島とムエタイとニンニク

 美しい景色にも種類がある。


 高い建物から見通した夜景が電飾で整え上げられているのが最上とする向きもあれば、掃き溜めに鶴的な風景を好む人もいる。しかしこれらは好みによるところが大きく、一般受けという点で言えばやはり自然的な山や海、空が一枚も二枚も上手である。


 コーラル島はプーケットからスピードボートに乗って15分ほど進んだところに浮かぶ、タイ有数の観光スポットである。ボートは瞼が捲り上がるほどのスピードで海を渡る。その内に元から美しい海の色がだんだんとエメラルドグリーンに変化していく。船酔いしやすい私はぐったりしていたが、私が死んでしまう直前、ボートはスピードを緩めてコーラル島へ着岸した。


 「作画がいい」という感想を持った。新海誠作品かと思った。


 パトンビーチも確かに美しいのであるが、コーラル島には適わない。朝一番だったからか砂浜にも足跡は少なくまっさらな布団を敷いたようであり、遠浅の海に波は殆ど立たない。海から上がるとすぐに木々が立ち並び程よい木陰を提供しつつその奥に冒険を秘匿する。


 レジャーも充実しており、ダイビングや海中散歩、パラセイリングにシュノーケリング、バナナボートなどが行える。なんだか興奮してきた私は友人の意見も馬耳東風。鼻息荒くパラセイリングとダイビングに挙手した。


 ダイビング中に片足のフィンを海中に置き去りにしたこと以外は問題なく楽しんだ。楽しんだ時は楽しんだという感想しか持てないのが普段遊び慣れていない証拠となって私を責める。


 まだ日の高い時間に島を離れてパトンビーチへ戻る。夜はムエタイの試合を見に行く手筈になっていた。ムエタイは立ち格闘技最強とも称され、古くは戦争にも使われていたというタイの国技である。私は一応ニューハーフショーもあるよ、と前日の内に友人に勧めてみたのだが、「ニューハーフはいいかな」という一言で切り捨てられた。そもそもニューハーフは街を歩いていれば見かけるのである。


 タイでは古式ゆかしいマッサージ店となんだかいかがわしい匂いのするマッサージ店が並立しておりそのどれもが路面で勧誘を行っているのだから渾然一体と言う他ない。腕を取ったり、あからさまに他力によって膨らんだ胸部のふくらみを押し付けてきたりと、強引なアピールに私たちは驚いた。また、誰が男性で誰が女性で誰が"取り外した"男性なのか全くわからずたじたじとするばかりであった。


 余談だがコーラル島でパラセイリングをする際、スタッフの男性(間違いなく男性)が私の股ぐらを掴んで、

「サムライspirit」

とのたまっていたがあれは一体何なのか未だに判然としない。両性が捩れて溶け合っているような不思議な国である。


 ムエタイに備えて力を付けねばならない。我々は前述のジャンクセイロンに向かった。ビール瓶を二本と空芯菜の炒め物(私)、米の横に鶏肉を並べたもの(友人)がテーブルに載る。友人は私を責めた。変化のない男、タイに来てまで空芯菜ばかり食べるな、と言う。しかし空芯菜は神の野菜であるからして彼の態度は


「昨日も食ったんじゃねえのかよ」

というのが

「ちょっと貰うわ」

ということになり、

「追加行こう」

と魂を売り払い、

「3皿目は俺が食うわ」


と変化した。全く空芯菜の恐ろしい所である。ニンニクと唐辛子で炒めただけでなぜこれほど美味しいのか訳が分からない。ビールも二本追加し、調子の出たところで酒とニンニク臭い息を撒き散らしながらマッサージを受け(私は爆睡した)、意気込んでムエタイスタジアムに出掛けた。


 我々はVIP席というのを予約していた。一般席が1300バーツでリングサイド席が1500バーツ、VIP席は1800バーツである。VIP席にはオリジナルムエタイTシャツがついてくる。「VIPしかねえ」と我々は一致した。きっと野球の特別席のように見晴らしのいい高台にあると私は考えていた。


 VIP席は最前席なのであった。最前と言うのはリングサイド席より前と言うことで、手を伸ばすとリングに触れてしまう。なんであれば私の隣には試合の採点者が座っていた。VIPとはすなわち最も近くで見られる人のことらしかった。


「タイガージェットシンが出て来たら即殺されてしまう」

「誰それ」


 余りの近さに、私はプロレスラーを持ち出すほど狼狽していた。実際問題シンのようなヒールはおらず、また誰もリングから転げ落ちることはなかった。しかし選手同士が拳や蹴りを交えた時に飛び散る汗や水(ラウンド間で水を被ったりする)が降りかかることは頻繁にあった。


 試合は10歳ほどのジュニアから始まる。ジュニアと侮るなかれ、これがなかなか迫力があるのである。どうもムエタイとは攻めに重点が置かれているようでこの年代の子供はそれを色濃く受け継いでいる。小学校高学年ほどの少年たちがバチバチと互いの筋肉を攻撃している非日常に拍手した。


 そこから年代がどんどんと上がり、時には女性同士の試合も行われた。なんだか異常に人気のある若い選手がいて、相手をとことん挑発する。ヒートアップする両陣営のセコンドはリングにしがみついて声を荒げている。格闘技の熱狂を私はタイで初めて知った。


 しかし私が心奪われたのは試合の前に行われる儀式「ワイクルー」である。


「史上最強の弟子ケンイチ」という漫画を読んだ人は分かると思うが、ワイクルーは試合の前に師匠や両親への感謝を表明する舞であり、ウォームアップの意味もある。私は所謂「ルーティン」の効果もあると推察するが、とにかくその動作は各門派によって異なり、何となく流して行う選手、本気で取り組む選手など様々である。


 それが非常に美しかった。大相撲の土俵入りの荘厳さと、戦争へ挑む男の覚悟のようなものが相俟って神事めいて見える。あれを習得するためにムエタイを習いたいと思わなくもないが、試合の激しさ、特に脛を打ち付けあうファイトスタイルにはついていけないだろうと諦観に至る。


 3時間ほど熱戦が繰り広げられ、ホテルに帰り着いたのは0時ほどである。翌日は帰国の日だというのに眩暈と腹痛が襲ってきたが、疲れが上回りすぐに寝付いてしまった。


 後から気付いたのだが、ニンニクには副作用があった。眩暈と腹痛である。眠る私の体内ではニンニクが反乱の準備を着実に進めているようであった。

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