自分の心がわからない

「……ご気分はいかがですか?」


 まだはっきりとしない頭、ぼやける視界。自分に話し掛けているのは誰なのか、ここはどこで自分はなにをしているのか。


「思い出されました?」


 ベッドの横に腰掛けている有坂が笑い掛ける。


「ああ……」


 そうか、そうだった。結局、自分は周りに迷惑を掛けることしかしない。いい加減自分に呆れ果てる。それならもう、一層のこと……。


「皆、一佐が無事に目を覚ましてくれることだけを望んでおります。迷惑どころか、一佐にばかりご負担をお掛けしてしまったことを悔いております。どうか、悪いことは考えないでくださいね」


 有坂は、全てお見通しだという顔で上総を見下ろしていた。


「どのくらい寝ていた」


「丸二日です。勝手ながら、相馬一尉と和泉一尉にはお話しさせていただきました」


「……そう」


 上総は視線を有坂から天井に移した。相馬と和泉は人一倍心配性なため、おそらく業務に身が入っていないだろう。


「……鬱なんだって、俺」


「鬱、ですか。簡単に言ってしまえば、鬱病は脳の病気ですよね。一佐は治療法をご存知なのでは」


「まあ、知識はあるけどね。でも直接手を加える方が専門だからなあ」


「一応お聞きしますけど、なぜこのようなことを」


 一度目を閉じて考えてみた。なぜかと聞かれると、心身共に限界だったからという応えになるのだが、それでは答えになっていない。


「自身を傷付けることで、無意識に精神的な痛みを身体的な痛みにすり替えることはあるみたいだけど。……理由が欲しかったのかもしれない。この腕が駄目になることで、それが理由でなにもかも許される。もう、これ以上上へは行けそうにないんだ。皆の期待に応える自信がない。ただ、俺は逃げただけだ」


 それを聞いて、有坂は一度大きな溜息をついた。


「いったいどこまで上へ行かれるおつもりなんですか?今の一佐は、皆の期待以上に充分な働きをされていますよ。技術向上のためには留まっているわけにはいかないのでしょうけれども、一佐ご自身としてはもう少しこのままゆっくりとされるのも宜しいかと」


 すると、病室の前方の扉が開いた。


「そうですよ。今の都築一佐にさえ、我々は追いつくどころか後ろ姿さえ見えていない状態なんです。それなのにこれ以上先へ行かれてしまいますと、もう我々は姿も追えなくなってしまいます。少し立ち止まっていただいて、追いつこうと必死に足掻いている部下たちを待っていてはくれませんか」


 そこには、戦術部戦術課第三部隊隊長の嗣永透吾つぐながとうご三佐の姿があった。彼もまた、上総と同様に病理学研究室を兼務している。


「嗣永三佐、お疲れさまです」


「お疲れ有坂。都築一佐、薬理の仕事が溜まっております。我々病理の業務が一向に進みません。それに、三日後にはワシントンへ向かわれるんですよね。それでしたら、尚更早急に復帰していただかないと」


 白衣姿の嗣永は、何事もなかったかのように仕事の催促をし始める。


「……相変わらず、お前ははっきりしていていいな。試薬の方は大方完成して、あとは部下に任せてある。癌細胞の方はもう少しだから、明日中には終わらせるよ」


「承知しました。では後ほど」


 この嗣永のさっぱりした性格を上総は気に入っている。少しでも実験が長引いたりすると必ず催促に現れ、なにがあろうと仕事第一。


「あえて言葉にせず、普段通りの自分であり続けることは割と神経使いますよね。私も嗣永三佐の性格は好きです。まあ、本当は仕事なんてそっちのけで、一佐のお姿を目にされたときは、誰よりも青い顔をして立ち尽くしておられたようですが」


「嗣永は真面目なんだ。……さあ、そろそろ俺も仕事しないと」


 有坂は、ベッドから起き上がり身支度を始めようとする上総に唐突に問いかけた。


「一佐は、すぐにでも死にたいのですか?」


 その言葉に上総の動きが止まる。有坂は割と普段から物怖じせず発言する方だが、ここまではっきりと物言うのはめずらしい。


「……死にたいというか、存在自体なかったことにしたい。俺を見ていればわかるだろ。仕事が早く終わらないのも部下のことをちゃんと見てやれないのも、すべて俺が成長しないからだ。いつからか自分は必要ないんじゃないかって思えてきて、そうしたら逆に心が軽くなったような気がした」


 窓の外に広がる漆黒の海を見つめ、大きな溜め息をついた。どうしてこんなにもつまらない人間なのだろう。周りの隊員と接すれば接するほどに、いかに自分が取り残されているか実感する。


「……それは、良い意味で軽くなったわけではありませんよね。解放、諦め、そして喪失ではないですか」


「なにをどう足掻いても、最後まで答えは見つからなかった。俺が進もうと止まろうと、どっちにしろ周りにはなにも影響しない。だったら俺自身も疲れるし、もうこれで終わろうって思えて。死ぬっていうよりも、使えないこの腕を壊してやりたかった」


 包帯が巻かれている右腕を睨みつける。知識や経験を得ても、自分にはどうしようも出来ないこともある。上総はそれに気付かない振りをして、自分はもっとやれるはずだと先へ進み続けていた。


「ですが、その腕がだめになれば救えるものも救えなくなります」


「だけど、陽は結局再発したし美月だっていつまでたっても平行線だ。どうしたって、俺は誰も救えない……」


 ただひたすらに走り続けて、もう無理だ、少し止まろうと叫び続ける自分自身に耳を傾けなかった。一度でも足を止めてしまえば、きっとそこから先へ進むことはなかっただろう。上総は、自分が諦めることでなにかを失ってしまうのが怖かった。


「それは、二佐が治療を拒否しておられるせいですし、三佐の場合は副作用のことを考えての治療だからじゃないですか。荒療治を行えばどうなるのか、一佐ご自身でよく理解されているから……」


 有坂は、上総の想いについてはよくわかっている。ゆっくりと瞼を閉じ、深く静かに息を吐く。


「もしも、私が今殺して差し上げると申したら、どうなさいますか」


 上総は、なんの感情もないまま話す有坂を横目で見据えた。本気ではないだろうが、冗談でもないのだろう。


「……頼めば、殺してくれるか?」


「そうですね……」


 その返答に軽く笑みを浮かべ、有坂は立ち上がった。


「三佐が殺せと命じれば」


 そう言って、上総の助手を呼びに奥の部屋へ向かった。


***


 二日前。


 陽は病棟内の研究所へ向かっていた。任務のことで急ぎの用があるのだが、上総にメールを送っても返事がなく電話にも出ない。相変わらず忙しいのだろうが、それでも以前は連絡だけは取れていた。


「なんだ……?」


 エレベーターを降りた途端、上総のいる研究室のフロアが慌ただしいことに気付く。こんな時間なのに何人もの医者や研究員が青い顔をして走り回っていた。

 しばらくして、落ち着きを取り戻した廊下を進み上総の研究室へ向かう。


「とりあえず輸血は必要なさそうだけど、血圧がどんどん下がってるぞ」


「おい、酸素マスクまだか」


「念のためDC用意しとけ」


 その途中、処置室から聴こえてきた会話に陽は足を止めた。


「……DC?なにかあったのか」


 急患だろうか。それならば、上総は今この部屋の中で、なにかしらの処置や治療にあたっているのだろう。患者は心配だが、今はとても手が離せる状態ではないのだろうと引き返したそのとき、まさかの一言に息を呑んだ。


「都築先生、聞こえますか!?今止血していますから、どうかお気を確かに」


「まずい、焦点が合ってない……」


 都築先生って……、止血って……。どういうことだ、中にいる患者は上総なのか。そして、今にもDCを使わなければならないほどに重症なのか。

 踵を返し再び扉の前へ戻る。そして、医師らの会話から、上総が今現在どのような状況に陥っているのかを知ってしまった。


 そこからはあまり覚えていない。気が付くと、本部のテラスに腰掛けていた。誰もいない真夜中のテラスは、月明かりに照らされ静寂を保っていた。いったいどのくらいの時間をここで過ごしていたのだろう。


「……ねえ、こんなところでなにしてるの?」


 ふと、背後から聞き覚えのある声が耳に届く。ソファに寄り掛かり上の空だった陽は、重い身体を起こしながら振り向いた。


「寝てたの?これ、柏樹に渡してくれって乃村一佐から頼まれたんだけど。部屋にもいないし電話も出ないし、どれだけ捜したと思ってるのさ」


 そこには、書類片手に腕を組み、憎悪の感情剥き出しで立っている男の姿があった。


「……逢坂」


 陽の表情を一瞬で曇らせたのは、戦術部戦術課第二部隊の隊長である逢坂聖おうさかせい。階級は陽と同じ二佐。

 歳は逢坂の方がひとつ上で、戦術も陽より長けている。体術は陽の方が上だが全体的にはほぼ互角だ。そして、この二人はとてつもなく仲が悪い。


「聞いてるの?」


 逢坂は、一見人当たりが良く話し方も柔らかいため、組織内では優しくおおらかな隊長という印象が強い。だが、人前ではあまり笑顔を見せなかった。

 逢坂には、技術部の桐生楓きりゅうかえでという仲の良い友人がおり、彼の前ではたまに笑顔を見せるらしい。

 だが、陽とだけは犬猿の仲で、お互いにただ気に入らないからという理由で顔を合わせる度に火花を散らす。逢坂は、特に陽の前では醜悪な人格に変わる。


「相変わらずだな。疲れるだろ、俺に悪態つくのも」


「ああ疲れるよ、でも仕方ないだろ。柏樹の顔を見たら、裏の顔が出てきちゃうんだから」


「……うざ」


「それより、なにかあったの?いつもの柏樹らしくないけど」


 逢坂は、陽の向かいの椅子に腰掛け脚を組む。陽は少し驚いていた。逢坂が自分のことを気に掛けてくれただと?今までそんなことがあっただろうか。

 しばし黙っていたが、陽は重い口を開いた。今のこのなんとも言い難い思いを、とにかく誰かに話したかった。


「上総が……。手首を切ったんだって、自分で」


「都築一佐が……?」


 思い掛けない内容に、思わず逢坂は目を見開いた。


「命に別状はないみたいだけど、意識が全然戻らないみたいで」


「……」


「上総、そこまで追い詰められてたってことだよな。俺、なんにもわかってやれてなかった。もし、上総が死んだらって考えただけで……」


 目線はおぼつかず茫然自失していたが、陽は頭を抱えて俯いた。こんなに弱り切っている姿は、これまで目にしたことはない。


「……もし、自殺しようとしていたのなら、刃物じゃなく拳銃を使うだろ。事故かもしれないし、そうじゃないとしても、柏樹が責任を感じることはないでしょ」


「そうだけど」


「柏樹がそんなに落ち込んでいたって、都築一佐が良くなるわけじゃない。それより、今は仕事だ」


 そう言って、逢坂は手にしていた書類をテーブルに放り投げた。


「お前……。死ぬつもりだったのかもしれないんだぞ!お前にあいつの気持ちがわかるかよ!俺は、ずっと側で見てきたんだ。どれだけあいつ自身が参ってたかなんて全部知ってたんだよ!……それでも、俺はなにも出来なかったんだ」


 憂慮に堪えられず、陽は思わず声を荒げた。逢坂はなにも関係ないのに、積もり積もった鬱憤が爆発してしまった。


「……ああ、確かに俺は特務室でもないし直属の部下でもない。だけど、柏樹たちはどんなときでも都築一佐を護ることを第一にしてきたんだろ?任務のときも、都築一佐に傷一つ負わせることがないよう遂行してきたんじゃないか。特務室の一番の存在意義は、敵の殲滅なんかじゃない。都築一佐の命だ」


 逢坂の言う通りだった。確かに、上総の存在はとてつもなく大きい。彼が動けなくなれば、任務はおろか薬の開発も止まり、組織自体の機能を失うことになる。

 それにこじつけて、自分たちは上総を護るどころか、組織のために働いてくださいと言わんばかりに、なにもかもを押し付けてしまっていたのかもしれない。

 だが、護りたいのは本心だ。上総には常に上にいてもらいたい。そして、上総のために動くことが自分たちの誇りでもあった。


「俺たちでさえ、一般的に見たら仕事量はかなり多い方だ。だけど、都築一佐はさらにその何倍もの量を毎日こなしている。どれほどの疲労やストレスが溜まっているかなんて想像もつかない。でも、仕事に関しては都築一佐自身はそれほど苦ではなかったと思う。寧ろ、満足いく結果を出し切れない自分に腹が立って失望して、それでも前を向き続けて自分の意識を保てなくなったんだ」


 ふと、陽は顔を上げた。逢坂の言葉に妙に納得した。自分はずっと近くにいながらまるで理解出来ていないのに、逢坂は上総のことについてよく理解している。そんな陽の感情を読み取ったのか、逢坂は少し考えて口を開いた。


「……俺さ、高校から大学までボストンに住んでたんだよね」


「ボストンって確か……」


「俺は医学部じゃないけど、日本人の留学生はそこまで多くないから。都築一佐とは、実は学生の頃からの友人でもあるんだ。都築一佐は昔から変わらないよ。楽をしつつ完璧主義で、人と関わるのは苦手だけど自然と周りに集まって来る。そして、自覚がないまま追い詰められながらも、それでも凄いスピードで上へ昇って行くんだ。だから、たまに肩を叩いてあげないといけない。少し休もうって教えてあげるんだ」


 わかってはいたけど出来なかったこと。なにもかもに蓋をして突き進むことで、すべてを無にしようとしている上総を止めることなんて出来なかった。

 そうすれば、せっかく押し込んで忘れようとしていた感情が再び表に出てきてしまうかもしれない。だから肩を叩けなかった。


「間違ってたんだ、今まで全部。上総のことを考えていたつもりだったけど、逆に追い詰めてしまった」


「でもね、柏樹。都築一佐はきっと、自分を気に掛けてくれている柏樹のことに気が付いているよ。だからやっていけるんじゃないか。いざとなったら柏樹がいる。都築一佐にとって、これほどに頼もしい存在はいないんだよ。そこは自信持ちなよ、一番の理解者なんだから」


 目頭が熱くなるのを必死で堪えつつも、陽は心の中で逢坂に感謝していた。普段のように言い返してくる事もなく、冷静に話を聞いてくれた。


「……お前、実は優しいんだな」


「これも作った人格だ。本当の俺は、誰よりも最低な人間だよ」


 力のない笑みを浮かべ、逢坂はこの場を後にした。テーブルの上には、書類と共に缶コーヒーが置かれていた。

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