懊悩と救いの境い目

生きているのか、死んでいるのか

 時刻は深夜二時過ぎ。

 徹夜も三日目となり、気を抜くとさすがに頭がふらついてくる。疲れからなのか気持ちから来るものなのか、なにかを考えようとしても思考が働かない。

 最近は、特務室の仕事よりも研究所にいる時間の方が長くなっていた。陽や美月どころか、相馬や和泉とも顔を合わせない日すらある。


 ISA病理研究所では、製薬会社が薬を開発する際に研究や実験で使用する薬品の研究開発を行っている。

 薬科学研究開発室兼務の上総はその薬品の開発業務、そして開発した薬品の病理検査を病理学研究室が行っている。


 先週、新薬の開発依頼を受けているオランダから帰国したばかりなのに、五日後には別の件で共同開発を行っているワシントンへ出張予定だった。

 それに加えて、特務室での訓練や任務、会議に大量の事務作業、そして医師業務や論文などと、次から次へと発生する仕事にひと息つく暇もない。


 研究所での仕事の際には煙草は吸わないため、普段なら息抜きにコーヒーでも飲むか仮眠でもとりたいところだが今日は違った。上総の意識は、目の前の机に吸い込まれていた。


「はあ……」


 激しい目眩に襲われながらも、なんとか一段落し大きな溜め息をついた。それは、決意の溜め息だった。

 おぼつかない手で、目の前のトレーに載っているメスに手を伸ばす。よく手入れされた刃には、周りに誰もいないひっそりとした研究室を照らす天井からの淡い光と、焦点の合っていない虚ろな表情の自分が映っていた。


「……」


 これまで幾度となく手術で使用してきたが、これからメスで割くのは患者の身体ではない。

 上総は、何のためらいもなく自分の右手首をすべらせた。すでにその刃にはなにも映っていない。酷い顔をした自分を消し去るかの如く、赤黒い血がメスを伝い腕を伝い床へ滴り落ちていく。


 痛みはない。いや、それなりに痛みは感じているが、脳がそれを偽っていた。上総の中で、肉体的な痛みよりも精神的な痛みの方が遥かに上回っていた。


 しばらくの間、滴る血液に眼を奪われていたが、次第に意識が遠のき始める。力が抜けた左手から落ちて床に叩きつけられたメスの渇いた高音に、医師や研究員らが気付く。彼らは離れた場所からこちらへ顔を覗かせた。

 そのとき彼らの目に映ったのは、白衣の右袖を赤く染めてゆっくりと椅子から前方へと倒れこむ上総の姿。


「……都築さん!」


 数人の医師らが急いで上総のもとへ駆け寄った。明らかな自傷行為、……いや、自殺未遂か。すぐに隣の処置室へ担ぎ込まれた。


「おい、これ大丈夫か……。すごい量だぞ」


「同じ部屋にいたのに、なにも気付かなかった……」


 転がる椅子は血溜まりに捕らわれ、側に落ちているメスの柄は、青ざめた医師たちの表情を冷たく映していた。


 ***


「ねえ、ハロペリドールって抗精神病剤じゃない。どういうこと?」


 突然医務室に乗り込んで来た美月に言い寄られ、上総担当の助手は冷や汗を滲ませなんとか対応していた。


「……実は、都築先生は鬱病を発症しておりまして」


「え、鬱病?いつから」


 先ほど、美月が持病の点滴治療を終えて処置室を出ようとした矢先、点滴のパックを運ぶ医師の姿が目に入った。

 少し離れた病室へ向かっていたようだったが、そのパックには上総の名前と抗精神病剤であるハロペリドールと記されていた。


「鬱病だと診断されたのはひと月ほど前で、抗精神病剤を使用した治療は先週から行っております」


 ふと、助手は視線を下に向けた。さらに良くない話があるのだと美月は覚悟を決める。


「今日未明、研究室で都築先生が手首を……」


 言葉に詰まりながら助手は病室へと案内し、掛け布団をめくって見せた。成人男性にしては細く白い腕に包帯が巻かれている。


「上総が、手首を切った……?」


「その、前々から頭を抱えてしばらく動かなかったり、頬杖をついて一点を見つめていたりと、普段なさらない行動が気にはなっていたのですが……。まさか、鬱状態に陥っていたとは誰も思わなかったんです。ここまで追い込まれていたなんて……」


 美月はそっと包帯を撫でた。どんな思いで、どれほど苦しんでこんなことを。


「申し訳ありませんでした。我々共々、都築先生の異変に気付くことが出来ず、終いにはこんな事態にまでなってしまって……」


 助手は今にも泣きそうな顔で頭を下げた。必死に涙を堪えているが、さんざん泣き腫らした目だと美月はわかっていた。


「それはこっちも同じだから。疲れているのも眠れていないのも知っていたのに、それによって最悪の事態だって起こり得るのに。そんなこと、考えもしなかった」


 特務の仕事を行なっているときの上総は、疲労は感じられたがそれでも毎日の訓練や大量の事務処理を完璧に済ませて、任務についても作戦立案や指示は毎回的確なものだった。

 誰もが、上総に任せておけばなんとかなると無意識に期待をかけてしまっていた。


「都築先生はずっと悩まれていたようでした。なにも出来ない自分に嫌気が差して、いくら足掻いても前に進めないことが悔しくて……。本当に自分は役立たずだと、腹が立つと嘆いておられました。それを知ったきっかけというのが、今回の鬱病の治療なんです。浅い睡眠状態のなか、都築先生が話して下さいまして。……ただ、”自分はどうしたらいいと思うか”という問い掛けには、私はなにも応えることが出来ませんでした」


 それを聞いて、美月は激しく後悔した。自分はいつだって話を聞いてやれたじゃないか。なにか声を掛けてあげられたじゃないか。どうしてなにもしなかった。どんな人間だって、なにかしらの苦しみを抱えているのに。


「どなたかは存じ上げないのですが、以前お知り合いの方の大手術を執刀なさったことがあるそうです。手術は完璧でそのときは無事に済んだそうなのですが、予後不良により再発しその後の治療もなかなか上手くいかなかったようでして……」


 上総が手術を行うのはISAの人間だけ。誰のことだろう。


「最近もその、桐谷三佐のご病気を改善させることが出来ず、それどころが医師であるのに自身のことすら管理出来ていないと、怒りと失望を感じておられました」


「そんな。上総が悪いわけじゃないのに、私の身体がいけないのに。それに、体調管理が出来ないのは私たちのせい。上総は仕事をし過ぎているし、疲労も限界のはず」


 とりあえずは命に別状はないが、未だ意識が戻る気配はない。その青白い顔は、死んでいるのだと言われても疑わないほどに生気が感じられなかった。

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