少しずつ、少しずつ
午後九時、和泉は屋上へ向かっていた。たまに景色を観に行くことはあるが、今はなんだか無性に解放されたかった。
扉を開けると、風はないがしんしんと冷える空気が顔を抜け一瞬で頭が冴える。解放されたいがために向かった屋上だが、まだ考えることをやめるなとでも言われたようだった。
港湾が見渡せる方角へ向かう。反対側の煌めく街の灯りとは違い、夜空の星と漆黒の海に揺らめく柔らかな光。そして、行き交う貨物船や港の光などぽつりぽつりとした灯りだが、そのひとつひとつは暖かな光を放ち観ている者を飽きさせない。
「あ……」
「……和泉一尉も、少々お疲れですか」
そこには、煙草片手にフェンスに肘を掛けて遠くを眺めている有坂の姿があった。
「ええ、はい。たまにここへ来ては、ただぼおっとしています。特になにを考えるとかではないのですが、ここからの景色が好きで」
有坂から少し距離を置いて、和泉もフェンスに寄り掛かる。
「……有坂特尉も、煙草吸われるんですね」
「ええ、なるべく人前では吸わないようにしていたのですが。ばれてしまいましたね」
有坂は軽く笑みを浮かべて和泉の方へ顔を向けた。顔は笑っているが、心は笑っていない。皆そうだ。上総も陽も美月も、どんなに楽しそうにしていても心の中はいつだって穴が空いている。
「あの、大変失礼なことを申し上げてしまうかもしれないのですが……」
普段ならそれが良いことでもそうではないことでも、頭に浮かんだことを特に声に出して発しようとは思わない。だけど、今はなんとなく相手にどう思われようとも話してみたいという衝動に駆られていた。
「はい、全然構いませんよ。私は特に気にしたりはしませんので」
有坂は、吸い途中の煙草を携帯灰皿に入れ、また海の方へと顔を向けた。和泉もまた海の方を向く。
「有坂特尉の組織内での評判といえば、雰囲気が優しい、頭が良い、性格が穏やか、紳士的など、どちらかというと物静かで優しい男性というイメージで」
「……なるほど」
「私も、初めの頃はそう感じていました。ですが、それは見た目だけ外側だけで、本当はまったく違うのではないかと……」
「面白い話ですね」
有坂は頬杖をついて微笑んでいる。
「有坂特尉は、その、臆病な方ですよね」
まさかの問いに、有坂は思わず目を見開いた。これは、誰にも言われたことがない。
「そう、ですね。隠しているわけではないのですが、表情に出ないんです。感情とか」
「確かに、有坂特尉はあまり表情が変わりませんね。ただ、たまにとても怯えたような顔を見せるんですよね。特定の人物と一緒にいるときなど……」
特定の人物……。まさかそこまで。
その通りだ。あの人が視界に入るだけで、呼吸が苦しくなるほどに怯えてしまうんだ。
「……見抜かれていましたか。ただ、仕事に対しては自信を持っているので、そのおかげで自分自身を保ち続けていけるのだと思います」
諜報部隊長の地位に立っていることに関しては、別段なんとも思っていない。部隊長として出来る限りやれていると思うし、この先もこの状態でいたいと思う。
でも、怖いと感じることも多々ある。それを仕事に引き摺ったりはしないが、一度恐怖を感じてしまうとなかなか忘れることは出来ない。
「私は裏表がないようで、これでもかというくらい裏表がある人間かもしれません」
「ですが、だからといって、性格が悪いとか腹黒いとかそういうことではありませんよ。演じているんだなって、すぐにわかりました。それはたとえば、我々の前と桐谷三佐との前で態度を変えられているというのとはまた違って……。えと、なんと言えばいいのか……」
「ちょっと、待ってください」
和泉の言葉を遮り、片手で顔を覆った有坂が待ったをかけた。
「三佐の前で態度を変えているというのは、その……」
「あ、たまたま知っただけです。名前で呼んでいるのも普通に話しているのも、すみません知っています」
有坂は今度は両手で顔を、いや頭を抱えてフェンスに身体を預けた。
「あれ、これってそんなにいけないことなんですか?いや、お二人は同期ですので、特におかしいことだとも思わなかったのですが……」
予想もしていなかった有坂の反応に、和泉はどう対応していいか慌てふためいた。彼のこんな姿は初めて見た。
「いや、まあ。一応は上官と部下ですので。実際、一佐と二佐にも知られてはいますけどね。……ですが、和泉一尉の仰る通りです。私はあらゆる場面、そして人によって自分を演じ分けています。その場その場で、私僕俺と一人称さえ使い分けて。唯一、三佐の前では本当の自分を出せていると思っていますし、本当の自分でありたいと思っています。それでも、やはり上辺だけの笑顔になってしまっているのかもしれませんね」
美月の前での有坂が本当の有坂。それならば、今目の前にいるのは作られた演じられた有坂なのだろう。
ただ、和泉は今この有坂自身も、本当の有坂に近いのではないかと感じていた。本当の彼は、案外どこにでもいる普通の青年と同じなのかもしれない。
「都築さんと有坂特尉はご自分のことは二の次ですが、それでも仕事が第一というようにも見えないんです。都築さんも部下のことをとても良く考えてくださっていますが、少し無理をされているような、なんだか懺悔のようなそんな気がするんですよね」
有坂は、横目で和泉の方へ目をやった。和泉という人間は、自分が思っていたよりもさらに何倍も優れた人間なのかもしれない。
「有坂特尉も、これといった最終地点はないんですよね。もっと上に上がりたいだとか実績を残したいだとか、そういった野心はまったく感じられません。良い意味で今が良ければそれでいい、とりあえず仕事が予定通りに終わればそれでいいという考えだと思うんです。それは、仕事に重きを置いた場合はむしろ良いやり方だと思います。ですが、有坂特尉自身にとっては心にぽっかりと穴が空いたままで、仕事が順調でも特に喜びもなく、毎日をただ淡々と過ごすだけの、死ぬ理由がないから生きているという哀しいものになっているように見えます」
何も言わず、有坂は遠くを眺めている。和泉の言ったことは当たっている。ただ生きているのではない、死なないから生きているだけ。生きることは、自分の中では特に必要なことではない。
「……ただ、都築さんとは似て非なるものだと」
「そうですね。私も詳しく知っているわけではありませんが、一佐にはちゃんとした理由があります。理由があってどうしようも出来ない状態です。私にはこれといった理由はありません。はじめからこういう人間なんです。仕事に対してどんな手を使ってもいいと考えていますし、その代償に自分自身がどうなろうとも構いません。やる気があるんだかないんだか、こんな人間が諜報部の上に立っているなんておかしい話ですよね」
この世界に期待などまるでしていない、そして自分にすらなんの感情も持たない人間がここにも存在していた。
第一部隊に配属が決まってから、一番近くにいた人間がそうだった。部下のことはすごく熱心に考えてくれるのに、笑っちゃうくらいに自分のことは考えない。もしかしたら、精巧に作られたロボットなんじゃないかとさえ疑ったこともあった。
「私はお二人の考え方をすぐに理解することは出来ませんが、お二人を理解することは出来ます。お二人を理解した上で今後どう接したら良いのか、自分自身も少し楽になった気がします」
「一佐はわかりますが、私もそんなに接し辛かったですか?」
ああ、今有坂は心から笑っている。微々たる笑顔だが、これが本当の有坂だ。
「……一佐が、和泉一尉は同じ特務室でさえも他には渡したくない部下だと仰っていたのがよくわかりました」
「え……」
和泉は、有坂の言葉に目を大きく開いて反応した。その様子を見て、思わず有坂は笑ってしまいそうになったのを必死で堪え話を続ける。
「和泉一尉の内側を見抜く力は、自分でも怖いと仰っていましたよ。指揮官は心を見透かされてはならないが、和泉一尉にはいつかすべてを覗かれてしまうのではないかと。なのでこれからは、今まで以上にポーカーフェイスを貫いていくとのことです」
「はは、それは困りましたね。ですが、やはり都築さんには追いつくことも難しいようです。私の内側を見抜く力が優れたものだとしても、その力に気付き、それをうまく使っている都築さんはとてつもなく上の人間です。……有坂特尉、私のことを認めてくださったそうでありがとうございました。まだまだ都築さんや有坂特尉には敵いませんが、それでも第一部隊の小隊長であることは誇りに感じておりますので、これからさらに精進していこうと励みになりました」
和泉は一礼しこの場を後にした。それを確認して、有坂は胸ポケットから携帯電話を取り出し耳へあてる。
「……予想以上でした」
ずっと通話中のままになっていた携帯電話の画面には、都築上総と表示されていた。
「なかなか面白い話をしていたな」
「あそこまで話をするとは正直驚いています。ですが、溜まっていたものを吐き出して、少しは軽くなったのではないでしょうか」
「それならいいけど。和泉や相馬にはいろいろと背負わせてしまっているから。特に和泉はなにも話さない奴だから、今日は助かった」
「いえ。しかし、本当にうまくいきましたね。それにしても、よくもここまでのことを実行してしまうとは」
今日一日の出来事は、すべて上総によって作られたものだった。相馬を出張に行かせ、和泉をわざと有坂と接触させてタイミング良く美月を向かわせた。和泉は上総に想いをぶつけてくれ、そして少し晴れ晴れしたところに陽を仕向けて心の闇を覗かせた。
それも、たまたま今日会議を行うと数日前に久瀬から聞いていたため、それに合わせて作戦を実行した。だが、和泉に対する上総の思いは真実だし、和泉となにを話すのかはすべて有坂に委ねていた。
「俺は、接し辛い人間なんだな」
「ええと、……失礼いたしました」
そういえば、途中この会話を上総が聴いていることをすっかり忘れていた。
「一方的に和泉の気持ちを知りたいがためではなく、和泉自身に話させて荷を軽くしようだなんて、本当上総らしいよね」
「てかさ、実際お前らは夢の国行くわけ?」
気付けば、屋上には美月と陽の姿があった。
「私たちは聴いてなかったけどさ、その様子だと和泉は少しは素を見せてくれたようだね。……渉も、なんかすっきりしてるように見えるけど」
「ああ、少なくとも俺といるときの有坂ではないな。やっぱ俺の前では作ってたか」
それを聞いて有坂ははっとした。しかし時すでに遅し、一方的に通話は切られていた。
もしかしたら和泉だけではなく、自分自身も今回の作戦対象になっていたのではないかと少しどきどきしながらも、有坂は軽い足取りで美月と陽の元へ向かった。
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