺たちなんだよ。柏樹たちがずっと捜していた相手は。君たち調査機関の対象、国家の反逆者」
陽は大きく眼を見開いた。今、なんて言った?頭が追いつかない。そのあまりの衝撃に言葉が出てこない。
「嗣永は薬の横流し、俺は政府との橋渡し役。気が付かなかった?仕方ないか、諜報部も関わっていたんだから」
「まさか、お前らが……」
なるほど、そういうことか。橋本は、自分に捜査の目が向き始めていることに気が付き、パイプ役を逢坂に押し付けた。橋本を調査しても一向に進展しないわけだ。
「都築一佐と、諜報部の有坂、柊による徹底した隠蔽は見事だっただろ。しかし、諜報部も面白いよね。あの二人は、すべてを知っていてこの先どうなるのかもわかっていながら、組織のことも隊員のこともそのすべてを見放していた。それでも、結果組織のためとなるんだから、本当に都築一佐には頭が上がらないね」
逢坂と嗣永が引き継いだことによって、捜査対象が変われば恩田や橋本の思うつぼ。それを防ぐために、上総は諜報部を動かし、自分や佐伯が逢坂たちにたどり着かないよう手を回していた。
「全部知っていたよ、柏樹と佐伯のこと。そしてその目的もね。ばらしたければ好きにすればいい。それとも、今ここで殺してくれても構わないよ」
依然、逢坂は立ち上がろうとしない。なにか策を練っているのか、それとも本当に降伏しているのか。
「もうちょっと、ちゃんと話をしよう。お互い、なにをどこまで知っているのか、まだよくわかっていない……」
「もうこれ以上、俺に突っ込んで来るな。柏樹となにかしら接点があると思われれば、次はどんな命令を言い渡されるかわからない。柏樹を殺せと命じられれば、俺は殺す」
逢坂は、わざと周りとの距離を遠ざけていたのだろう。自分と関わりを持ったと知れたら、その存在を消されてしまうかもしれないから。
「お前……」
失意に襲われながらも、まだほんの僅かでも届くのではないかと陽は微かな望みを信じていた。
「ここに来る前に、この辺りのカメラを遠隔操作しておいた。俺たちが話しているところなんて誰も見ない。だから教えてくれよ。どうしてお前と嗣永はそんなことを続けてんだよ。なにか弱みでも握られてるのか?」
逢坂は、大きな溜息をついて首を横に振った。
「じゃあなんでだよ。犯罪だぞ、それも相当な重罪。捕まったからといって、お前らただじゃ済まないぞ」
「だから言ったじゃないか、俺は最低な人間だって。犯罪だからとかこれから先自分がどうなるかとか、そんなことはいちいち考えてないんだよ。一度でも足を止めて自分の行いを受け入れてしまったら、もうどうなるかわからない……」
目を閉じて歯を食いしばる。後悔、苛立ち、非力。そのすべてが逢坂を支配していた。
「はあ……。だいたい、なんで柏樹はここに来たんだよ。もう、一人にしてくれないかな」
その言葉に、陽はなにかに気が付いたように勢いよく後ろを振り返った。
「お前、まさかこれ……」
印も付けず雑に埋められた地雷。これは、明らかに誰かに踏ませるためのものではない。
「それは、二人を倒すために仕掛けたに決まってるじゃない。……それでも、柏樹が来なかったら、もしかしたら自分で踏んでしまっていたかも」
そう力無く話す逢坂は、まるで早く楽になってしまいたいと願っているようだった。
「……橋本将官に声を掛けられたときは、正直終わったと思った。一層のこと、その場で殺して欲しかった。でも、俺が死んでも次は楓の番になる。だから、友を売るくらいなら完璧にやってやろうって決めた。嗣永のことは、研究員じゃない俺にはさすがにどうしようも出来なかった。だから、嗣永のことは忘れて欲しい。すべて俺一人がしたことだと、上には伝えてくれないか」
陽は、目を伏せてしばらく押し黙っていた。どんな理由であろうと、逢坂たちの行いは国家レベルの大罪。ただ、気持ちはよくわかる。大事な人が犠牲になるくらいならば、自分がすべてを引き受けよう。おそらく、自分も同じ選択をするから。
「……今日、俺はなにも見なかったしなにも聞かなかった。だから、もう手を退け。これ以上お前らの罪が重くならないよう、俺がなんとか手を回してみるから」
予想もしなかった陽の言葉に驚きながらも、逢坂は怪訝な表情を浮かべた。
「なに考えてるの、馬鹿じゃないの?張本人が目の前にいるっていうのに、いったいなんのためにこの数年間潜伏してたんだよ」
知ってるさ、柏樹はこういう人間だ。あまりに情に厚すぎて、あまりに傷つきやすい。
「……それは、わかってる」
今拘束しなければ、逢坂たちを取り逃がすことになるかもしれない。逆に、こちらが窮地に陥る可能性だってある。ただ、逢坂が身を退いたところで二人の命は確実に失われる。そして、それを執行するのは上総だ。
それでも、これ以上罪を重ねて欲しくはない。なんとしても命だけは護ってみせる。なにかあるはずだ。彼らが窮地を脱するなにかが……。
逢坂はゆっくりと重い腰を上げた。足元はおぼつかず、よく見るとその顔は青白く目は虚ろだった。
「……お前、そんなになってまで橋本の下に居続けたのかよ」
「俺だけじゃないさ。皆、もう限界を超してる。嗣永は、裏取り引きのリスクを負いながら都築一佐と共に人体実験。都築一佐は、それに加えて外で暗躍だろ。まだ正式に、恩田司令官や橋本将官の下についたわけでもなかったのに」
話し方も拙く、逢坂はふらつきながら木に寄り掛かった。たった今こんな状態になったわけではないだろうに、よくもここまで隠し通していた。
「ああ見えて、嗣永は結構影響を受けやすいんだ。死刑囚の金切り声、腐っていく身体。今にも気が狂いそうなのに、それでもメスや注射器を手にしなければならない。時には、精神がおかしくなって使い物にならなくなった仲間を実験体にすることもあった。この凄惨な環境下で、すべては恩田司令官の金のためだけに彼らはたくさんの涙を流した。皆、心は傷だらけだ。……嗣永はね、人前では強がって平静を保っているけど、実は毎日のように泣いているよ」
陽は強く目蓋を閉じた。そこまで過酷で凄惨な実験だったなんて。仲間を手に掛けるとき、いったいなにを思ったのだろう。
「なんか、なにも出てこない。あまりにも壮絶すぎて想像が出来ない。逢坂、お前もそうだったんだろ。政府とのパイプ業務だなんて、最も命に関わることだぞ」
「……」
朧げな表情で、逢坂はしばらく黙り込んだ。思い出すだけで古傷が疼く。地獄へと繋がる扉に手を掛けたときの計り知れない脅威。一歩踏み入れれば、無事に帰還することなど決して叶わない絶望の部屋。
「……これまで、本当によくやってきたなって自分に感心するよ。半年くらい前から怪我とは言えない状態が増えてきて、海外出張と偽っては病棟に入院したりと隠すのに必死だった。ただ、なんだろう。毎回あの部屋を出た後の喪失感っていうのかな。知らないうちに、少しずつ生きる気力が失われていたみたい」
真夜中の本部で、憔悴しきった逢坂を幾度か見掛けたことがあった。襟元や袖の裾から包帯が覗いていたり、一ヶ月ほど眼帯をしていたこともあった。そうだ、何度か急に姿を見せなくなったこともあったではないか。
「でも、政府の奴らはどうしてそんな事を。お前を怪我させたら、自分たちのことが公になる危険性だってあるだろ」
「俺が情報を渡さないから。正確には、渡す情報がない。司令官たちも、所詮は利用されていたに過ぎないからね。それでも行けって言うんだ、仕方ないだろ」
「俺が、なんとかしてみるから。だから手を引けないか?ほんの少しでも可能性はないのかよ」
逢坂は悲痛な表情を浮かべたが、それでも頷くことはなかった。
「……それが無理なら、俺を撃て」
そう言うと、陽は自分の拳銃を逢坂に手渡した。
「ここで俺を撃ったなら、俺たちは完全にお前らを対象とみなす。もう引き返せない」
演習終了まで残り三十秒。逢坂は、手にした拳銃を迷うことなく陽の眉間目掛けて構えた。
「今日、ここで俺を拘束しなかったことを後悔するだろう。俺も嗣永も、情報は決して渡さない」
「そうか……」
群馬支部全体に、演習終了を告げるサイレンが鳴り響く。都築上総、逢坂聖が生き残り、得点差で特務室の勝利となった。
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